4―12  フェンリルの日


 ニナは焦っていた。


 東の森の傍で設置した“魔物寄せ”に、八匹ものブラッディベアが集まってしまった。


 撤退してやり過ごす事も考えたが、動揺して頭に血の上ったビギナ―魔術師のマッシュ、デリア、ティオの三人が突然飛び出して初級魔法を放ちだした。


 すっかり舞い上がってしまった三人は、ニナの静止の声も届かないようで、ブラッディベアの群れに向かって初級魔法を放ち続ける。


 彼らの“ファイアボール”、“ウォーターボール”、“ストーンバレット”は、ブラッディベアの分厚い毛皮に全く効かなかった。 


 ブラッディベアが三人に向かって駆けだしたのを見て、ニナは止む無く全員に突撃を命じた。


 ケントとルイーゼの放った矢がブラッディベアの背中に突き立つが、ブラッディベアの突進を止める事が出か無かった。


 ノルンとクララが抜けて、魔術師の火力不足が顕著だった。

 『夢見る角ウサギ』のハイデが放った“アイスカッター”が、先頭を走るブラッディベアの背中に食い込むが、それでも止まらずに三人の魔術師に突進してくるブラッディベアの巨体を、前に割り込んだニナが受け止めた。


 “物理防御”を付与された鎧でブラッディベアの突進を受け止めたニナは、剣でブラディーベアの胸を切り裂いたが、ブラッディベアは絶命しながらニナに圧し掛かって倒れた。


 “物理防御”の鎧で衝撃は躱せるし、圧し掛かる2トン近い重量に潰される事もないが、それを跳ね除ける事は出来ない。

 

 ニナは”筋力強化”スキルを全開にして何とか抜け出そうとするが、ブラッディベアの死体を動かす事が出来ず、動けなくなってしまった。


 ヘルマンとアントンが、周りのブラッディベアを止めている。

 騎士と歩兵も周りを取り囲むブラッディベアに、“剣閃”を飛ばして応戦する。


 “物理防御”を付与した革鎧を着る彼らは怪我こそしていなかったが、彼らの武器ではブラッディベアに決定打を与えるには弱く、数人掛かりでやっと一匹仕留める事が出来た。


 その間に『森の迷い人』のリーナとアルド、ビタンがやっとニナの上のブラッディベアをどかして、下敷きになったニナを救いだす。


 更にもう一匹、何とか冒険者達が止めを刺したが、既にヘルマンやアントン達も息を切らしている。 


 未だ六匹のブラッディベアが周りを取り囲んでいた。


 ふいにブラッディベアの後ろに銀色の影が舞い降りた。

 突然放たれた衝撃波で、二体のブラッディベアが弾き飛ばされて地面を転がって行った。


「フェ、フェンリル!」


 銀色の巨大な狼の額に生える禍々しい角を見て、ニナが叫んだ。

 その場の全員が凍り付いたように、動けずにいた。


「ニナ、ただいま! 大丈夫かい?」

 フェンリルの頭の後ろからマリウスが顔を出して、ニナに手を振った。


「わ、若様?!」

 ニナが口を開けてマリウスを見た。


 ブラッディベアがじりじりと後ずさりすると、踵を返して逃げ出そうとした。


 マリウスが“ストーンバレット”を連射する。

 砲弾程の石が高速で六匹のブラッディベアの頭を砕き、音を立てて六匹が地面に倒れた。


 マリウスを乗せたフェンリルが、ニナの傍に近寄って行った。

 『夢見る角ウサギ』の三人が悲鳴を上げて気絶する。


「わ、若様が何故フェンリルに乗っているのですか?」

 フェンリルを恐る恐る見上げながら、震えた声で聞くニナにマリウスが答える。


「え、フェンリルじゃないよ、此奴は僕の新しい仲間のハティだよ。宜しくニナ」

 ハティがニナの顔をペロリと舐めた。


 限界のニナは白目をむいて気絶した。


「え、寝ちゃったのニナ。疲れているのかな。皆今日はもう片付けて村に戻った方が良いよ!」


 ヘルマンやアントン達冒険者は皆、腰を抜かして座り込んだまま、コクコクと首を縦に振った。


 ハティがマリウスを背中に乗せたまま跳び上がり、宙を蹴って駆け上がると森の上を飛び越えて村の方に去って行った。


 「綺麗ね」


 「そうだな」


 ルイーゼとケントが、空を駆けて去っていくハティとマリウスの姿を、見えなくなるまで眺めていた。


  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「こら、列に割り込むんじゃない! 一人一樽までだ」

 クレメンスは西門の脇の水道に並ぶ人たちに怒鳴ると溜息を付いた。


 グラムの脚が風呂に通って三日で治ったという話はその日のうちに村中に広がり、翌日にはエールハウゼン中に広がった。


 この三日、日増しに水を汲みに村を訪れる人が増えて、喧嘩沙汰等トラブルが絶えず、連日西門と東門の水道の警備に駆り出されている。


 公衆浴場まで行列ができ、更に兵士を割いて警備に当たらせているおかげで、クレメンス自身が水道の見張りをしないといけない羽目になってしまっていた。


 幸い騎士団の屯所が完成したので、兵士や冒険者達はそちらの風呂を使う様に指示して、何とか混乱を抑えている処だった。


(全く若様のやる事は何故こうも奇想天外な事ばかりなのだ。病気やケガが治る奇跡の水だと、そんなものを皆にタダで与えたら大騒ぎになるに決まっているではないか。此の儘では薬師ギルドが黙っておらぬであろう)


