2 君の名は
人間の身体は脆い。本当に脆い。
最初は気が急いて全速力で駆けたものの、息があがれは徒歩にせざるを得なかった。
丘を下った裾野は身の丈を越える草むらで、それをかき分けながら注意深く進む。魔物の気配はない。
が、なぜか馴染みの匂いが鼻をかすめて落ち着かなかった。
馴染み――“
意識を凝らすと、風に乗って不穏な気配が届く。
浮足立つ馬の
弱者が一方的に屠られるとき特有の物音に、
(あ、まずい)
危険信号が脳裡を掠めたが、時すでに遅し。
なんと、身をひそめていた草壁を
「!」
ぎょっとして飛び退ったが、いかにも野卑な風情の男に見つかってしまう。
「やっぱりな。な〜んか、コソコソ動いてる気がしたんだよ。別嬪じゃねえか。おぉい、お頭!! 値打ちもんだぜ!」
「ああん? 連れてこい!」
「へえ!」
「な、何? あんたたち。私は……っ」
うっかり『私は魔族の』と口走りかけ、ぐっと堪える。
それを諦めと勘違いした男は、ニタニタと笑いながら近づいて来た。
「そうそう。観念したほうがいいぜ? 嬢ちゃん。ハハッ」
「やっ……! 離しなさいっ、この下衆!」
「おうおう、威勢がいいねぇ。ほら、こっち来な。良かったなぁ、嬢ちゃん。今回はお仲間も多いし、せいぜい大事にしてやるよ。綺麗な顔の娘は高く売れるからな」
(仲間……高値? あぁ、人買いか。なるほど。虫けらじみた人間が考えそうなことだわ)
――ムカムカする。
こいつら全員、薙ぎ払えればいいのに。
とはいえ、今は何一つできない。有力な攻撃手段がない。
怒りと屈辱に震えるうちに手首を掴まれ、むりやり歩かされた。
煙の出どころは商隊の馬車だった。護衛らしき杖持ちの魔法使いが倒れていることから、火魔法が暴発したのかもしれない。
死体と血溜まりを照らしつつ、今なお
――彼らがやっていることは下っ端魔物による人界への急襲よりも
魔物は本能的に生き物を殺すだけだ。それ以上はやらない。
彼らは、いわゆる冒険者や探求者とも呼ばれる“シーフ”ではなく、根っからの野盗なのだ。あるいは、傭兵崩れのならず者集団かもしれないが……。
「おらっ。ここに入ってな。妙な真似はすんなよ? 外の始末が終わりゃあ、さっさと移動だ。大人しくしてろ」
「っ!」
背を押され、放り込まれたのは壊れていない幌馬車だった。薄暗い中、ひとが何人も固まって座り込んでいる。
さめざめと泣く者、こちらを凝視して身を固くする者。その数六名。若い女ばかりだ。
さて、どうしたものか……と、思案に暮れていると、一人の娘から声をかけられた。
「あなた旅人? なんて運の悪い。捕まってしまったの?」
「あ、ええ。たしかに運は悪いほうみたいだけど……。ちょっと待って。これを」
「?」
首をかしげた女性はやや年嵩で、目立たない風貌をしていた。結い上げた髪は乱れ、あからさまに頬が腫れている。容赦ない
腰のポーチを探り、元の体の持ち主が常備していたらしい布に携帯薬を浸して渡す。
「患部に。多分傷薬だわ」
「えっ」
女性は目をみひらき、礼を述べ、おずおずとそれを受け取った。
「ありがとう。でも、外の彼らに比べればこれくらい……。あいつら最低よ。神の怒りがくだればいいんだわ」
「神の怒り?」
人間が崇める神にはいろんな種類があるはずだが、そんなにほいほいと神罰をくだすような神は聞いたことがない。
いれば、
真剣な面持ちの自分に、彼女はほろりと笑んだ。
「あたしたちは、こう見えてリューザ神の巫女なの。地方神殿の出身でね。これから『聖女』の選定を受けるために王都へ行くはずだったわ」
「聖女って!? あの……『勇者』と対になる?」
「そりゃあそうよ。常識でしょ」
いささか毒気を抜かれたように、巫女が苦笑を深める。さすがに呆れられたかもしれない。
が、頭のなかでは不慮の事態と紙一重の幸運かもしれない状況を、冷静に吟味する自分がいた。
(聖女。王都。つまり、新たな『勇者』はこれから選定される……。伝説でも謳われてるわ。“ひとりの魔王に勇者はひとり”――ということは、ゾアルドリアは即位したのね。ならば、理想は彼女たちの伝手を使って勇者一行に潜り込んで……いやいや、とにかく外のならず者たちを殲滅しないと)
「ねえあなた、名前は?」
「はいっ!? ああああ、な、名前?」
考え事の最中に突然名を問われ、慌てふためいてしまった。
えーと、名前。名前……。
魔族の名前がどれくらい知れ渡ってるのかはわからない。言うわけにはいかないな、と逡巡した隙に、ガクン! と馬車が揺れた。全員の顔がこわばる。
「どうしましょう。奴ら、もう略奪を終えたの? もう少し行けば、城塞都市のユガリアだったのに」
ユガリア。
古くから人魔大戦の最前線となりやすい、広い平原と大河を擁する大都市だ。
頭のなかでようやく現在地がわかった反面、この辺りには奇岩窟がいくつもあるのを思い出す。直感的にあいつらのアジトも近いと悟り、至極渋面となった。
と。そのとき。
分厚い
迫る地響き。
幌布をめくると、焦る野盗たちが次々に矢に射抜かれていた。たちまち押し寄せる白銀の甲冑騎馬隊と翻る旗に、巫女たちが喜色を顕にする。
「やったわ! ユガリア騎士団よ!」
「良かった。助かったのね? ああっ」
「…………うそでしょ。これは……」
きゃあきゃあと泣いて喜ぶ巫女たちのなかで、なぜか茫然と表情をなくす女性がいた。布を離して素手で頬に触れる、年嵩の巫女だ。
彼女は、きっ、と視線をあらため、通りすがりの旅人である自分に掴みかかってきた。
「あなた、どこの誰なの? 教えて、名前は」
「え、う、いや、だから、その」
うまく偽名を思いつけず、しどろもどろとしていると、ばさりと布が開けられて外の光が差し入った。眩しさに目がくらむ。
失礼します、と礼儀正しく告げた若い騎士は次の瞬間、年相応に声を裏返らせた。
「ティナ……? ティナか!!? ちょ、おいっ。どうしてこんなところに」
「『ティナ』?」
まっすぐに注がれる明るい緑の瞳。
驚いた顔は素朴にも見える。
年の頃は、この身体と大して変わらないだろう。
そんな若い騎士がどかどかと馬車に上がり込み、巫女から奪うように肩を掴んで覗き込んできた。
「お前、一体どこ行ってたんだ……! 覚えてないのか? 俺だよ。隣に住んでた……幼馴染だった、ルークだ」
「まあ! あなた、ティナさんと仰るのね」
「え、あ、はい……?」
急転直下。
まごつく私を差し置き、知らない若者と周りの巫女たちは、異様な盛り上がりを見せていた。
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