第三章 才

「話、聞いてくれる?」

 遠い放課後の喧騒。私は鏡の前で言った。

 トモキは目を見開き驚いたが、すぐに表情を綻ばせ頷く。どうしてか、それだけで胸がいっぱいになった気がした。

 私は昨日までの出来事を全て話した。画家になることが夢であり、毒親に苦しめられている事を。きっと愛する娘なら許してくれると信じていた事を。でも現実は無慈悲だった。

 私にもある筈だと思っていた才能はいつまで経っても開花してくれないし、親は描くことさえ認めてくれない。最近は描く理由を見失うことが多い。だとしても描き続けているのは、それが全てで、私のこの手に残ったものはそれしか無いからだ。

「もう死にたい」

 本音を吐き出してしまう。抑えが効かない。

 早く楽になってしまいたいんだ。何もかもやめたいんだ。

「嫌」

 無意識に項垂れていた顔を上げる。濁る視界の向こうで、彼は変わらず見つめていた。

「俺は君の絵が好きだよ。だから見られなくなるのは嫌」

 トモキは神妙な面持ちのまま言う。

「君の話を聞いた上で話すけど、俺には母親がいない」

 予想外な台詞に驚きが漏れてしまったが、彼は慣れているらしく一笑して片付けた。

 母親がいたのはトモキが三歳の頃だという。彼の母は幼い彼を連れて出かけた先で交通事故に遭ったそうだ。歩道の上にいた親子のもとに車が突っ込み、彼女は子を庇って死んだ。生き残った幼い子は母の鮮血に塗れながら呆然としていたらしい。

 妻の死をきっかけに彼の父は虐待をし始めた。今でも時折、過剰な暴言を吐かれるそうだ。

「大切な人を突然失くすのだから仕方ない」

 諦めの声音は冷たい床に落ちる。

「君は両親の注ぐものを愛じゃないと言ったね、でも俺には愛に感じる」

 トモキは長い息を吐くと、こちらの反応を窺うのに上目遣いで見てきた。私は目を伏せさせ俯く。

 彼の言葉に納得してしまった自分がいた。一方あれを認めるのは虫唾が走る。異常とも言える拉げた愛なんてただの柵にしかならない。しかし彼は、こんな愛でさえ羨ましく感じるのだろう。家族がいる事、トモキにとって憧れを抱かずにはいられないものだ。

 顔を上げ、隔たりの向こうにいる彼に視線を向ける。心配の表情だった。私は口元を緩める。

「話してくれてありがとう」

 トモキは小さく頷く。本当に彼は、繊細に描かれた水彩画のようだった。


 *


 淡く点いた赤信号を眺め、俺は思案に耽っていた。自転車のペダルに掛けた片足に視線を下ろす。

 夢中になってキャンバスに向かう彼女からは到底考えられない過去に、耳を疑ってしまった。親から絵を描く事を、好きな事を否定されているなんて苦しいのも当たり前だ。それでも諦めずに美術室にやって来る彼女は、どれほどの痛みに耐えていたのだろう。

 信号が青に変わった。ぐっと体重を掛けてペダルを漕ぐ。

 彼女の話だけを聞くに、口で両親を説得させるのは難しいのだろう。だからこそ彼女は賞を取ろうと頑張っているのか。

 自宅に着くとすぐ錆の酷い急な階段を上った。二階の突き当たりの扉の鍵を開ける。

「ただい、ま」

 習慣だった誰にも向けていない帰宅の声が、その刹那しぼむ。狭い玄関に投げ出された古い靴が視界に入ったのだ。反射的にリビングへと顔を向けると光が明滅していた。

 逡巡の後、足を動かす。ドアを開けるとそこには父がテレビを点けたまま眠っていた。夕暮れが過ぎているのにも関わらず、明かりも点けずに丸まっている。薄暗い居間に煌々とテレビが流れていた。

 起こさぬよう、まずは普段通りカーテンを閉めた。明かりは点けずにテレビだけを消してその場を去ろうとする。しかし背後から布の擦れる音がした。

 思わず振り返る。視線の先、父が上体を起こしてこちらを見つめていた。眼光は鋭く睨みに近かった。

 彼の薄い唇が開く。

「灯祈」

 俺の、名前。

 久しく聞いていなかった声が鎖となって体を縛る。脳裏を埋め尽くすのは恐怖の二文字。

 怒らせ、た?