「きゃーっ! 何あれ!」


「大きな狼が!」


「フェンリルだ!」


「こっちに来るぞ!」


 門の前にいた人々が叫び声を上げて、樽を放り出して村の中に逃げ出した。


 クレメンスが慌てて開け放たれた門の前に走ると、銀色の毛並みに頭に角の生えた大きな狼が、此方に向かって駆けて来るのが見えた。


 剣を抜こうとしたクレメンスの前でフェンリルが止まると、フェンリルの後ろからマリウスが顔を出した。


「ただいまクレメンス! 今戻ったよ。」


「わ、若様! 何故若様がフェンリルの背中に!」

 クレメンスが驚いてマリウスを見上げた。


「こいつは僕の新しい仲間のハティだよ、クレメンスも仲良くしてやってよ。」


 ハティはクレメンスの前と悠々と通り過ぎると、人々が逃げて、出しっ放しになっている水道の蛇口に近付いて、旨そうに水を飲み始めた。


「若様だ!」


「若様がフェンリルの背に乗って帰ってこられた!」


 逃げ散っていた人々が戻って来て、マリウスとハティを恐々と覗いている。

 マリウスが皆に手を振ると、人々から歓声が上がった。


「すっげー! 若様がフェンリルを従えて帰って来た!」


「まさに吟遊詩人が唄う英雄の様だ!」

 人々が感嘆の声を上げる。


 マリウスは水を飲み終わったハティの首を撫でると言った。

「何か一杯人が集まって来ちゃったな、ハティ。先にミリ達に挨拶に行こうか!」


 ハティは一声吠えるとマリウスを乗せたまま跳び上がり、群衆たちの頭を超えて東に向かって空を駆けて行った。


 空を去っていくフェンリルとマリウスの姿を呆然と見送りながら、クレメンスは直ぐに御屋形様に報告しなければ思った。

 

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「おい! 今若様を乗せたフェンリルが空を通り過ぎて行ったぜ!」

 石工のベンが血相を変えて、大工のフランクの傍に駆け寄った。


 フランクはマリウスの新しい館の建設の指揮を執りながら、呆れた様にベンの顔をみる。


「若様を乗せたフェンリルだと。昼間っから何寝ぼけてやがるんだ! おめえ、未だ昨日の酒が残ってんのか!」


 フランクがベンを怒鳴るとベンも言い返す。

「バカ野郎! あれっぽっちの酒でこの俺が酔っぱらうわけねえだろう! 本当に今若様がでっけー銀色の狼に乗って空を駆けていったんでい。」


「若様がフェンリルに乗ってけえって来たんなら、俺はドラゴンに乗って、かかあの処にけえってやるさ。寝ぼけてねえでとっとと仕事しやがれ!」


 ベンは首を振って東の空をもう一度見た。


  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「ミリ! レニャ!」


「あ、若様お帰りな……」

 振り返ったミリとレニャの前に、銀色の狼が空から舞い降りた。


「ついに完成したんだね、空から良く見えたよ」

 マリウスがハティの背中から嬉しそうに言った。


「あ、あ、あの、わ、若様。そ、その狼……」


 ミリが膝をがくがく震わせて、マリウスとハティを見た。

 レニャは顔が真っ青で、今にも斃れそうだった。


「こいつは僕の新しい仲間のハティだよ。可愛がってあげてね」


「か、可愛がるって、ふぇ、フェンリルじゃないですか」 

 ミリの耳がぺたんと倒れている。


「ハティがフェンリルだって、魔物が村に入って来れる訳無いよ、ハティはただの角の生えた狼だよ」


「ただの狼に角は無いです! 空も飛びません!」

 レニャが怒鳴るとマリウスがハティの背中で声を上げて笑った。


 ハティが蹲ると、ミリとレニャの前に頭を差し出した。

 ミリとレニャが固まったままハティを見る。


「頭を撫でてって言ってるよ。ハティ、ミリとレニャだ」


 ミリがマリウスとハティを見比べながら、意を決すると恐る恐るハティの頭に手を伸ばして、ハティの角の付いた頭に触った。


「柔らかい」


 ミリがそう言ってハティの頭を撫でた。

 ハティが気持ちよさそうに目を閉じる。


 レニャも恐る恐る手を伸ばして、ハティの頭に手を触れる。

「ホントだ、ふわふわ」


 ハティが目を開けると、舌を出してレニャの顔を舐めた。


「キャーッ!」

 レニャが悲鳴を上げてのけ反る。


 マリウスがまた声を上げて笑った。

「可愛いね」


 ミリがハティを撫でながら呟いた。

 耳がピンと立っている。


「うん」

 レニャも頷いてハティを撫でた。


 ルークとローザが向こうの方で恐々とこっちを覗いている。


 マリウスは二人に手を振って、こっちにおいでよと手招きながら、ミリとレニャを見た。


「ただいまミリ、レニャ」


「お帰りなさいマリウス様、ハティ」

 笑顔でミリとレニャが声を揃えて言った。

 

 

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