7―33 皇帝旗の帰還
昨日の夜もエレンからは“念話”は無かった。
ちょっと寂しいが、エルザから待つように言われたので仕方ない。
『遠距離恋愛か! 遠距離恋愛は八割がた別れる事になるらしいぞ』
アイツのウザいツッコミは無視して、マリウスはいつも通りハティを連れて鍛錬に向かった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それでハインツたちに気付かれた挙句、バルバラは捕えられてしまったのか」
アルベルトがこめかみに手を当てて目を閉じる。
アレクシスとカイが項垂れて、神妙にアルベルトの前に控えていた。
ウイルマー・モーゼル将軍とルチアナ・キースリング准将も眉間に皺を寄せて二人の報告を聞いていたが、ウイルマーが二人に尋ねた。
「ハインツは全軍を呼び寄せていたのだな?」
「恐らく1000人はいるようでした」
「ハインツは何時の間にそれほどの兵を移動させたの?」
ルチアナの問いにウイルマーが眉間に皺を寄せたまま答えた。
「恐らくバーデン伯爵が手を貸しているのだろう。伯爵領から北の遺跡迄は殆ど山林だ、兵を隠して移動させるにはうってつけだ」
「恐らく逃げる時も伯爵領から教皇国に逃亡する心算でしょう」
アルベルトもウイルマーに頷く。
「地の利は完全にハインツが握っているようだ。問題はそのダンジョンだが、それについてもこちらは10階層までの情報しか無いのか?」
恐らくエルンストたちが捕えられていると思われる、古代遺跡の下にある通称『ラミアダンジョン』は、現在は危険という事で封印されていた。
初期の調査は『ランツクネヒト』が請け負って10階層まで到達し、魔物の出現しないセーフティーゾーンと、一階の入り口まで移動できるワープスフィアを発見したのだが、そこでブレドウ伯爵がグラマスのジャック・メルダースを抱き込んで、ダンジョンの探査権を奪い取ってしまっていた。
その後独自に調査を行ったのだが、その情報は殆ど開示されていなかった。
ただ、最下層に最上位のユニークモンスター、ラミアクイーンが出現し、探査チームのうち三つのパーティーが全滅し、その後危険という事で入り口に封印が施されていた。
「それについてですが、最下層まで到達した5パーティーのうち、生き残った二つのパーティーのうちの一つ『竜の息吹』は、先日公爵領への援軍に出た途上で全員惨殺され、ただ一つ残った『ローメンの銀狐』は今クライン男爵たちを警護して、ゴート村に出向いています。王都に戻るのは十日後の予定です」
「ギリギリね、それでそのセーフティーゾーンまでワープできるものは何人いるの」
セーフティーゾーンまでワープできるのは、10階層のワープスフィアに触れて、登録された者だけである。
ルチアナの問いにアルベルトが答えた。
「現在も生き残っている者は、『ランツクネヒト』所属の2パーティーとその『ローメンの銀狐』を合わせて14名、それに荷物持ちで参加したDランクパーティーが2組つだけです」
「まさか冒険者を救出作戦に使う気か?」
眉を顰めるウイルマーにアルベルトが答えた。
「全ては奥方様が明日到着してから決めますが、入り口から10階層まで辿り着くには最短ルートでも丸一日は掛かるそうです。彼らも戦力として考えていた方が良いでしょう」
アルベルトが答えた。
「あの……もう一つ問題が……」
アレクシスが遠慮がちに手を当てる。
「何だ?」
「バルバラは、例のアーティファクトを装備していました」
アルベルトがアッと言う顔をして再びこめかみに手を当てる。
バルバラはアースバルトの騎士団の標準装備品である、“物理防御”、“魔法防御”、“熱防御”、“疲労軽減”が付与された革鎧の上下と、“物理効果増”、“魔法効果増”、“筋力増”、“速力増”を付与した腕輪をクライン男爵から与えられていた。
「これでアーティファクトが二組、ハインツに渡ってしまったか。厄介な事になったな」
ウイルマーとルチアナも思わず溜息を吐く。
アレクシスとカイはいよいよ居心地が悪くなって下を向いた。
「いずれにしても奥方様が到着してからですね。明日の午後には王都に入る筈です」
そう云うアルベルトにウイルマーが言った。
「良いのか? 囚人たちは教皇国にとっては生きていてもらっては困る連中だ。それを態々、公爵夫人を指名して人質交換を行うという事は十中十、ハインツの狙いは公爵夫人もろとも全員を消す心算だろう」
「無論、それも全て分かった上で奥方様は今回の件は御自身で解決される御心算のようです」
アルベルトの言葉に今度はルチアナが頭を抱えながら言った。
「エルザがその心算ならもう、仕様がないわね。そうとなったら『戦慄の戦乙女』としてアイツにも参加してもらうしかないわね」
「何だ? そのダサい名前は?」
ウイルマーがルチアナに問い返す。
「モーゼル将軍。それをエルザの前で言ったらあんた、ぶっ殺されるわよ」
ルチアナの言葉にアルベルトもコクコクと頷いた。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
皇帝ニコラウス3世が玉座から見下ろす謁見の間に、四人の兵士が端を持って皇帝旗を広げた。
