6―14 エレン
兵士の姿は見当たらなかった。この井戸は警備から外されていた様だった。
本来井戸はその区画の近隣住民で管理されているので、誰でも使って良いというものでは無いのだが、どうもこの井戸は随分前に管理の対象から外された井戸のようだった。
マリウスは井戸の傍らまで行くと、魔石を握って右手を井戸に翳して、“消毒”と“浄化”を付与した。
青く光る井戸を見て、マーヤが目を丸くしている。
「あの、マリウス様、それは何を?」
「ああ、井戸の水を綺麗にする魔法を掛けたんだよ」
マーヤが驚いてマリウスを見ている。
「マリウス様は本当に何でもできるのですね」
「なんでもはできないけど、こう云うのは得意なんだ」
マリウスは笑って答えると、マーヤの頭のカチューシャを見て、ポケットの中から低級と中級の魔石を取り出した。
マーヤのカチューシャに“疲労軽減”と“防寒”を付与する。
もう五月に入ったが、此処はエールハウゼンより内陸の所為か外は肌寒かった。
突然頭の上のカチューシャが青く光って、マーヤが目を丸くして驚いている。
「あ、暖かくなりました。体も軽くなったみたいです。凄いですマリウス様、ありがとう御座います」
礼を言うマーヤに別れを告げると、マリウスはマヌエラと一緒にハティに跨って、空に駆け上がった。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「御父様。何故マリウスは城に登ってこないのです」
エレン・グランベールは母親にそっくりの碧の瞳でエルヴィンに詰め寄った。
「これ、自分の婚約者を呼び捨てにするものではない。エレン、マリウス殿には今、街を守るための大事な仕事を頼んで居る。それが終れば城に登城してくる故大人しく待っていなさい」
エルヴィンが娘を宥めた。
母親譲りの真っ赤な髪をした少女は、柳眉を逆立てて父親を睨む。
「マリウスは付与魔術師なのでしょう。付与魔術師などに街が守れるのですか?」
「マリウス殿の力は特別なのだ。エルザもそう言っている」
エルヴィンが困ったように眉をㇵの陣下げてエレンに答えた。
「またそれですか。母上もガルシアも二言目にはマリウスは特別と。一体付与魔術師にどの様な特別な力があるのです」
エレンはエルザが勝手に、自分の伴侶を付与魔術師に決めてきたことが気に入らなかった。
エルマとエルヴィンの娘のエレンは、戦士職に憧れが強かった。
レアの付与魔術師等と云う中途半端なギフト持ちが、自分の一生の伴侶と云うのが納得いかなかった。
しかも相手は自分の家の寄子の嫡男だと云う。
ところがそのうちマリウスがフェンリルを従えて、ドラゴンと辺境伯に勝ったという噂が聞こえて来た。
エレンの中で、急激にマリウスに対する好奇心が膨れ上がっていた。
未だ逢った事のないマリウスの事が気になって仕方がない。
マリウスは昨日ベルツブルグに到着していると言うのに、一向に城に登城して来る様子がない。
エレンも何かベルツブルグで騒ぎが起きているらしいのは感じていたが、詳しい話は誰も教えてくれなかった。
色々な苛々を持っていく相手が、娘に甘いエルヴィンしか居なかった。
(私を待たせるなんて、なんて生意気なのかしら)
エレンは苛々を募らせながら、マリウスを待っていた。
▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽
「お待たせ致しました公爵閣下、これが我が息子マリウスで御座います」
「マリウス・アースバルトで御座います。以後お見知りおき下されたく存じます」
やっと井戸の付与を終わらせたマリウスは、ハティを伴ってクラウスと登城した。
クルトとノルン、エリーゼが同行している。
ガルシアやマヌエラ、公爵家の重鎮が見守る中で、初めてエルヴィン・フォン・グランベール公爵と対面する。
「うむ、よくぞ参いった、儂がエルヴィン・グランベールだ」
片膝を付いたマリウスが、顔を上げてエルヴィンを見上げた。
エルヴィンは背の高い、がっしりとした偉丈夫であった。太い眉と短く刈った黒髪が精悍な印象だった。
礼服の上からでも分厚い胸筋が分かる。
「エルザからも聞いている、此度は随分と世話になった。礼を言う」
敢えて鷹揚に頷くエルヴィンの視線が、マリウスの横に寝そべるハティに注がれている。
「いえ、たいした事はしておりません、お役に立てたのなら何よりです」
マリウスの畏まった答えに、エルヴィンの横でエルザが笑って言った。
「其方の御蔭で120余りの井戸が総て付与の力で守られた。守備していた兵士も街の警護に回せる。アースバルトの騎士団の御蔭で既に23名の賊を捕えている。マリウスが来てくれて一気に此方に形勢が傾いたわ」
満足そうにするエルザも、マリウスの傍らで寝そべるハティを見ていた。
エルザの胸元には公爵家の紋章である鷲を象った銀のペンダントが掛けられている。
