7―17 ジェーンの春?
数騎の供の者を連れて、顔なじみの兵士が守る帝都の城門を深夜密かにに潜ったイヴァン・マカロフ将軍は、その儘軍務卿リヴァノフ侯爵の館を訪ねた。
「イヴァン。やっと戻ったか。それで皇帝旗は無事なのか?」
地獄の戦場から辛うじて生還した自分に掛ける第一声が旗の話かと、内心辟易しながらもイヴァンは表情には出さずに答えた。
「はっ! 少々代価を払う事になりましたが、皇帝旗は無事取り戻しております」
イヴァンの供の者が木箱をリヴァノフ侯の前に置くと、蓋を開いた。
リヴァノフ候が木箱の中の、薄汚れて、端の破れた皇帝旗に視線を向けて眉を顰めるが、それでも安堵したようにイヴァンに椅子を勧めた。
「ご苦労であった。取り敢えず皇帝旗が取り戻せたのは重畳。して、一体どの様な仕儀にて8万の軍勢がたった一日で敗退し、バシリエフの要塞まで陥落する事になったのだ?」
イヴァンはフェンリルに乗った少年に率いられた魔物の群れがエール要塞から這い出してきて、攻城軍が一蹴され、自分は敗残兵をまとめて退却したが、バシリエフ要塞に辿り着く前に要塞が陥落してしまった事、止む無く敗残兵と民間人を率いてロマニエフまで退いた事、アーリンゲ准将の囚人と皇帝旗の交換交渉に応じた事等をリヴァノフ候に順を追って説明した。
「なんと、王国は魔物を操る事が出来ると申すのか。しかしスタンピードを起こしたのは教皇国ではなかったのか? 我らはもしや教皇国と王国の罠に嵌められたのではないか?」
「某もそれは考えましたが、やはり王国が教皇国の策を逆手に取ったと考える方が腑に落ちるかと。恐らく王国は全てを知った上で事前に準備していたものと思われます」
「確かにスタンピードを我らに誘導した件といい、ユング王国の離反といい、レジスタンスとまで繋がっているらしい事といい、あまりに手回しが良すぎるな」
リヴァノフ候が腕を組んで考え込む。
「しかし皇帝陛下は最早あの女狐の言いなり。あ奴らは恐らくそちに敗戦の責を総て負わせて早々に負け戦の幕引きを謀る気であろう」
「それについて一つ面白き情報があります」
やはりそう云う展開かと思いながらイヴァンが声を落す。
「教皇国はどうやら此度のスタンピードを起こす為、公爵領のロス湖に何やら怪しげな薬を撒いたようです。そしてその薬はバルト河に流出し、恐らくその薬の所為で川の上流の木々が枯れ始めているようです」
「どういう事だ?」
イヴァンが何を言おうとしているのか分からず、リヴァノフ候が問うた。
「恐らく一月とかからず、収穫前のバルト河流域の穀倉地帯は全て壊滅するでしょう」
イヴァンは帝都に戻る途中、自分でバルト河上流の有様を見届けて来ていた。
「なんと、しかしあの土地は……」
「左様、バルト河の東は4年前、かの女狐と外務卿マクシモフ伯爵、第1騎士団のレバノフスキー将軍が謀って皇帝に強請り、無理やりユング王国から取り上げて我が物にした土地。それが全て枯れ果てるのです」
「なんと! それが真なら一気に政局が変るぞ、イヴァン!」
バルト河流域の広大な穀倉地帯の収穫は、親教皇国派の三人にとって重要な財源である。
その穀倉地帯が壊滅すれば三人の力は急速に失われるだろう。
「良かろう、イヴァン。其方は暫く我が領地オロホフの城に身を隠せ。時が来れば必ず呼び寄せる。あの女狐を今度こそ宮廷から叩き出してくれるわ」
「はっ! 何卒よしなに」
やはりリヴァノフ候はこの情報を内密にする心算のようだ。
土地の農民たちには気の毒だが、自分の首には替えられない。
イヴァンは何とか首の皮一枚繋がった事に安堵しながら、リヴァノフ候に頭を下げた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
食堂に入るとジェーンたちがいた。
「おはようございます、遅いですね若様」
「うん、訓練の後、魔道具師達と少し話をしていたんだ」
魔道具師と薬師のレベル上げは順調に進んでいるようで、昨日一日で半数以上がレベルを一つ上げていた。
今朝も朝から交代でレベル上げ施設に向かう辻馬車に乗り込んで行った。
ノルンは早くからイエルのところに出かけた後のようだった。
エールハウゼンに用があるそうで、マルティンを伴って村を出たようだった。
ノルンと仲直りするとエレンに約束していたが、肩透かしを食らってしまった。
「ちょうど良かった。ジェーンに話があったんだ」
「何ですか、仕事の話なら朝ご飯を食べてからにして下さい」
ジェーンが露骨に警戒しながらマリウスに言った。
「うん、仕事って程じゃないんだけど。一昨日ノート村に浄水場が完成してね。多分2、3日後には公衆浴場も完成するんだ」
マリウスがニコニコしながらジェーンに話を振るが、ジェーンの顔がさっと青ざめる。
「まさかそれも私に面倒見ろとか言う心算ですか。て云うか世間話みたいに言ってるけど滅茶苦茶仕事の話じゃないですか! ムリです! ムリ、ムリ!」
「ははは、大丈夫だよ、ノート村やゴート村、エールハウゼンにも求人を出して、もう5人程応募があったから。月末に獣人移住者がやってきたらそちらからも人を集めるし、早急に水道部のノート村支部を作って欲しいんだ」
