第九話
ジンベエ鮭は、禁断食堂に入りきらないくらいの大きさだった。
外にまで突き出ていては街中が大混乱になるだろうと危惧したのだが、杞憂だった。男性の力は食堂の外にまでは及ばないのか、室内に収まりきる部分だけが文字から物へと変わっていた。
天井に広がる白い腹に包丁を入れれば、真っ赤なイクラが零れ落ちた。しかしそちらには用はないらしく、男性は一瞥もくれることなく一切れを切り分けると、他の部分を文字へと戻した。
床に散らばった卵が黒い点となり、さらさらと消えていく。テニスボールほどの大きさのイクラに興味をそそられたが、口に入りきらないそれを食べる様子を思い浮かべ、すぐに思い直した。
イクラは、食べると口の中でプツリと音を立てて中身が弾ける。それをあの大きさで再現したならば、全身がベシャベシャになるだろう。
そもそも、“もう一度あなたの隣に立つために”の世界では、あのジンベエ鮭は食用として扱っているのだろうか。もしそうなら、イクラはどうやって食べているのか。
あれこれと悩んでいるうちに、鮭が焼ける良い音とともに焦がしバターの香りが十夜の鼻をくすぐった。
体長五センチほどの小さなネズミが、自分の何倍もある鉄のフライパンを器用に動かして鮭を調理していた。
「あのネズミは?」
「“学校裏のダンジョンで一攫千金と思ってたのに、そこは呪われていました。最奥の魔物を倒さない限りネズミの姿から戻れないなんて聞いてない!”の、ダンジョンに住んでいる料理人の
「川田……八郎、さん」
どう見てもハツカネズミにしか見えない小さな彼は、呼ばれたのに気付いて髭を動かすと、元気よく「あいよ!」と答えた。
その声はネズミにあるまじき低音で、声量と相まって室内が震える。あの小さな体からどうすればあの声が出るのか、不思議で仕方がなかった。
「あいお待ち! ジンベエ鮭のムニエル一丁!」
フライパンの取っ手部分に勢いよく乗れば、鮭のムニエルが宙を舞った。十グラム程度しかないであろう彼が飛び乗ったからといって、フライパンが動くとも思えなかったのだが、鮭は綺麗に空中を飛ぶと男性が持つ真っ白なお皿の上に着地した。
ほのかな湯気を立てる鮭にレモンを絞りかければ、ジュワリと音を立てた。
皮目はパリパリで、身はしっとり。バターの濃厚な香りに、柑橘の香りが加わる。添えられているのはホウレンソウのソテーだろうか。濃い緑色が、鮭の色を引き立てていた。
美味しそうにてらてらと光る鮭の香りを吸い込めば、バターとレモンの間に微かにガーリックを感じる。何とも言えない香りが食欲を掻き立て、ナイフで身を切るとフォークを突き刺した。
口の中で鮭の油とバターが混じりあい、ガツンとしたガーリックのパンチを感じる。予想以上に強い味を、レモンの酸味がキュッと引き締めてくれる。箸休めのホウレンソウのソテーもバターたっぷりで、鮭と一緒に食べるとレモンの酸味が和らぎ、その分ガーリックの味が濃く感じられた。
普段は皮までは食べない十夜だったが、フォークが当たるたびにパリパリと良い音を立てるそれを、思い切って一口齧ってみた。
柔らかな鮭の身とは違う食感と味に、父親がお酒のあてとして食べていたことを思い出す。良く焼けば旨いんだと言っていたが、酒飲みの戯言として聞き流していたのが惜しくなるほどに美味しい。
「お口直しに“東京銀河一丁目交番”の宇宙オレンジで作ったシャーベットをどうぞ」
華奢なシャーベットグラスに盛られていたのは、濃い藍色のシャーベットだった。時折銀色の何かがキラキラと表面を走り、そのたびに柑橘の香りが広がった。
「あの……色が、凄く青いんですが?」
「そうね。でも、宇宙オレンジはそういう色だから、何も問題はないわよ」
にっこりと微笑む男性の顔と、毒々しい色のシャーベットを見比べる。口に入れるのに勇気がいる色をしているが、漂ってくるのは華やかなオレンジの香りだ。
まだ鮭の油が残る口が、爽やかなシャーベットを求めているのがわかる。
今まで食べてきたものも、食材の内容こそ不思議だったが、どれも美味しかったのは否定できない。