マリウスが送ったもので、ロンメルに送ったペンダントと同じ『結界』、『索敵』、『物理効果増』、『魔法効果増』の付与が付けられている。エルヴィンも礼服の下に同じものを付けていた。
「このアーティファクトも素晴らしい出来だ。シルヴィーが現れたら次は私とエルヴィンで相手をするとしよう」
不敵に笑うエルザにガルシア達が苦笑する。
突然エルザの後ろに居た淡いピンクのドレスを着た、赤い髪の少女が、トコトコ
とマリウスの前に立った。
マリウスが立ち上がって、赤い髪の少女を見た。
「あなたがマリウス。思っていたよりチビね」
いやお前と変わらねえよ。
多分この赤髪の娘がエレンだろうと思いながら、マリウスが笑顔で礼をとると言った。
「マリウス・アースバルトです。あなたは?」
「私はエレン・グランベールよ。見知りおきなさい」
マリウスはやっぱりと思いながら、腰に手を当てて自分を睨みつけるエレンを見た。
「やはりあなたがエレン様ですか。今日はとても素敵なドレスですね」
エレンの顔がさっと赤らみ、ノルンとエリーゼがジト目でマリウスを見た。
エレンははっと我に返ると、きっと眉を吊り上げてマリウスを睨んだ。
「あなたの為に着た訳じゃないわ。それよりそのフェンリルは、あなたが使役しているの」
「ハティは友達です。別に使役している訳ではありません」
エレンが恐々とハティを見ながらマリウスに言った。
「ふ、フン、面白い事を言うのね、でもフェンリル何かより私のチェパロ様の方が上よ。私はユニークの精霊魔術師なのよ」
ハティは閉じていた眼を片方だけ開けてエレンをちらりと見たが、直ぐ目を閉じた。
「精霊魔術師ですか。それではエレン様もアマガエルを呼び出せるのですか?」
マリウスが水精霊のジャバの事を思い出しながら、エレンの話に喰いついた。
「だ、誰がアマガエルよ! 馬鹿にしているの! 私のチェパロ様は炎の精霊サラマンダーよ!」
エレンが眉を吊り上げて怒鳴った。
エルヴィンがハラハラしながら二人を見ているが、エルザは扇で口元を隠してニヤニヤしている。
「サラマンダーですか、それは凄い、是非見せて下さい」
エレンが真っ赤になって叫ぶ。
「見ていなさい! エレン・グランベールの名で命じる。出でよ炎の精霊サラマンダー!」
エレンが両手を前に翳すと、手のひらの前に小さな炎が灯った。
「おお! おお、お……?」
炎が掻き消えると空中に、所々赤い丸い斑点のある、白い平べったい体の、大きな頭に丸い大きな目をした、10センチ位のヤモリが浮かんでいた。
「や、ヤモリ?」
「ヤモリじゃないわ、サラマンダーよ!」
エレンが真っ赤な顔でマリウスを怒鳴った。
マリウスは目の前に浮かぶヤモリをじっくり眺めてみるが、どう診ても珍しい模様のヤモリだった。
精霊様は両生類縛りなのだろうか?
『ヤモリは爬虫類だよ、両生類はイモリだ』
下から覗くと、足の裏に吸盤もある。
「そんなにじろじろ見るなよ。失礼な奴だな。エレン、誰だこのガキは?」
ヤモリのチェパロが大きな目でマリウスを睨みながら言った。
「あ、やっぱり喋るんだ。失礼しました炎の精霊様。僕はマリウスです」
マリウスが恭しくチェパロに一礼する。
「ふん、まあ許してやる。おおっ! そ、そこにいるのは魔獣フェンリル!」
チェパロはハティを見ると驚いて、空中をじたばたと泳ぎ、エレンの頭の上に載って後ろに隠れた。
「ちょ、ちょっとチェパロ様どうして隠れるのよ。フェンリル何かより炎の精霊の方が上でしょう!」
「ば、バカ、エレン。フェンリルはレジェンドクラスの魔獣なんだぞ! 俺の敵う相手じゃないよ!」
「サラマンダーは最強のユニーク精霊だって言ったじゃない!」
「お前のちっちゃい魔力じゃ、一万分の一も力が出せないんだよ!」
騒がしく揉めるエレンとチェパロに、煩そうにハティが目を開けると、立ち上がってエレンの前に近寄った。
ハティの顔が間近に迫って、エレンとチェパロがぶるぶると震える。
ハティが、ふんっ! と鼻息を拭くと、衝撃波でチェパロが弾け飛んだ。
「ひっ!」
エレンの赤い髪がハティの鼻息で乱れる。
「ふんげっ!」
チェパロが床に仰向けに転がった。
吸盤の付いた手が、空に向かって広がっていた。
やっぱりヤモリでは?
チェパロの体が炎に包まれて、炎と共に姿が掻き消えた。
エレンも魔力切れでふらふらとよろめいた。
「え、エレン!」
エルヴィンが慌ててエレンに駆け寄ると、エレンを抱きとめた。
「姫様!」
ガルシアとマヌエラも、慌ててエレンに駆け寄る。
エルザは扇で口元を隠しながら、からからと笑っていた。
ハティは飽きたから帰ろうと云う様に、マリウスの胸を鼻面で突いた。
振り返るとクラウスとクルト、ノルンとエリーゼが眉を八の字に下げて、マリウスを見ていた。
もしかしてやらかしたのか?
いや、僕の所為ではないと思う。
マリウスは振り返ると、改めてエルヴィンに抱きとめられて気を失うエレンの姿を見た。
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