「ご、ごめんなさ」「夜は何が食べたい」

 彼の言葉をよく咀嚼する。俺は酸欠の魚のように口を何度か開閉させて、ハンバーグと答えた。彼は、そうかと言って立ち上がる。

「買ってくる」

 相変わらずの生気のない声音。機嫌が良いのかも悪いのかも分からない。でも何故か今は近くに居て良い気がした。

「お、俺も行く」

 考える間もなくそう言った。彼は一瞥して何も言わない。

 行きの道中は互いに口を噤んだ。だが、この人の隣を歩いているという事が俺にとっては堪らなく嬉しかった。

 閉店間際の閑静なスーパーに並べられた、プラスチック容器の数は少なかった。目的のものは見当たらなかった為、オムライスとナポリタンの弁当を二人揃って手にする。

 帰路はレジ袋の音が静寂を埋めてくれた。日はもう落ちて人も影もない。住宅街の生活音が微かに鼓膜を撫で、窓から漏れ出る明かりが道を僅かに照らす。

 結局ほとんど話す事もないまま帰ってきてしまった。なぜ付いて行ったのか、実は俺もよく分かっていなかったりする。

 黙って席についた。

「最近はどうしていた」

 威圧のある声で問われる。俺は執筆していたと返した。

 こんな会話、いつぶりだろう。ここ半年はまともに顔も合わせていなかったし、それより前は一方的な暴力か無言だった。

 彼はナポリタンを口に運び、追って尋ねる。

「まだ書いていたのか」

 首肯。俺も常温のオムライスを頬張る。出来合いものの味がした。

「夢は諦めてないのか」

 首肯。ぼそっとした卵の味が舌に張り付いた。次々に胃へ詰め込まれていく。

 問う声が一旦途切れ、彼は鼻で大きく溜息を吐いた。暫く各々の食事に集中すると、あっという間にプラ容器は空になってしまう。

「いい加減、大人になれ」

 その言葉には、すぐ反応できなかった。

 腹の辺りからひやりとした何かが落ちる。首が錆びてしまって上手く動かない。ゆっくりと向かいに座る彼を見ると、冷や汗が額を伝った。

「お父さん、それって」

 俺が口を開くと彼は立ち上がる。俺には父を声で引き留めるほどの勇気は持ち合わせていなかったから、去る彼の背を黙って見送ることしかできなかった。

 大人になれ。

 その言葉は俺の心に書き殴られた。


 *


 七校時目はずっと上の空。

 ノートの隅に描いた落描きを見て、ふとトモキの顔が浮かぶ。彼も今頃は授業を受けているのだろうな。

 彼と初めて出会った時、余りにも自分の顔と似ていたから目を疑ったものだ。性別の違う双子かと思った程である。鏡で合わせたように、私には左目元、彼には右目元にあるホクロ。そして利き手は、私が左で彼は右なのだ。偶然と言えば偶然だが、運命的なものを感じずにはいられない。

 先生が側を通る。さり気なく落描きを左手で隠した。

 彼はいつまで鏡の前に立ってくれるだろう。あのキャンバスを描き切ってしまったら、トモキは二度と現れない予感がするのだ。

 でもその日、彼は姿を現さなかった。

 翌日も翌々日も、鏡に映ったこちらの景色が剥がれることはなかった。

 声を掛けても向こう側から返ってくる筈の声はなく、物音すら聞こえない。トモキが部室にさえ来ないなんて事があるだろうか。締め切りが近いと言っていた小説はちゃんと書いているのか。もしかしたら事故や病気で学校にすら来ていないのかもしれない。

 不安と孤独に浸かる日が一週間と続いた今日。

 鏡の布を取るのが何だか億劫になってしまったなと、伸ばした手が宙を彷徨う。

 すると窓から入り込んだ風がふわりと布を浮かし、床に落とした。露わになった鏡は瞬間、私を映したがすぐさま違う教室を映し出す。そこに立つのは暗幕を利き手で握った少年。

「ユイヒ」

 彼は僅かに目を大きくしているが声に抑揚はない。だが今の私にはどうでも良かった。

 その姿を視界に捉えた瞬間、私は鏡に歩み寄り両手を叩きつける。強すぎたのか表面はびりびりと振動した。彼は気圧されるように半歩下がると、何か言い出そうとして口を動かす。しかし構わず私は遮った。

