5―6 狙われた村
マルティンは自分の左腕にナイフの切っ先を突き刺すと、痛みを堪えて5センチ程ナイフを引っ張って傷口を広げ、ナイフを引き抜いた。
脂汗を流すマルティンに、すかさずエミリアが、血が流れる傷口に木桶の水を柄杓で掬って振り掛ける。
水を降り掛けるたびに傷口が塞がっていくのを、驚愕の顔で二人が眺めている。
三杯掛けた処で、マルティンが布で傷口の血を拭うと、傷口は完全に塞がっていた。
マルティンが今度は柄杓に掬った水を口元に持ってくると、意を決して飲み干した。
数分待つと体から疲れが取れていくと共に、傷口から感じていた痛みがしだいに取れて行くのを感じた。
傷跡を指で押さえてみるが、もう痛みは殆ど感じなかった。
「信じられんが、確かに『奇跡の水』だ」
「そうね、確かにポーションよりも効果が高いように思えるわ」
冷静になろうと努めながら、エミリアの声も興奮で震えている。
二人は行商人に変装した、ラウム枢機卿直属の、クレスト教会のガーディアンズだった。
アンナの店に立ち寄った後、西門の前の水道の蛇口から奇跡の水を木桶に汲んできて、宿に戻っていた。
「これ程の効能のある水を無償で民に与えるとは、アースバルト子爵の目的は一体何なんだ?」
「解らない、見当もつかないわ。それに一体どうやって、マリウス・アースバルトはこんな水を無限に作る事が出来るのかしら?」
『奇跡の水』は村中にある水道の蛇口をひねれば幾等でも出てくる。
この水を湛えた風呂もあり、湯も絶えず注がれていた。
人々が狂喜するのも当然で、薬師ギルドや西の公爵家が欲しがるわけである。
「それに辺境伯が何故、ここにいるのか?」
西門の蛇口に水を汲みに行った二人を驚かせたのは、巨大な赤竜が門の外で水浴びをしている光景だった。
赤いアークドラゴンの傍らに立つ男は、間違いなく竜騎士にして辺境伯家当主、ステファン・シュナイダーだった。
そして彼らを更に驚かせてのは、周囲にいる騎士団の兵士や村人、水を汲みに蛇口に並ぶ者達が、その光景を当然の様に騒ぎもせずに眺めている事だった。
それどころか、村人や旅行者が交代でホースを握ってドラゴンに水を掛けていた。
ドラゴンも全く気にした様子も無く、時々仰向けになって、腹に水を掛けさせたりしていた。
彼らはラウム枢機卿から奇跡の水とマリウスやエルマの事、アースバルト家と公爵家との秘密取引について探る様に命ぜられて、この村にやってきたが、この村には未だ彼らの知らない秘密がありそうだった。
「東の公爵家の傘下である子爵家の村に何故辺境伯がやって来る? 両家は犬猿の仲と聞いているが」
グランベール公爵家と辺境伯家が実は陰で手を握っているとなれば、教皇国にとってはかなり深刻な事態である。
「だけどこの村にはエルマ・シュナイダーがいるわ。息子のステファンが訪れてもおかしくはないのだけど」
それにしてもステファンと騎士団の兵士や村人が親し気なのは気になる。
アークドラゴンを見ても、誰も騒ぎもしないのも不自然だった。
「其方に付いても探る必要がありそうだが、取り敢えず奇跡の水とマリウスに関する情報を集めるのが先だな、あとは公爵家との秘密の取引の事も」
マルティンの言葉にエミリアも頷く。
「恐らく村人達が浄水場と呼ぶ建物と、塀で囲まれたマリウスの館に秘密がありそうだ。俺はそちらを探ってみる。エミリアは村人達にマリウスとエルマの情報を聞き込んでくれ」
マルティンとエミリアは、頷き合うと再び宿を出て行った。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「成程、随分思い切った事をしたな。全部国王に投げたか。それは私も思いつかなかったと云うか、いかにもマリウスらしいな」
ステファンがチーズコロッケに噛り付きながら言った。
半分位完成したフードコートに、ユリアの屋台も出店して貰った。
ノート村のクラークから送られてきたカトフェ芋と、ユリアの作ったチーズを使ったチーズコロッケを売り出してみたが好評だった。
カトフェ芋のほくほくした触感と、とろりとしたクリーミーなチーズが新鮮だった。
これも鉄板だとアイツが言うので、フライドカトフェ芋も一緒に売っている。
〇✕チキも欲しいと言うので、食肉用の養鶏も拡大している処だった。
新たに入った料理人たちが、交代で店に入る事になった。
ハティが大皿に盛られたチーズコロッケと肉串を、交互に平らげて行く。
マリウスもチーズコロッケに噛り付きながら言った。
「うん、イエル達と相談したけど、いっそ王都にこの村と同じ浄水施設を作って貰えば、ここの騒ぎは治まるだろうっていうのが結論かな。後は国王様に任せる事にしたよ」
アデルがフライドカトフェ芋を摘みに、エールを呑みながら首を捻る。
「そりゃ、木を揺らしてヴェノムコブラに噛まれるってやつだな、これで薬師ギルドは完全に詰んだんじゃねえか」
「知らないよ、水が欲しいなら好きに使えばいいし、此処の水を使ってポーションを作ればもっと効果のあるポーションも作れる筈だよ。ポーションは作らないけど水はよこせとか意味が分からないよ」
