【5】私たちが鏡の中の少女を祓うことはできない

 翌朝、陽の光で目を覚ますとあの番頭さんが私たちを心配そうにのぞき込んでいるところだった。

「天野さん、何でこんなところで寝てるんですか? やっぱり開かずの間で何かあったんですか?」

 私は覚醒していない頭で昨晩のことを思い出しながら口を開いた。

「……はい、色々ありました」

 それだけ答えてゆっくりとソファから身を起こすと体中寝汗でべとべとな上に無理な体勢で寝ていたので背中や腰も痛い。

「あの、詳しいことは後でお話しますので、今って大浴場使えますか?」

「はい、うちは朝風呂もいけますのでどうぞ」

 そう言えば、昨晩スタッフが私たちの入浴シーンをお色気要素として使うので撮っておいてほしいと言っていたのを思い出す。


「あの、ちょっと入浴シーンを撮らないといけないんですけど、撮影用にタオル撒いて入浴してもいいですか?」

「ああ、はい、他にお客さんがいなければ、撮影も大丈夫ですよ」

 私はお風呂が使えることを確認すると、同じように苦しそうに眠っているエマを起こして大浴場に向かった。



  ◇



「エマ! ちゃんと隠してって言ってるでしょ、撮り直し!」

 エマが頭と肩をお風呂のふちに乗せて体全体を浮かせたような姿勢でお湯に入っているので、体に巻いたバスタオルの奥が見えそうになる。

「大丈夫だよ。ギリギリ見えてないよ」

「お湯の揺らめきの中でそれっぽいのが見えてもだめかもしれないんだからギリギリなんて責めないで!」

柚子ゆずがお湯の中を漂ってたんですよ、じゃいけないの?」

「いけるわけないでしょ!」


 ダメ出ししながらもなんとか早朝の貸し切り露天風呂でお互いの入浴シーンを撮ることができた。

 その後は貸しきり大浴場でゆっくりエマとふたり汗を流してお湯につかったことで硬く痛みのあった背中と腰も幾分ほぐれたようだった。


「これが一番マシかしら」


 昨夜の熱帯夜の中で最後の下着が汗をたくさん吸っていたが、3泊4日のバス旅の最終日なので替えの下着はもう持っていない。

 それでも1日目から3日目の下着の方が汗汚れはひどかったので、仕方なく私は先ほどまで使っていた下着をもう一度身につける。

 脱衣所で昨晩の映像がちゃんと映っているかどうか気にしながら、あの怪現象のことを私は考えていた。

 あの鏡の中の人物の正体はわからないが、エマの霊感をもってしても鏡の中にしか姿を見ることのできないあの人物……いや、そもそも人なのだろうか。

 少ししか見ていないがアレの髪の毛は金色に輝いていたように見えた。

 悪魔や異世界人と言われた方がしっくりきそうだ。


 脱衣所の鏡の前でこれからの撮影のことをどうするか考えると鏡の中に私のそばに寄ってくる金色の髪の小柄な人影が視界に入ってくる。

「エマ、とりあえずこれからスタッフのみんなを起こして……」

 そこまで言って私は気が付いた。髪の色がエマとは微妙に違う。

 着ている服も薄汚れているし、小柄なエマよりもさらに背は低い。小学生高学年ぐらいだろうか。


 鏡の中では私の隣に女の子がいるのに実際の私は鏡の前にひとりだ。

 私が声をあげる前に鏡の中の女の子は私に飛び掛かり首を絞め始める。

「ぐうっ、え、えま」

 私は締め上げられる状態を何とかしようともがくが私の手は昨晩と同じように何もないところを虚しく空振りするだけだ。


「あ、あなた、何よ!」

 鏡の中の少女の目が青く輝いたのをぼやける視界の中で確認したのと同時にエマの叫び声が聞こえる。


 次の瞬間、鏡の中の女の子に棒状のものが突き刺さる。

 エマが掃除用のモップを持って鏡を突いたようだが、鏡の穴が開いた部分から何もないように女の子は横に移動し、続けて私の首を絞める。

 昨晩と同じようにバスタオルを鏡に掛けようとも考えたが、壁に備えつけの鏡ではバスタオルを掛けることはできない。

 私はもうどうしたらいいかわからなかったので、指先で外に向かって逃げるじゃ手振りをエマに送る。


 その意図を理解したのかエマは私の体を抱きかかえるとそのまま脱衣所の外に運び出した。