「何してたの」

 怒っているつもりはない。とはいえ今は冷静でなかった。

 トモキは、ごめんと呟いてから静かに説明する。父が帰宅していた話だった。

 初めてまともな会話をして、初めて面と向かって一緒に食事をした。そして「大人になれ」と言われたと彼は俯く。

 唐突な距離の近い交流の後、突き放される言葉を投げつけられ、彼の心は余裕がなくなってしまった。感情の起伏について行けずに混乱してしまったらしい。

「分かってたんだ。俺は早く自立して、お父さんを楽にしてあげなくちゃいけないんだって。でも」

 脳内を巡るのは、親孝行か自分の夢か。暗幕を握る手に力が籠る。彼は涙を流しながら絶叫した。

「夢を捨てる事が大人になる事なのか? 俺は子供でいたいから夢を見てんじゃないッ」

 端正な顔を歪ませる彼は、雨と風に煽られている花のようだった。過酷な仕事をしている父の為に夢を諦めるべきか、今まで暴力を振るってきたから反抗すべきか。彼の心は右往左往を繰り返し、疲弊してしまっていた。

 嗚咽を漏らしながらトモキは蹲る。此処に来るまでの一週間、熟考に熟考を重ねても決断できずにいたのだろう。書く手が止まってしまうほど、泣き崩れてしまうほど考えても答えが出ず、私の元へ来たようだ。

 自身の膝に顔を埋めた彼を見て、私もしゃがみ込む。

「私は諦めてほしくない」

 強くも優しい口調で伝えた。彼はすすり泣くだけで顔を擡げてはくれない。

 現実を見ろと言われたのは私も同じ。いつまでも夢に酔いしれてはいけないのは私も知っている。それでも憧れは胸を塗り潰してくるし、盲目にさせるくらいに惨い。

 だからこそ。

 憧れを抱いたしまったのならそれに従ってしまえ。やらないで悔やむなら、やって過去の自分を呪えばいい。

「子供は親に迷惑を掛けるのが当たり前の存在。愛する我が子の迷惑なんて可愛いものだよ」

 ぴくりと彼は体を震わせる。陰る面は涙でぐちゃぐちゃだ。芯のないか弱い声で言う。

「でも、お父さんは、俺を愛していない」

「そんなことない」

 苦痛の渦に飲み込まれそうな彼に私は首を振った。

 愛するのと好きだという気持ちは違う。私は両親が大嫌いだけれど、愛していない訳ではない。彼の父親もきっと私と同じで、息子を恨んでいても愛している筈だ。でなかったらトモキは此処にいない。十七歳になるまで一緒に暮らしたりなんかしない。あの言葉は、将来彼が一人になっても生きていけるように言ったのだ。今の私になら分かる。

「大人になれって言葉は、お父さんなりの愛なんだよ」

 ばっと彼が顔を上げる。戸惑っているような、ほんの少し歓喜に近いような表情だった。トモキは赤く腫らした目で聞き返し、私は真っ直ぐ見つめて頷く。彼は僅かに口角を持ち上げた。

「なんだ、俺、ちゃんと愛されてたのか」

 腕の傷跡に雫が落ちる。心の膿んだ傷口を洗い流すように彼は泣いた。


 限界を超えていた愛への執着は散っていき、トモキは平常心に戻ると穏やかな表情になった。彼は苦笑して謝罪の言葉を口にする。私はあいこだと笑って返した。

「俺はまだ小説家を目指すよ」

「私も画家を諦めない。一緒に頑張ろ」

 秋の匂いを抱いた風が吹く。

 不意に私はぽつりと呟いた。

「私たち卒業したら、もしかして二度と会えない?」

 背負う太陽が翳る。呼応するように鏡の向こうが明るくなった。トモキは目を細めて言う。

「直接会えばいいじゃん」

 彼の返答で不覚にも胸が熱くなった。私は照れくさいと思いながら提案する。

「そしたら大人になってからがいい、二十歳になって夢を叶えているか報告会しよ」

「二十歳って早くない? 叶えてる自信ないよ」

「じゃあ、切りが良い二十五歳になったら」

 微笑みかけると、トモキは肩を竦めつつ頷いた。

 楽しみな一方不安は強い。直接会うという点もそうだが、何より互いが夢を叶えられているかが気掛かりだ。今よりもっと頑張らないと。

 鐘が鳴る。帰宅を促すチャイム。私は夕焼けに照らされた壁を眺めた。

「今日はもう帰ろ」

「だな。ユイヒまた明日」

「うん、またねトモキ」

 同時に布を鏡に被せる。普段より周囲が明るく見えた気がして、私は大きく伸びをした。


 トモキに会ったのは、それが最後。翌日、鏡は消えていた。

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