第四話

 前に進むことも諦めることも出来ずにいた穂乃果のもとに、担当編集の榎並美和から連絡が入ったのは、真央と会ってから数週間ほどたってからだった。


「先生、もしご都合が合えば今度御食事でもどうですか? 今後の予定も確認したいですし」


 おそらく食事はついでで、話したいことは後者についてなのだろう。書下ろしの件で美和から急かされたことは一度もないが、内心では早く答えを出してほしいと思っているに違いない。

 予定など何もないのに「すみません、その日はちょっと予定が」と返信しかけて、美和が日付を指定していないことに気づく。

 何日にしますかと聞いても、きっと美和は穂乃果の空いている日で良いと言ってくるだろう。スーパースターでもないのに、毎日予定が入っているわけもなく、適当な日付を答えなくてはいけない。

 さんざん悩みぬいた後で、穂乃果はギュっと唇をかみしめると覚悟を決めた。


 結局、この場しのぎで決断を先延ばししたところで、いつかは向き合わなくてはいけない日が来る。いつまでも見えない“その日”におびえて過ごすよりは、今我慢したほうがモヤモヤとした日を過ごさなくても済む。


(頑張らないと。そうだよ、みんな頑張ってるんだから)


 震える指先で、キーボードを叩く。気乗りしないタイピングは低速で、表示される文字もじれったいほどに遅い。

 誤字脱字が無いことを確認して送信すれば、あっという間に返事がきた。


「良かった! それでは、今度の金曜日はどうですか? 面白い料理を出すお店を知ってるんです。多少先生を驚かせてしまうかもしれませんが、味は確かです。……いえ、絶対に美味しいと思います」

(美味しいと?)


 引っかかる言いかたが気になったものの、穂乃果は深く追求することなく了承した。

 美和とは一度だけ会ったことがあるが、エネルギッシュで明るい女性だった。キリリとした顔は出来る人間特有の自信に満ちており、両親や陵介に似たオーラがあった。

 とても優秀で良い人だと言うことは分かるのだが、どうしても対面すると引け目を感じてしまうため、彼女との連絡はもっぱらメールだった。

 約束の日が近づくにつれて、憂鬱な気持ちが膨らんでいく。何度も、予定が入ったと約束を反故にしようとして、寸でのところで堪える。

 待ち焦がれている予定の日はなかなかやってこないのに、気の乗らない予定ほど早く来てしまう気がするのは何故だろうか。


 美和から指定された駅へと向かう電車内で、穂乃果は心を落ち着かせるべく好きな話でも読もうとスマホを開いた。

 いくつかの新着情報を流し見し、南原朝日の連載が朝方に更新されていたのを知って頬が緩む。

 暫く更新が無く心配していたのだが、最近は以前と同じ頻度で最新話がアップされていた。前話が気になる場面で終わっていたため、ワクワクしながら読み進める。

 集中して一気に読み、至福のため息をついた後でもう一度、今度はじっくり読みこむ。

 十話ほど前の伏線が綺麗に回収され、それに伴って新たな謎が生まれていた。


(エリーゼさんは本当に味方なのか、それとも敵なのか、これで分からなくなったわね……)


 味方の場合と敵の場合、それぞれの今後の展開を考えながら、まだ感動が冷めやらぬうちに感想を送る。


(仲間内に敵がいるって情報が正しくない場合は、それを言った町長が敵側だけど、もし本当なら……)


 この中に敵がいると町長が言ったのは、何話目だっただろうか。そこを重点的に読み込んで、エリーゼが加入した前後ももう一度読んでみないといけない。


(確か、ロマニティの町で起きた事件を解決した後だったから、三十話あたりだったっけ?)


 本格的に読もうと座りなおしたとき、車内アナウンスが次の停車駅を知らせる。美和と待ち合わせしている駅だった。

 今の今まで忘れていた憂鬱が、再び穂乃果に襲い掛かった。

 乗り過ごしてしまいたい衝動を、大人としてのマナーが止める。約束の時間にはまだ十分ほどあるが、美和はきっともうついているだろう。前回会ったとき、穂乃果が約束の時間を三十分ほど早く間違えていたにもかかわらず、美和は当然のようにその場にいたのだ。


 後ろ髪を引かれる思いでスマホをバッグに仕舞い、寸分たがわず停車ラインに停まった電車から降りる。

 閑静な住宅街が周囲に広がるこの駅は、朝夕は利用者が多いのだが、昼前のこの時間は閑散としていた。

 パラパラとしか人のいない改札を抜け、広いロータリーに視線を向ける。

 予想通り、美和はすでに到着していた。

 太い柱に背を預け、スマホをポチポチと弄っている。声をかけても良いのかどうかわからずにウロウロとしていたとき、美和が顔を上げた。


「あっ! こもっ……仁科せん……さん。仁科さん!」


 弾ける笑顔で手を振って、小走りにこちらに駆け寄ってくる。

 前に会ったときに、外ではペンネームで呼ばないでほしいことと、出来れば先生と言う敬称をつけないでほしいと伝えていたのだが、美和はキチンと覚えていたようだった。若干言いかけてはいたものの、言いきっていないのでセーフだろう。


「お久しぶりです。お待たせしてすみません」

「全然待ってないです。私も本当に今さっき着いたばかりで」


 前も同じようなことを言っていたと思い出す。大人の気遣いというやつなのだろう。

 美和はスッキリとした黒のスーツを着ており、背中まである長い髪をポニーテールに結んでいた。端にレースのついた黒いシュシュが、全体的に引き締まった格好の中でわずかに浮いていた。


「本日はわざわざご足労いただきありがとうございます。食堂はここからそう遠くない場所にありますので」

「食堂、なんですか?」


 てっきり、ランチもやっているお洒落な喫茶店か、やや高めの値段設定をしているファミリーレストランの類を想像していたため、穂乃果は驚きに目を見開いた。

 いつも隙のない優秀な彼女と、どこか家庭的な響きのある食堂とがうまく結びつかずに混乱する。


「あ、食堂って言っても、せん……仁科さんの想像しているものとは全然違うと思います。あそこは、何でもあるんです。中華から洋食から和食から、本当になんでも! 見た目も食堂感はなくて、お洒落な……いや、お洒落なのかなあれ? うぅーん……たぶんお洒落な感じです」


 何とも曖昧な言葉に、穂乃果の警戒心が強くなる。


「その食堂の名前って、聞いても良いですか?」

「コピペ食堂って言います。禁断って書いて、コピペって読むんですよ」


 美和の表情は朗らかだったが、どう聞いても怪しい店名に、穂乃果の顔は引きつっていた。

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