 勢いよく飛び出したせいで脱衣所の外で私とエマは折り重なって倒れこんだ。

 私たちの叫び声を聞いたのだろうか、番頭さんが廊下の向こうから駆け寄ってきてくれた。


「ど、どうしたんですか。天野さん!」

 私は自分の状態を確認すると、首を絞められていた感触は消えている。

「中で、脱衣所の中で襲われて」

「ええっ、脱衣所の中に暴漢が!」

「い、いや、そういうわけでは……」

 説明が難しい。どう言えばいいのか迷っていると着替え中に襲われたので、私とエマは下着姿だったことに気が付く。

 番頭さんも目のやり場に困っているようだ。


「と、とにかく、中の確認と着替えを取ってきますね」

 そう言うと慌てた様子の番頭さんは脱衣所の中に入って行った。

 私とエマは恐ろしくて脱衣所に入ることができなかったので、番頭さんが危ないと感じながらも何もできずにその場に座って待つしかできなかった。


 しばらくすると番頭さんが私とエマの着替えをもって脱衣所から出て来た。

「中には誰もいませんでしたよ。鏡に穴が開いていたのはモップで突いたんですか?」

「か、鏡の中にも?」

 番頭さんは怪訝けげんな顔をして首をかしげる。もちろん私たちの状況を理解できるわけはない。


 その後、私とエマは番頭さんが取ってきてくれた服を着て番組スタッフと旅館の女将さんに昨晩のことを説明した。

 昨晩の映像には鏡の中の人影や襲われて逃げ出す私たちの様子もばっちり映っていた。

 しかし、逃げ出した後の固定カメラの映像を早送りで確認した分には何も映っていなかったようだ。

 そして、状況から見るに私があの鏡の中の女の子に取り憑かれてしまった考えるのが妥当な感じだった。

 エマにもあの女の子の正体が分からない以上、ここで打てる方策は何もない。


 さらに今日はバス旅の4日目でこのままゴールの天橋立あまのはしだてを目指さないといけない。

 私はバス旅の撮影が終わり次第、テンパランスの呪いの専門家に解呪してもらう段取りをスタッフにお願いした。

 女将さんには鏡の女の子の正体が分かったらあらためて連絡することを説明し、旅館を後にした。


 もちろん旅館から離れることで呪いから解放される可能性もあったが、あの開かずの間に泊まって呪われたと思われる被害者は旅行から帰った後で変死しているのだ。

 そう考えると今のところ呪いの女の子の糸口となるのは鏡だろう。

 それにしても考えれば考えるほどあの金髪の少女は恐ろしい存在だ。

 鏡の中で私を殺そうとすると現実の世界では実体がないのに私の体も鏡の世界に引っ張られて危害が加えられてしまうなんて。


 おまけにこちらからはあの少女を攻撃することができない。

 なにせこちらの世界にはあの少女は影も形も存在していないのだ。

 エマが脱衣所の鏡を突いてみたが、特に影響はなさそうだった。

 結局今のところ私に残された手立ては鏡を避けて逃げ続けることだけなのだ。



  ◇



 私たちはその後バスを乗り継いでバスの通っていない兵庫県と京都府の県境を歩いて越えることになった。

「なるほどね。鏡の中にだけ存在するのに現実の天野さんに干渉できる女の子か。興味深いね」

「大黒先生、興味深いのはわかりますけど、実際に私は首を絞められて死にかけたんですよ」

「天野さん、その女の子は幽霊なのかな?」

「さあ、でも、金色の髪と青い目をしてましたから、私としては悪魔とか宇宙人の方がしっくりきます」

「どうして?」

「えっ、どうしてって?」

「だって、髪と瞳の色だけで悪魔になっちゃうんじゃエマちゃんだってそうなっちゃうじゃない」

「あっ、そ、そうですね。すいません、そんなつもりじゃなかったんですけど」

「まあ、でも、気持ちはわかるよ。僕のアクトレスエイジの美和みわも髪の色だけで差別されたわけだからね」


 美和みわは大黒先生の漫画作品、アクトレスエイジに出てくる主人公夏子のライバルとなる女優だが、アメリカ人との混血だったために戦争が始まってからは差別を受けるようになった。

