10 月に誓う

 思わぬタイミングでかつての従者と出くわしたが、厄介なことに共同浴場という場所柄、ふたりきりの長居はよくない。

 俯いて言葉少なになったウィレトが心配でもあったため、ティナは、彼を先に上がらせることにした。


 反対側には男性用の脱衣所があるという。もちろん明後日のほうを向いておく。


 ほどなく、女性用の脱衣所から侍女の声が聞こえた。


「聖女さま? お倒れになっていませんか」

「! ごめんなさい、大丈夫よ」


 ドキッとして湯から上がり、曇り硝子の扉を開ける。


 薔薇色の肌になったティナに、部屋付きの侍女は安心したように瞳を和ませた。


「申し訳ありません。湯あたりされていないか心配で……。いかがでした?」

「ええと、気持ちよかったです。ありがとう」


 にっこりと礼を述べ、硝子扉の向こうをちらりと見やる。


 魔族の少年ウィレトと鉢合わせたことは、漏らすべきではないだろう。

 話した内容は元より、あんなに弱った従者から戯れの抱擁を受けるだなんてもってのほか。魔王として惰弱の極み。聖女としてもいかがなものか。目撃者がいなかったのは、本当に幸いだった。


(まあ、色々…………危なかった気もするけど。相手はウィレトだし)


 不覚にも感触を思い出して赤面するティナを、侍女はのぼせたものと早合点した。てきぱきと着衣を手伝い、髪を整えてしまう。


 戻った部屋にはオードブルやワイン、食後茶の準備がしてあり、食欲が戻ったティナはありがたく給仕を受けた。



 食事をこなしつつも考えるのは、偽の魔王や謎の軍勢のこと。決して、ルークから突然もたらされたこの体ティナへの告白なんかではない。ないったら、ない。


 不思議な夢をみた気もするが、忘れた夢に事態を解決する糸口があるとも思えなかった。

 侍女を呼び出し、片付けは明日の朝にして欲しいと頼む。とにかく、ひとりになりたかった。


 自分でも把握しきれない『自分』がいるようで落ち着かない。その所在なさを、窓の外の月の光に紛らわせたくて。


 バルコニーに出てグラスを掲げる。

 ワイン越しの半月は果実のような赤色をしていた。



「私は……『セレスティナ』。いつか、必ず戻るのよ。魔王に」



 結局、訊けなかった。

 誰がたおれ、誰が生き残ったか、尋ねられる雰囲気ではなかった。

 ただ、いっそう復位への難易度は上がり、しがらみが増えた。同族の仇を討たなければならない。


 だから。


(――ごめん、『ティナ』。あなたを、しばらく借りる)


 真に謝りたいのは。

 謝るわけにいかないのは、誰なのか。

 考えるまでもなくわかる。わかってしまう。

 妙に心の距離感がゼロの勇者どのは、今も食堂なのか、それとも剣の自主稽古中なのか……。


 空にしたグラスをもて遊び、物思いに耽った。




   *   *   *




「残念だったな王子。ティナが来れなくて」

「いや? あれだけ“癒し”の力を使えば反動は大きいだろう。休めるときに休んでもらわないと。先々はもっと困難だ」

「へえ」


 食堂にいるのはアダンとルーク。それにカーバンクル。

 ルークはうろんなまなざしで対面の人物を見つめた。


 ――旅への同行を志願するあたり、この御仁はティナへの下心があるのだろうと思っていた。


 しかも、勇者と聖女の血筋を誇るリューザニア王家の、未婚の長子だ。もっと露骨に当代聖女ティナを囲い込むべくアプローチするかと思いきや、行動を共にするうち、そうでもないことに気が付いた。


 訓練は真面目だし、粗がない。誠実が服を着て歩いている。

 使用人や軍部からの評判は上々で、模擬戦闘をしてみれば紛うことなき実力者だと知れた。とにかく人格者だ。


 ティナに甘い微笑みを向けることはしょっちゅうだが、それがいわゆる女性に対するマナーなのかはわからない。


 それで、確認のためにティナが不在の夕食の誘いにわざわざ乗ったわけだが。


「――アダン王子。あんたは、全てが終わったらティナを妃にしたいのか?」

「どうしてそう思う?」


 切り込み隊長と化した勇者に、アダンは膝の上のカーバンクルを転がしながら問い返した。

 ルークは内心舌打ちした。


「どうもこうも。歴代聖女は王妃になる確率が高いんだろう? あいつを気に入ったから聖女に選んだなんて噂もあるくらいだ」

「なるほど……? でも、勇者を夫に選ぶ聖女も多いよ。平和時はともかく、『戦聖女』は、とくにね」

「……っ」


 おだやかな紺碧の視線を流され、ルークは思わず頬を赤らめた。


「ふふ、わかりやすいね」


 アダンが笑う。ふにゃふにゃとカーバンクルまでが笑う。

 不貞腐れたようなルークは、ぽつりと呟いた。


「じゃあ、魔王を倒しに行くってのは、本当にあんた個人の使命感なんだな? 王族としての」

「他に何が」

「いや、いーよ。謝る。勘ぐって悪かった」

「いえいえ、構わないよ」




   *   *   *




 食事は終わり、席を立った王子と勇者のために小姓が扉を開けた。


 ルークはこのまま鍛錬場に赴くという。

 アダンはそれを見送り、満点の星空を見上げながら自室へと戻った。書類仕事がまだ残っている。


 自力でも宙を飛べる聖獣は、なんとなく波長が初代聖女に似ているアダンに懐いている。

 カーバンクルは、ふと、規則正しい足運びの第一王子に話しかけた。「ねえ、アダンはティナを好きでしょう? どうして言わないの」


 おや、とアダンは微笑した。ほんの少しだけ歩を緩める。


「わかりますか」

「わかるよ。最初はともかく、じわじわ好きになってるよね。じれったいなぁ。昔のヴィヴィたちみたい」

「……それは……光栄というか。すごいですね」


 手を伸ばして抱き寄せて撫でると、カーバンクルはご機嫌になった。しかし、アダンは仔細を語らない。そっと人差し指を口もとに当てる。


「内緒です」

「けち」


 クスクスと笑う、不思議な一対。



 それぞれが、それぞれの思惑を胸に抱く夜だった。

 驚くべきことに、魔族領からの道案内ガイドまで手に入れて。



 ――変わり種の魔法使いの合流を待ち、旅はもうすぐ始まる。




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