【6】あなたの演技で天使は殺せない
エマはバスの窓に映る少女の姿を手掛かりにバスの通路の何もないところを殴るが、やはり何の手ごたえもない。
ただ何もない空間をエマの両こぶしが通り過ぎていく。
これでは今までと何も変わりがない。虚しい行動を繰り返すたびに勇んでいたエマの気力が萎えていくのが分かる。
エマのある意味滑稽な攻撃をあざ笑うかのように金髪の少女は何事もないように私に近づいてくる。
もうこうなったら、バスの中を逃げ回って終点まで持ちこたえるしかない。
私は何とか通路の脇を素早くすり抜けようとする。
しかし、少女の手の圧力は私の首を逃さず捕まえてしまった。
「うぐっ」
少女はそのまま私の体に抱きついてきたのが窓に映った光景の中に見える。途端に私の体に重りが付いたように固まってしまう。
「くそっ、くそっ、どうなってるのよ。硝子さんから離れろ!」
悔しそうに私の体を揺さぶるエマの後ろに窓に映った少女は残忍な表情で笑っている。
その時だった。
バスの前方から
「そのとき、エマは硝子の瞳の中に少女の姿が潜んでいることに気が付いた!」
いや、耳から聞こえる大黒先生の声だけではない。
頭の中にも先生の声が直接響いてくる。
バスの中の空間が突如として切り替わった。
それは大黒先生の思念が直接頭の中に流れ込んでくるような感覚だった。
「そうか、鏡の中の奴にばっかり気を取られてたけど、鏡の中にあいつがいるんじゃない!」
突然、エマが叫ぶように声を張り上げる。
そのセリフも私の頭の中に直接同じタイミングで再生された。
「この呪いは硝子さんの目に取り憑いて、硝子さんの方が鏡に女の子の姿を映し出してるんだよ!」
続けて再生されるエマのセリフ。
これは何、エマの思考なの。
いや、むしろ大黒先生が私たちの発する言葉まで操っているような感覚だ。
「結局、硝子さんが女の子の呪いの暗示にかかっていただけだったのよ」
そう言うとエマは右手の人差し指と中指を立て、私の目の前に銃を打つような構えをとる。
「ごめんね、硝子さん、ちょっと痛いかもしれないけど我慢してね!」
右手を一度後ろに引くとエマはそのまま勢いよく私の目の前まで突き出した。
そのしぐさはいつもエマが人に取り憑いた悪霊を払う動作だった。
「Your performance will never kill my angel. Don't lick, rookie!(あなたの演技で天使は殺せない。舐めんなよ、新人!)」
右目の中を電気の走ったような感覚が通り抜けると鼓膜が痛くなるほどの大きな叫び声が響く。
「ぎぃやああああぁ」
叫んでいたのは私自身だった。私はそのまま崩れ落ちるようにバスの床にお尻を突いて座り込んだ。
同時にバスの窓に映っていた金髪の少女の胸に黒い大きな穴が陥没するように現れている。
金髪の少女の表情が弱々しく助けを哀願するものに鏡の中で変わる。
「私が霊気をほとんど感じられなかったのは、時間が経ってもう本当に消えかけていたからなんだね」
少女の姿を見てかエマの口調が変わる。苦悶の表情を浮かべながら私にしがみついている少女に話しかけているように聞こえた。
「そこに未来視の出来る硝子さんが来たからかろうじて呪いの暗示ができたんだね。ずっと騙されてたよ。子供とはいえさすが女優だね」
これもまだ大黒先生の思念だろうか。
エマの言葉の意味まで私の頭に流れ込んでくる。
何十年も開かずの間になっていたために少女の呪いの力は弱くなっていた。
しかし、私の未来視の瞳に取り憑くことで私の霊力を使って私自身に死の暗示を見せていたというのだ。
その暗示に私の体の方がはまって反応していたのだ。
「自分を置いて行った劇団の人たちが憎かったの? いや、憎かったのは自分を差別した周りの人間と世の中全部かな?」
エマは私に向かって聖女の雰囲気で微笑みながら問いかける。
「もう、恐がらなくてもいいよ」
エマは私に向かってすっと手を差し伸べる。
「後でアイスクリーム食べに行こうよ。私いいお店知ってるんだ」
アイスクリーム、突然場違いなセリフに聞こえたが、このセリフに私は明確な覚えがあった。
漫画の中の光景が今私の目の前で再現されていることに私の中から喜びの想いが溢れてくる。
エマと美和が私の中で重なる中、エマは最後のセリフを私に向かって
「そう、戦争はもう……終わったんだから」
