第二章 黄水仙の綴り
俺は
「トモキ、居る?」
今日は聞かないと思っていた声に顔を上げた。目前には暗幕を被せられた大きく分厚い板が立っている。
慌てて立ち上がり、それに駆け寄ると暗幕を勢い良く退かした。ふっとこちらの姿が反射したが、すぐに別世界を映し出す。それ――鏡には無理に笑みを作っている少女が映っていた。
友人のユイヒだ。
「どうした、今日は」
「ちょっとね」
乱れた長髪から覗く目の色はすっかり沈み、力のない笑みが痛々しい。彼女は俯いて口を開けようとしなかった。明らかに様子がおかしいと思い、慎重に尋ねるも大丈夫としか言わない。
「君の方は進んでるの?」
ユイヒの問い掛けに握っていたノートへ意識が行く。まだ書き出しの途中だと返答した。それを聞いた彼女はゆっくりと口を動かす。
「そっか」
ユイヒはそれ以上何も言わなかった。こちらの不安げな面持ちに気付けないほど、切羽詰まっているのだろう。
彼女の事は心配でならないが、こちらにはやらなくてはいけない事がある。俺は悪いと感じつつ席に戻った。
ノートを開くと今しがた書いていたページに遡る。並ぶ文字たちに引かれた無数の線。そのすぐ隣に書かれた代わりの文章を読むが、何度読んでも納得できずに棒線でまた消す。
先程からずっとこの状態だ。書いては消し、書いては消しての繰り返し。当たり前だがこれで話が進む訳がない。俺は頭を抱えた。
将来何になりたいか。そう問われれば小説家と答える。
とはいえ簡単になれるとは思っていない。だから大学は文学系のものを考えたのだが、教師にも父親にも猛反対される結果となった。反抗心からか、諦めきれずに今に至っている。
当時はやってやろうじゃないかと意気込んだものの、少し考えてみれば結末なんて見えている。未熟で曖昧な文章力で人を揺さぶれる訳がない。才能の芽さえも見えない人を認めてくれる筈がない。
でも機会は存在している。才能が開花しなくても、そもそも無くても、書き続けなくてはいけない。だから物語を綴る手を止めずにいるのだ。
不意に鏡の向こうの少女が動き始めた。
何をするのかと目線だけを向けると、彼女はノートを取り出す。こちらを見ながらスケッチを始めた。僅かに瞳の色が強くなっている。
心の何処かで力が抜けると俺はページを新しくした。
切りの良い所で面を上げると六時だった。いつの間にか朱色の日が差し、外部活の声が聞こえなくなっている。
椅子から立ち上がって鏡を見ると、彼女も片付けをし始めていた。
「ユイヒ」
俺の呼びかけに少女は顔を向ける。すっかり落ち着いたのか返す声は平気そうだった。
安堵した俺は小さく苦笑して言う。
「気が向いたらでいいから聞いてやるよ、話。大した事は言えないけど」
助言に似た言葉を聞いて彼女は一度目を見開くと、ふわりと微笑んだ。陽だまりのような暖かな声音で感謝の言葉を口にする。
まだ心の傷が痛むのか、辛そうにしていることには変わりなかった。
*
「ただいま」
日が落ち、窓の外では住宅の明かりが点々としている。靴を脱ぐと手早くカーテンを閉めた。
父親は今日も夜勤。ぐちゃぐちゃに敷かれた布団が眠たげに丸まっている。
息を殺すリビングに、彼が食べたであろうインスタント食品のゴミが放置されていた。隣には吸い殻の溜まった灰皿が眠る。
ちょっと前は吸っていなかったのに。
吐き気を覚える臭いが容赦なく鼻孔を突く。スクールバッグを背負ったままビニール袋を広げ片付けていった。
父親が壊れたのは俺が幼い頃。原因は妻――俺の母親の事故死だそうだ。
彼女が死んでから彼は別人のように狂い、息子に暴力を振るった。彼女を殺したのはお前だと叫んで。
その所為もあり独りでいる事が多かった俺は小説と出逢った。時間を、父を忘れさせてくれる大切な友人だった。
日課になった物語との戯れの中、一つの疑問にぶつかった。
愛するとは何か。
他の本を読んで、親は自分の子供を愛するものだと知った。
では自分はあの人に愛されているのか。あの暴力は愛なのか。それを一身で受け止めるのが子供の役割なのか。
――そんな筈がない、あれは単なる虐待だ。
振り翳された事実に違うと言いたかった。自分は愛されているんだと言いたかった。でも辿り着いた答えに納得してしまった。
俺は、やはりあの人に愛されていない。
自分も他の子のように与えられているんだと思っていた。だけど違った。あの暴力は愛じゃなかった。暴言を吐くのも、食事を作ってくれないのも、たまに謝罪しながら抱き寄せるのも、愛じゃなかったんだ。
威圧のある彼の背中に付いてきて十年以上経つ。母がいた頃の父なんて覚えていない。息子の事をどう思っているのか、母はどんな人だったのか。知りたくても何故か知ってはいけない気がした。
今もこの先の展開に、結末に、期待してはいけない気がするんだ。
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