帝都中から15人の職人を集めて三昼夜修復と洗浄を行った結果、皇帝旗は新品とはいかないまでも何とか元の威容を取り戻していた。
「皇帝陛下、御旗はこの通り、無事取り戻して御座います」
軍務卿リヴァノフ侯爵が少し得意げな顔で玉座を見上げると、皇帝の傍らに立つミーシア・ドルガニョヴァが歯噛みしながらリヴァノフ候に言った。
「確かに皇帝旗は無事のようであるが、しかしリヴァノフ候。マカロフ将軍は如何致した? 将軍自ら皇帝旗を持ち帰り、無様な敗戦の報告を致す筈ではなかったかな?」
リヴァノフ候はミーシアには答えずに後ろの兵士に合図を送ると、皇帝旗を持った兵士たちが下がり、代わって数名の兵士が二つの棺桶の様な横長の木箱を持って前に進みでた。
木箱の蓋を開くと中にはやはり血を綺麗にぬぐい取られた黒と銀の二つのフルプレートメイルと、それぞれの剣と槍が治められていた。
「マカロフ将軍は使いの者に皇帝旗とバビチョフ将軍、アニキエフ将軍の遺品を某に届けさせた後、消息を絶っております」
「えーい、ぬけぬけと! 戦場だけでなく皇帝陛下の前からも逃げ出したと申すか! そのような背任行為、決して許されるものではありませんぞ」
玉座の上から怒声を上げるミーシアにリヴァノフ候が表情を変えずに答えた。
「イヴァン・マカロフは誇り高き歴戦の勇者。逃げも隠れも致しますまい。かの者は恐らく今、アナベルに出向いておる様で御座います」
「アナベルだと! アナベルは私の領地。何故アナベルにマカロフ将軍が出向くのだ?」
アナベルは4年前に帝国がユング王国から奪い取った、バルト河下流の広大な平地の中央に位置し、この土地を統治する為の居城が建てられている。
「さあ、詳しい事は未だ分かりませぬが何やらアナベルの周辺で異変が起きている模様。宮廷顧問官殿こそ何かお聞き及びでは御座いませんか?」
口元に笑みを浮べてのらりくらりと返事をするリヴァノフ候に、ミーシアが柳眉を逆立てる。
「何も聞いておらぬ! そのような見え透いた言い訳は罷り通りませぬぞ、リヴァノフ候! 陛下、これは明らかに陛下に対する反逆罪。マカロフ将軍の捕縛をお命じ下さい」
ミーシアが皇帝ににじり寄ったその時、突然謁見の間のドアが慌ただしく開けられて、急使が飛び込んで来た。
「大変で御座います! アナベルに入った外務卿マクシモフ伯爵様より火急の報せに御座います。ラナースの総督府がユング王国軍によって陥落させられました! ユング王国の謀反で御座います!」
使者の言葉に広間が静まり返った。
「ユング王国の謀反だと?! おのれ、小国風情が何を血迷うた! リヴァノフ候。直ちに追討軍を編成しなさい!」
「マクシモフ伯爵様の報告は未だ御座います! アナベル周辺の畑の小麦が次々と枯れ始めておるとの事です。このままでは収穫前に全ての小麦が枯れ果てるとの事です!」
「小麦が枯れ果てるとはいったいどういう事ですか?! ちゃんと説明しなさい!」
金切り声を上げるミーシアに使者が困惑したように答える。
「分かりません! ただバルト河の流域の上流から、木々も畑の小麦や野菜も枯れ初めて居ります。このままでは今年の収穫に多大な被害が出るとの事で御座います」
再び広間が静まり返る中で、俯いたリヴァノフ公爵が密かに口元にニヤリと笑みを浮べた。
★ ★ ★ ★ ★ ★
「と、統括マネージャー! もう魔力がありません」
ぽっちゃり体系のジュークが額にだらだら汗を掻きながら鳴き声を上げる。
「じぇ、ジェーン様! ま、前が見えません!」
牛乳瓶の底の様な分厚い眼鏡を、水蒸気で曇らせたハントも悲鳴を上げた。
「ああ、もう! 二人ともしっかりしてよ! て云うかノート村の人たちってバカなの?! なんで朝から村人全員お風呂に入りに来るのよ?!」
ジェーンが絶叫する。
マリウスは止む無く風魔法“トルネード”を最低出力で発動して水蒸気の霧を払うと、“ウォーター”で空になった温水タンクの水を一杯にした。
底に転がっている発熱の石がジュウジュウと音を立てて水蒸気を上げていたが、やっと納まった。
マリウスは今度は最低出力で満タンになったタンクの水に“ファイア”を放って水をお湯に変えた。
きょうオープンしたノート村の公衆浴場の二階の給水施設である。
マリウスは今度は冷水用のタンクに、“ウォーター”で水を継ぎ足した。
オープン初日、待ちに待った村人たちが朝から公衆浴場の前に列を作っていた。
ゴート村の人口は今現在、職人や冒険者たちを入れても450人位の筈だが、恐らく8割以上の村人が開店前から列を作って詰めかけている様だった。
開店一時間ほどでポンプの給水が間に合わずに、お湯と水の給水タンクの水が底を尽き、ジェーンとビギナー魔術師が水を足していたが、それでも間に合わずに水が無くなると、タンクの底の発熱の石が水蒸気を上げて部屋の中があっという間に真っ白になってしまった。
丁度ノート村に用事で朝から来ていたマリウスが現場を覗いてみたら、ジェーンと水道部員たちがパニックになっていた処だった。
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