マリウスは憤然と言った。
「しかしそうなると向こうは追い込まれたな。猶予は半年か、若様は下手すると命を狙われる事になるかもしれないよ」
バーニーの言葉にマリウスは眉を顰める。
「うーん、そこまでするかな……?」
「身辺には注意する事だな。相手は西の公爵とクレスト教会だ」
ステファンがレモネードを呑みながら、真面目な顔でマリウスに言った。
『奇跡の水』を独占して自分達だけが利益を得る心算だったのが、逆に王都に『奇跡の水』が持ち込まれる事になって、薬師ギルドも西の公爵も一気に窮地に追い込まれてしまった。
『奇跡の水』が王都に広まって薬師ギルドがこのまま破綻してしまったら、クレスト教会が受ける損失も計り知れないだろう。
「有難うステファン、充分注意するよ。でも王都に浄水場が出来たとしても、薬師ギルドも使えるのだから、その水でポーションを作れば良いだけの話じゃないのかな?」
ポーションが売れなくなったのは、タダで手に入る『奇跡の水』の方がポーションより効果が高いと云う噂が広まったからである。
『奇跡の水』より効果が高いポーションが出来れば、貴族や裕福な者達はやはりポーションを買うのではないか。
『まあ薬や医療に、もうこれで良いやは無いからなあ』
心底不思議そうにするマリウスに、ステファンが首を横に振った。
「彼らが本当に欲がっているのは『奇跡の水』でも効能のあるポーションでもないよ。『奇跡の水を独占する権利』なのさ」
相手にとっては、『奇跡の水』を手に入れるだけでは済まなくなった。
結局マリウスをどうにかしなければ、水だけを手に入れても自分達が利益を得る事は出来ないと、相手に気付かせる事になってしまった。
「まあ、マリウスの事だから心配ないと思うが、私にできる事が有れば何でも言ってくれ。この村に何かあれば母上もお困りになる」
「うん、有難う。その時はお願いするよ」
ステファンは、マリウスの屈託のない笑顔を見ながらしみじみと言った。
「長らく睨み合った儘だった王家と東西の間を、まさかマリウスが引っ掻き回す事になるとは思わなかったな」
「引っ掻き回すなんて人聞きが悪いね。むしろこちらは被害者だと思うけど」
口を尖らせて抗議するマリウスに、アデルやバーニーも吹き出した。
「いやいや若様、それは無理ですよ」
「散々やらかしておいて、今更被害者も無いでしょう」
笑い転げる二人を見ながら、不満そうな顔をするマリウスにステファンが言った。
「我らシュナイダー家はずっと他家とは交わらず、独自の道を歩んできたが、あるいはここが時代の転機なのかもしれないな」
「どう云う意味?」
「マリウスを見ていると飽きぬという意味さ」
ステファンが笑いながら答えた。
△ △ △ △ △ △
「ステファンはまたエルマの処に言ったのかい?」
シェリルがベルンハルトに尋ねた。
アンヘル城の一室である。
ベルンハルト・メッケル将軍は、魔境から魔物が侵入して来る気配が無さそうなブルクガルテンから、兵の半分程を引き連れてアンヘルに戻っていた。
国内の政情に不穏な気配がありそうだと云う、息子のシュバルツの報告に備えての事である。
「エルマ様と云うか、アースバルト子爵殿の御子息と逢われているようですな」
ステファンがマリウスに敗れたという話は、シュバルツからの報告で聞いていた。取り敢えず東の公爵家と戦になるのは避けられたようだ。
「娘が申すには、御当主は大層マリウス殿の事が気に入ったように御座います。お互いに名前で呼び合い、まるで親友の様だと言っておりました」
「ふーん、なんだか面白そうな子だね」
フェンリルを従えて、ステファンとバルバロスに勝つだけでも驚きであるが、エルマの護衛に付けたSランクパーティー『白い鴉』の五人も、全く相手にならずにマリウスに蹴散らされたと聞く。
『奇跡の水』の話も、既にアンヘルの城下でも囁かれる様になっていた。
そしてロンメルからの文で、公爵家の一人娘との婚姻を国王が承認したと報せが来ている。国王も何やらマリウスに関心を寄せているとの噂もある。
「私も一度、その坊やに逢いに行ってみるかね」
ベルンハルトは眉根を寄せてシェリルに答えた。
「御後見様が動かれますと、何かと騒ぎになるかと思いますが」
「こっそり行けば分かりゃあしないよ。村娘にでも化けてさ」
ベルンハルトは苦笑して答えない。
エルシャの動きも気になるが、西の公爵家にも動きがあると、密偵が知らせてきている。シュバルツからの報せで、宰相ロンメルの隠密も活発に動いている様だった。
いつの間にか政局の焦点が、この辺境に向かって動き出しているその中心に、マリウスがいる事にシェリルも気づき始めていた。
魔境から敗退して二か月、次の手も思いつかずに停滞していた辺境の魔女も、そろそろ重い腰を上げてみる気になった様だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます