第五話
真央ならば、行きたくない場所には行かないとはっきり言っただろう。彼女は自分の意見を持っていて、例え周りが賛成をしている事柄でも、反対ならそう主張できるだけの強い人だった。
けれど、穂乃果は違う。
自分の意見と言うものがなく、嫌だとしても周りが賛成しているのならばと流されてしまう。
今だって、気乗りしないながらもそれを口にすることは出来ず、美和の後ろをポテポテと歩くことしかできなかった。
「ここです!」
美和が指し示したのは、外観はいたって普通のお店だった。レンガ模様の壁紙が貼られた壁に、木の扉に銀のノブ。何の変哲もない、どこにでもある可愛らしい雰囲気のお店だ。
レースのカーテンがかかった小窓もお洒落だったが、禁断食堂と書かれた看板だけが異質に見えた。
美和が扉を開け、勝手知ったる様子で中に入っていく。穂乃果も渋々ながらも彼女に続けば、紙とインクの香りがふわりと漂ってきて顔を上げた。
中は、どう見ても書店だった。
入口以外の三方全ての壁に大きな本棚が設置され、中にはぎっしりと本が詰まっていた。ざっと見た限り日本語の本が多かったが、見慣れない言語で書かれた本もあった。
「美和ちゃん、いらっしゃい」
よく響く低音に目を向ければ、スラリとした体躯の男性が立っていた。
一見すると穂乃果と同じくらいの年齢にも見えるが、もう少し若いような、それでいて年上のような、不思議な人だった。
「お久しぶりです! 約束通り連れてきちゃいました」
「まぁ、それじゃあその後ろのかたが……?」
低音に似合わない、柔らかな口調だった。
「そうです、胡桃胡桃先生ですよ」
どうやら美和は穂乃果のことを伝えていたらしく、慌てて鞄から名刺を取り出す。たくさん印刷したのは良いが、ほとんど使うことのない名刺は、家にまだ大量に余っている。
革の名刺入れから一枚取り出して差し出せば、男性も自身の名刺を差し出していた。
白地に金文字が躍る名刺は上品で、淵にはグルリと囲むように蔓の模様が描かれており、右端には本の絵が、他の端には果物や肉の絵が描かれている。
左上には小さく禁断食堂と、中央には大きく名前が書かれていた。
「初めまして、胡桃胡桃と申します。えっと……
「
「すみません、一文さんですね」
「学人で良いわよぉ。みんなそう呼ぶから」
学人が右手をひらひらと上下させ、ヘラリと微笑んだ。
「そう呼ぶって、大体みんなマスターとか店長って呼んでるじゃないですか。学人さん、自分の名前お客さんに教えないから」
「ただの食堂の店長が、いちいちお客さんに名前言ったりしないでしょう?」
「ただの食堂ならそうかもしれませんけど、ここを“ただの食堂”って言うのは無理があると思うんですよね」
美和が意味ありげな顔で周囲を見渡した時、穂乃果は疑問に思っていることを思い切って聞いてみることにした。
「あの……ここって、書店、ですよね?」
「禁断食堂だって言ってるでしょう?」
「えっと……禁断食堂っていう名前の書店ですよね?」
「まぁ、欲しいって人には本を売ることもあるけど、でも基本的にここは食堂よ。ほら、イスとテーブルもあるでしょう?」
中央にポッカリと空いた場所に設置されているテーブルを示してそう言うが、逆に言えばそれ以外に食堂らしいものは何一つとしてない。
入口以外は全て本棚に囲まれており、奥の長机にポツンとレジが置かれているだけだ。食堂にはあってしかるべきなキッチンは、どこを探しても見当たらない。
「もしかして、二階や地下が食堂なんですか?」
「残念ながら、このフロアしかないわ」
穂乃果が美和に助けを求めようとしたとき、視界の端で学人が呆れたように首を左右に振っているのが映った。
「美和ちゃん、もしかして穂乃果ちゃんに何も言ってないの?」
自然に呼ばれた下の名前に、思わず顔が赤くなる。
男性にそう呼ばれるのは、小学生以来だった。同性ともうまく話すことのできない穂乃果は、異性とは余計に話せなかった。よく言えば無口、悪く言えば愛想のない穂乃果は男性から下の名前で呼ばれることはなく、名字で呼ばれていた。
「だって、素直に話したところで到底理解できることじゃないでしょう? 下手すると、私の正気を疑われて、“担当を変更してください!”なんてことになるじゃないですか! 私嫌ですよ、胡桃先生の担当から外れるの!」
美和が唇を尖らせながら、学人に食って掛かる。
穂乃果だって、美和が担当でなくなるのは嫌だった。また一から新しい編集と関係を作り上げるなど、考えただけでも胃が痛む。
「それなら、今話しちゃいなさいな。それとも、私が実際に調理している場面を見せる?」
「話します! 話しますよう! だから、調理はちょっと待ってください! いきなりあんなの見せられたら、驚いちゃいますから!」
両手をあわあわと動かしながら、美和は学人を押しとどめると穂乃果の前に立った。ここまで近づいたことが無かったため分からなかったが、美和は穂乃果よりも頭一つ分は背が高かった。
ガシリと両肩を掴まれ、穂乃果は困惑した。振りほどこうと思えば出来る程度の力で掴んでいるのだが、その手は心なしか震えているように感じた。
「胡桃先生は、ここが書店じゃないかって言いましたよね。でもあれ、食材なんです。と言うか、食材を入れてる箱なんです、本は」
「……はあ……?」
「ですから、本は食材を入れてる箱で、本棚は食品棚みたいな感じなんですよ!」
「……えっと……」
「本の中の文字は、食べ物なんですよっ!」
熱く語られるが、言っていることの意味は分からない。美和の手の震えもおさまっており、穂乃果よりも熱い体温が肩を温めていた。
「……学人さん、ダメです。やっぱり私の説明じゃわかっていただけないみたいです! どうしましょう」
今まで聞いたことのない情けない声で、美和が学人に助けを求める。
学人は全身の空気を吐ききってしまうのではないかと思うほどに長いため息をつくと、額に手を当てて力なく首を振った。
「あのねえ、あんな説明で理解できる人なんているわけないでしょう。美和ちゃんは本当に説明下手なんだから。……でもね穂乃果ちゃん、美和ちゃんの言っていることは本当よ。ここは、文章をコピペして料理を作るの」
「あぁ、だから
言うんですね。そう続くはずだった言葉は、言い終わる前に霧散していった。
一つ謎が解けたた途端に、また新たな謎が眼前に出される。最初の謎よりもより大きな謎を前に、穂乃果の思考はついていけなかった。
(文章をコピペして料理を作るって、どういうことなの?)
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