「そういえば、最初に会った時から感じてたけど、エマちゃんと硝子ちゃんは美和と夏子によく似てるよね」

「えっ、そ、そんなことないですよ」


 少し自分勝手な性格だが天性の演技力で周りを黙らせる美和と真面目で努力家の夏子、私には憧れの人物なので比べるなんておこがましいと思っている。

 けれども、大黒先生にそう思われているのなら嬉しいことだ。

「私たちなんかまだまだあのふたりには……」

 しゃべっている途中で突然私の声がせき止められる。


 最初気管に何か虫でも入ったのかと思ったが、それが何かに首を絞められている感覚だと気が付くのには少し時間がかかった。

 私の視界には再び首を絞める金髪の少女が映っている。

「ぐぇっ、ど、どうして」

「硝子さん、鏡だよ!」

 エマの叫び声に注意深く見ると道に設置されているカーブミラーに私とあの金髪の女の子の姿が映し出されている。

 エマと大黒先生はすぐに私の両脇を抱えて鏡が見えなくなるところまで私を運んでくれた。


 夏の猛暑の中私の体を持ち上げて走ったので、ふたりともへばって道路に座り込んでしまった。

「しょ、しょうこさん、だいじょうぶ、おえっ」

「え、ええ、もうだいじょうぶ。エマ、吐いちゃだめよ。映像が使えなくなるから」

「と、とにかく、鏡さえ避けていれば大丈夫なのかな」

「まだわからないけど、今のところはそうみたいですね」


 そこから私たちは進む道にミラーがあればエマが先に行ってタオルを鏡に掛けて私の姿が映らないようにして進んで行った。

 そして、どうにか京都府に入ってバスに乗り、何とか最後の乗り継ぐべきバスに到達することができた。


「やった、まだ天橋立あまのはしだてケーブル下行きの最終便があるよ」

「ま、間に合ったんだ。これでゴール確定ね」

 私たちはゴールへのバスに間に合ったことを喜び、ラストランへの喜びをあらわにした。


 天橋立あまのはしだてケーブル行きの最終バスが来る頃には夏の日が長い季節とはいえ辺りはもう真っ暗だった。

 ゴールへの最後のバスが来ると先に大黒先生が乗り込んでバスの客室確認用のバックミラーをさえぎるように立つ。

「すいません、バス旅の撮影をしてるので、少しの間ここに立ってていいですか?」

「えっ、あのバス旅ですか。いつも見てます。他にお客さんもいないので気を付けて撮影してくださいね」


 大黒先生がバックミラーを遮ってくれているうちに私とエマはバスの真ん中の乗降口から乗り込んで一番後ろの席に着いた。

 これで天橋立あまのはしだてに着いてエンディングトークを撮れば収録としては終了だ。


 その後、私の呪いを解く作業が残っているが、それは今考えても仕方がないのでテンパランスの専門家にゆだねるしかない。

 私は発進したバスのシートに深く腰掛けながらふと夜景を力なく眺める。


 あれ、バスの中に他に誰かいただろうか。


「えっ、なんで?」


 私は目を疑った。

 鏡がないのにバスの中にあの金髪の少女が乗り込んでいる。

 込み上げてくる恐怖の発作を抑えきれず、私は悲鳴を上げた。


「なんで、ここには鏡なんてないのに!」

「違うよ、硝子さん。バスの窓に映り込んでるんだよ!」


 誤算だった。

 外が夜の暗闇に包まれているバスの窓は鏡のように明るいバスの中を映しているのだ。

 金髪の少女は余裕なのか勝ち誇ったような表情でどんどん私のいる後ろの席に近づいてくる。

 バスの窓をすべて布で覆うことは不可能だ。

 バスの明かりを消すことも運転手さんへの説明が間に合わない。


「硝子さん、バスを止めて降りよう!」

「だめ、エマ、これが最終バスよ。降りたらゴール断念になるだけじゃなく4日間の撮影が台無しになる」

「そんなこと……」


 どのみち金髪の少女も後ろの席から私を逃がすつもりはないだろう。


「わかったよ、硝子さん。あいつとはここでケリを付けてやる!」


 渾身の覇気はきがこめられた声を吐き出し、視線が火を噴くようにエマは前方をにらみつけた。

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