込み上げる安堵感は私の感情なのか、それとも取り憑いていた少女のものなのか。
私はアクトレスエイジの夏子と同じように涙を流してエマの手を取った。
「うん、そうだね。ありがとう、エマ」
最後のセリフが私の口から発せられると、今まで気が付かなかった右目の重たい感じがすっと軽くなった。
◇
バスは無事天橋立ケーブル下に到着した。
運転手さんには激しい撮影に怒られると思ったけど、バス旅ファンだったこともありむしろ撮影事故だったのか心配された。
「あの……大黒先生、ありがとうございました。先生があの女の子の正体を指摘してくれたから切り抜けることができました」
「えっ、女の子の正体って?」
「えっ、いや、大声で私の瞳に女の子がいるとか指摘してくれたじゃないですか」
その後は大黒先生の思念が私たちに流れ込んできてその波に感化されて感情が沸き起こったほどなのに。
「いやいや、運転手さんの隣にいた僕から一番後ろの席に座ってた天野さんの目の中なんて見えるわけないじゃない」
そう言われてみれば、確かにその通りだ。だとすると大黒先生の言葉はいったい何だったのだろう。
「あれは全部今までの情報から僕の頭の中で創った設定だよ」
「せ、せってい!」
「エマちゃんが言ってたよね。霊気がほとんど感じられない存在だって」
そう言えばそんなことを言ってた気がする。
「だから、僕はすごく不安定な存在だと規定して、僕の創った世界に落とし込んだんだよ。幽霊の中でもその存在が不安定なものは強い思念でその定義づけをすることで引っ張られたんじゃないかなあ」
妖怪などもその怪現象に名前が付けられて初めて世の中に存在が定義づけられるという話も聞いたことがある。
大黒先生は私とエマも巻き込んであの女の子を自分の創造世界で存在を明確にさせたというのだろうか。
とはいえ、ここまで舞台がはまったということは先生の想像は正解だったのだろう。さすがは創作の天才だ。
「なんだか硝子ちゃんとエマちゃんの活躍を見てたら、僕の創作意欲が刺激されちゃったよ」
「そ、そんな、私たちの活躍なんて……」
「また……描いてみようかな。新しい作品を」
今回のロケの余韻に浸っているのか、大黒先生はにやけながら目を細めた。
「うわぁ、真っ暗だから、股のぞきしても何も見えないよ」
エマが天橋立に背を向け、自分の股から天橋立がある方向を見ているが当然夜の闇で何も見えない。
「それでどう、硝子さん、気分は良くなった?」
「ええ、バス旅の過酷さで憑かれてるのに気が付かなかったけど、目は軽くなったよ」
「そう、ちゃんと
股の間から天橋立を眺めるエマが穏やかな声で呟いた。
◇
帰りのロケバスのシートに座った私は両手で顔を抑えて深く息を吐き出した。
今回もまた死ぬかもしれない場面が幾度もあった。
今私は死ななかったことよりもバス旅とドラマ『パンドラファイル』の良い
自分の命が危険にさらされていたのに……。
やっとエマがドラマの主演を勝ち取り、他の番組にもお呼びがかかるまでになってきた。
けれど、こんなことを続けていたら本当にいつか取り返しのつかないことになってしまう。
そこまで考えて私はふと頭をあげた。
私とエマにとって取り返しのつかないことというのは命を失うことなのだろうか。
私はまたファンやスタッフの期待を裏切ることを怖がっているのかもしれない。
もう、あんな思いはしたくない。
「大丈夫だよ、硝子さん」
「えっ?」
不意にかけられた声に隣の席を見ると、エマが今まで没収されていた自分のスマホをいじっている。
「何か言った、エマ?」
「大丈夫だよって、言ったの」
私の問いかけにエマは答えるが、視線はスマホに向けられたままだ。
「もう、行儀悪いわね」
「今から京都で私がおすすめのアイスクリーム食べに行くんでしょ。営業時間確認してるんだよ」
「ああ……そっか、そうだったね」
「ひとりならだめかもしれないけど、私たちふたりでならどんなことでも乗り越えていけるよ」
「えっ、エマ?」
本当に勘がいい。
打ちひしがれている私を見て心配してくれたようだ。
そう、もう後戻りなんてできないんだから、私たちは進み続けるだけだ。
私のまぶたは穏やかに閉じて瞳から涙がこぼれるのを感じながら、なぜか心は安らぎ始めていた。
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