スプーンに小さめの一口を取り、目を瞑って口の中に押し込む。
瞬間、今まで食べてきたどのオレンジよりも濃い味が、口の中に残っていた魚の味をかき消した。
冷たいシャーベットが舌の上で溶け、パチパチと弾ける感触がする。そのたびに、花のような香りが鼻に突き抜けた。
「美味しい……」
「そうでしょう、そうでしょう? 次のお肉もすぐに用意するからね!」
嬉しそうにそう言いながら、早速コピペをしようとノートパソコンに向き合う男性の姿に、十夜は首を傾げた。
「次の、お肉……ですか? え、これが最後のデザートですよね?」
「何を言っているの? フルコースを用意するって言ったじゃない。次はお肉よ」
【絶命したばかりの人魚を八千代が手早くさばき、真っ赤な肉を取り上げると、不要な上半身を海に投げ捨てた】
「ちょちょちょ、不穏な文章が見えたんですが!?」
「え? どこ?」
男性が肉の文字を撫でれば、赤味の強い肉が空中に浮かび上がった。
「そ、そ、それ、人魚の肉ですよね!?」
「えぇ、そうね。それが?」
「人魚の肉なんて食べて大丈夫なんですか!?」
「大丈夫よ。だって“
そのタイトルには見覚えがあった。
今回唯一ホラーで受賞した話で、閉鎖的な田舎にやってきた人々が村の禁忌を犯して呪われる話らしい。あらすじだけ読んだのだが、なかなかに怖そうだったことは覚えている。
「人魚の肉なんて食べて、呪われません?」
「呪われたりしないでしょ。十夜君は過去に鶏や牛を食べて呪われたことあるの?」
「ないですけどっ! だって人魚ですよ!?」
「でも、食用よ?」
永遠に平行線をたどりそうな話に頭を抱える。
「大体、人魚の肉って魚じゃなくて肉のくくりなんですか?」
「”なぜかその村では家畜を連れてくると翌日には骨だけを残して死んでいるため、人魚の肉は牛肉の代わりとして食べられている”って書いてあったから、魚ではないんじゃないかしら? 味も”牛肉よりも甘く濃厚”ってあったし」
空中に浮かぶ肉は、人魚の肉だと言われなければ牛肉にしか見えない。
噛み応えのありそうな肉はきめ細かなサシが入っており、かなり美味しそうだった。
「そうだわ、どうせなら千早ちゃんと同じようにおろしポン酢で食べてみる? ちょっとフランス料理っぽさはなくなっちゃうかもしれないけど、確かおろしポン酢も作れたはずだし」
「姉も食べたんですか!?」
「えぇ。あの時はレッドスカイファイアードラゴンのお肉を出したのよ」
「……あれ? その名前、どこかで聞いたことがあるような……?」
かなり昔、何度か目にしている言葉のはずだった。
記憶をたどっていき、昔に読んでいた本のことを思い出す。
「もしかして、ウィスティリア・ネームレスのレッドスカイファイアードラゴンのこと……ではないですよね?」
「十夜君、読書家なのね。そうよ、その本のことよ」
声にならない悲鳴を上げる。
レッドスカイファイアードラゴンは、十夜が小学生の頃に夢中で読んでいた本に出てきたキャラクターで、かなり重要な存在だった。
勇者アークが魔王と対峙する直前、突如として今まで助言をしてくれていたレッドスカイファイアードラゴンが牙をむいた。自分を倒すだけの力がなければ魔王には勝つことができないと、命をかけた最後の試練として立ちふさがったのだ。
アークに勝ってほしくて、けれどレッドスカイファイアードラゴンにも死んでほしくなくて、ぐちゃぐちゃな感情のまま読んだ結末に、幼い日の十夜は号泣した。
英知と勇気を象徴していて、いつも厳しくも優しかったあのドラゴンの肉を、千早が食べただなんて。
「嘘だろ千早姉……」
「あら? もしかして十夜君も食べたいのかしら?」
ガクリと肩を落とす十夜に追い打ちをかけるように、男性が呑気な声をかける。
十夜はキっと彼を睨みつけると、今日一番の声量で言い放った。
「絶対に、食べませんからねっ!!」
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