9 水面の眉月、湯殿の闇夜月

 夢の底で声がする。

 沈みゆく意識。見上げる水面みなもは覚醒の光。

 ぶくぶくと細かな泡が真横を通る、そのときだけ、微かな声がした。


 “見つけて”、と。



(だれ……?)


 誰なのかわからない。

 けれど、女性だと思った。

 姿を確かめたいのに、後ろを振り向けない。

 後ろとは、つまり水底。

 永遠に似た夢はぬるい水の手触りがする。無意識の闇の波間には光る眉月まゆづきがある。


 白く、儚かった。

 はてしなく遠かった。


 声はこんなに近いのに……? 不可解さは深まるばかり。



(私はーーー、ーーーの……あら?)


 水底の泡の主に呼びかけようとした、名乗りの言葉がほどけてゆく。



 私、は。


 ………………私は。誰…………??



(あなた、は)


 問いかけはもどかしく、全くカタチを成さない。

 押し寄せる光――光。

 洪水のようなそれに、浮かび上がる意識。

 水面が一気に近付く覚醒の瞬間。

 なぜか心がひずみ、千切れそうになった。


 たった一つしかない、心で。







「……ま。聖女様。大丈夫ですか!?」

「!! あっ……、はあ、はあ。え? ここは」


 目覚めると同時に忘れていた呼気が戻る。

 ティナは荒い息の下、全身がじっとり汗で濡れているのを感じた。

 王城の、あてがわれた寝室だとすぐに思い出す。

 部屋のなかは菫がかった薄暗闇。いつの間にか日は暮れ、残照の欠片すら見当たらなかった。


 侍女は、気遣わしげに枕元の魔法水晶に明かりを灯した。


「申し訳ありません。ぐっすりお休みのようでしたので、お声をかけそびれてしまって……。大変うなされておいででした。ご気分は? 夕食はいかがなさいますか」

「夕食……」


 額の汗を手の甲で拭う。無理だな、と即断。

 代わりに入浴を申し出て、軽めの夜食を部屋に届けてもらえないかを尋ねる。


 侍女は「もちろんです」と快諾した。それから、思い出したように手を打つ。


「そうそう。じつは、このお城には天然の温泉があるのです。共同浴場になっているのでお勧めしかねたのですが、いまの時刻ならば使用人は誰も居りませんわ。魔法で温めた湯より、弱ったお体にはよろしいのでは……。ご案内いたしましょうか?」

「ぜひ」


 温泉と聞き、ティナは一も二もなく飛びついた。


(〜〜、懐かしい。闇夜月の里にもあったわ。大きな岩場になっていて……。嗚呼、あの場所もみんな蹂躙されたのかしら。婆様も……、里人たちも)


 しくしくと痛む胸を押さえ、ティナはあくまでも「疲れが出たみたい」と誤魔化した。



 夢とは異なり、藍色の夜空には半月が昇り始めている。

 夢よりも黄色みのあるそれを時おり見つめ、汗が冷えて凍えるなか、ティナは先導の侍女の背中を追った。


 ――――そのときはまさか、先客がいるとは思いもよらなかったのだ。




   *   *   *




 ごゆっくり、と告げた侍女は、「厨房に連絡してきますね」と一礼して去って行った。

 こう言っては何だが、秘密を抱える以上、たえず控えられるのも気が張るものである。

 久々のひとりっきりの入浴に、自然と顔が緩んだ。


「うわあ」


 脱衣所で衣服を脱ぎ、湯着一枚で硝子の扉を開ける。

 中身の規模はどれくらいかと身構えていたが、大きさはティナの二間続きの部屋よりは少し広いほど。青タイルが敷き詰められて、湯は乳白色。泉質はさらりとして無臭。人間たちが暮らす土地は滋味豊かなのだと、改めて思い知った。


 あまりにも広いため、体が温もったのを良いことに、湯殿ゆどのの奥にある四角い注ぎ口まで近付いてみた。

 すると。


「……ティナ様?」

「!!!!!! その声……ウィレト!? うそっ」

「嘘じゃありません。あー、びっくりした」

「それは! こっちの台詞よ……! なんで? どうして? ここ、女湯じゃないの??」

「時間帯を分けた混浴だと聞きましたが」

「聞・い・て・な・いッ!!!」

「まぁまぁ。いいじゃないですか。残念ながら裸ってわけじゃないですし」

「ばかね。透けるでしょう……?」

「やった。見てもいいんですか?」

「殺されたいのね」

「すみません。再びお会いできたのが嬉しくて、つい」

「……」


 ひとときの沈黙。

 それまでのけたたましさが嘘のように、辺りには湯の注ぐ音だけが満ちる。

 ウィレトは大切に、大切に、たったひとつの名前を口にした。


「――……セレスティナ様」


「!! すごい。やっぱりわかったの? いつから?」

「ひと目見て、すぐ。僕は王支オウシですから。対の鬼王キオウである貴女の魂はどんな姿だってわかります。本当に……。なぜ、こんな」

「っ、あ」


 ぱしゃん、と湯の表面が揺れ、ウィレトが動いた。気がついたときには抱きすくめられていた。

 蒸せるような湯気のただなか、ずっと浸かっていたらしいウィレトの肌は熱くて、服を着ていたときよりずっと生々しくて。


(!?☆▲✕♨……ッッ!???)


「ああ……セレスティナ様の玉体には畏れ多くて、触れることも叶いませんでしたが。器が人間だとこうも容易く閉じ込められるんですね。なんてこと」

「あ、あの。ウィレト?」

「はい?」

「大丈夫? のぼせてない?」

「…………ある意味、貴女に対してはそうかもしれませんが」

「どんな殺し方がいい?」

「失礼いたしました」


 すっ、と身を引く従者が急に厄介な男に思えて、ティナはみずからの肩を両腕で抱いた。もちろん防御ガードのためだ。


 それから、慌てて本題を切り出した。


「ねえ。里に来た軍は、ゾアルドリアが率いていたのではないの? 私、あいつに呼び出された拍子に何者かに“魂魄転移陣”をかけられたのよ」

「魂魄……? なるほど。だからそのような」

「ええ。それで、元の体がどうなったかも調べたいのだけど」

「わかりました。尽力します。しかし……、ゾアルドリア様とは」

「違うの?」

「ええ。おそらく」


 湯気でしとど濡れた前髪をかき上げながら、ウィレトは答えた。


「あの方でしたら、まず、間違いなく肉弾派のはずです。ですが、あのときの軍は見たことのない奴らでした。我々から見ても凶々しいというか……、穢らわしいというか」

「……具体的には?」


「主力部隊は魔力を根こそぎ吸うんです。真っ黒の霧状のからだで、カタチは人間のような。そいつに片端からやられて、無力化したところを長距離殲滅魔法が……。連行には石人形ゴーレムを使われました。不気味でしたよ。口惜しかったし――はらわたが煮えくり返りそうです。無念でした」


「ウィレト……」



 ぎり、と、歯噛みするウィレトの瞳が闇夜月やみよづきそのものの紅に染まるのを、ティナは痛切な思いで見つめた。




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