「そんなに簡単に言われても今でも手一杯なのに、支部なんてとても……」
「あ、そうだ。ちょうどビギナー水魔術師が二人レベル上げ施設を卒業したから、二人ともジェーンに付けるよ。16歳と14歳の男の子なんだ」
「可愛い子ですか?」
マリリンがすかさず話に入って来る。
「うん、とても可愛い男の子たちだよ」
実はマリウスは話を聞いただけで、二人に会ってはいない。
「良かったじゃん。ジェーンにもやっと春が来たな」
「良いな、一つ年上と一つ年下の可愛い男の子。逆ハーレムね」
キャロラインとマリリンがにやにやしながらジェーンを見ると、ジェーンが真っ赤な顔で二人を睨んだ。
「やめてよ! そんなので騙されないわよ」
お、ジェーンの声のトーンが弱まった。
ここはダメ押しで。
「ジェーンは各村の水道部を指揮する水道部統括マネージャーに昇進させるよ。勿論お給料も上げるから宜しくね」
「良かったなジェーン、金も男も思いのままか。羨ましいぜ」
「今度私にも可愛い男の子紹介してね」
やめてよとか言いながら満更でもなさそうなジェーンを見ながら、マリウスはリナが並べてくれた皿の上の焼きたてのパンにバターをたっぷり塗りつけて噛り付く。
レーア村の浄水場と公衆浴場も来月には完成するが、その話をジェーンにするのはまた今度にしようとマリウスは思った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「だから右手は動かさないで、親指と人差し指だけで球を動かすのよ」
ネコ獣人のミーケが、後ろからエリーゼの手元を覗き込みながら言った。
「5の球を親指で動かすから手が動くんです。5の球は上げるのも下げるのも人差し指で動かしてください」
犬獣人のポーチが前の席で人差し指を上下に動かして見せる。
「えっと、1の球を上げるときは親指で、下げるときは人差し指で、5の球は上げるときも下げるときも親指で……」
エリーゼが青い顔で伝票を見ながら、ぽつぽつとソロバンの球を弾いている。
「違います、人差し指です。最初に玉の入れ方を正確に覚えないと、何時まで経っても目線が右手から離れないので上達しませんよ」
人族のおじさん、ミッドがお茶を飲みながら長閑な声でエリーゼに言った。
エリーゼ以外はもう業務を終わらせて、午後のお茶の時間に入っているところだが、ソロバンに悪戦苦闘するエリーゼを先輩役人たちが指導しているところだった。
「あれは何という道具ですか」
役場にエアコンの代金の入金に来ていたビアンカが、エリーゼの手元を見ながらレオンに尋ねた。
「ソロバンです。便利な道具ですよ、良かったら一つどうぞ」
レオンがそう言って、ウサギマークの付いたソロバンを一つ木箱から取り出してビアンカに手渡した。
ビアンカはソロバンを持ってエリーゼの隣の机に座ると、暫くエリーゼの手の動きを見ていたが、自分の鞄の中から帳簿を取り出してソロバンの左に置くとぱちぱちとソロバンを弾き出した。
目を左右に走らせながらぱちぱちと良いリズムでソロバンを弾くビアンカを、エリーゼが呆然と見ている。
次第にビアンカの指の動きが速くなり、視線がソロバンを弾く指を見なくなってくると堪りかねてエリーゼが立ち上がった。
「何でよ、ビアンカさん! ソロバンを使った事が有るの?!」
「え、いえ。今日初めて触りました」
「初めてでなんでそんなに上手にソロバンが使えるのよ?!」
エリーゼは納得がいかない様子だが、元々アドバンスドの商人のビアンカは計算スキルが高い。
それにしてもむしろエリーゼの方が、素質が無さすぎるのではとレオンはちらりと思ったが口には出さないで笑顔で言った。
「エリーゼさんもだいぶ上達しましたよ。あとは間違いの無いように必ず検算をして下さい」
「は、はーい……」
エリーゼがしょんぼりと自分の席に戻る。
「あの、レオンさん。このソロバン、売って貰えませんか?」
「え、差し上げますよ」
ビアンカが首を振ってレオンの腕を取った。
「そうではなくて商品としてこれを売り出したいのです。どうでしょう」
「あ、それは構いませんが、意外と組み立てに手間が掛かるのでそうですね、利益に2割5分は戴いて大体この位になると思いますが」
レオンがビアンカの手のソロバンをぱちぱちと弾いて見せるとビアンカ今度はぱちぱちとソロバンを弾きかえす。
「掛ける100個からこの位は値引きして頂きたいのですが」
「うーん。これは手厳しい。仕様がないですね。初回だけですよ。2回目以降はこの価格でお願いします」
「それはまたその時に、おほほほ」
二人の心の通わない会話を聞きながらエリーゼがポツリと言った。
「知ってる。若様が言ってわ。こういう時はこう言うのよ。エチゴヤ、おぬしも悪よのうって」
「多分それ、使い方間違っていると思うよ」
ミーケが冷めた顔でそう言うとポーチとミッドがウンウンと頷いた。
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