描き散る、書き蕾む
朧
第一章 著莪の描き
私は
美術室の外れに置かれた
布をめくる。鏡だ。それも此処でない別の世界を映し出す魔法の鏡である。
布を退かす。一瞬こちらの世界を反射したが、思い出したかのように向こうの世界を映し出す。隔たりの向こうは此処と似た教室。そして、膝の上にノートを開き胡座をかく少年。
「トモキ……って、また地べたに座ってる」
「ユイヒ。こっちの方が集中できんの、君だって言えないだろ」
注意する私に、彼は呆れたふうに笑った。彼の右目元のほくろが少し歪む。
少年はトモキという。私と同じ高校二年生で文芸部に所属しているらしい。彼が今いる場所も文芸部の部室だそうだ。
彼は小説を書いていた。普段通り書きの世界に没入しているのだろう。
私も自分のことをしようとイーゼルを立て、まだ殺風景なキャンバスを置いた。バケツに水を入れ、汚れたパレットの上に絵の具を出す。きゅっと唇を結んで筆を握る。
鏡から三歩下がった場所に広げられた描きの世界。
鏡の中にいる少年を絵の主役にするつもりだ。
「あ、移動した方がいい?」
視線に気付いたのか彼がノートから顔を離す。私はお願いと言い、筆を水で濯いだ。
暫しの沈黙。各々の世界に浸り楽しむ時間。
私はこの時間が大好きだ、言葉のない空間で描く事が。私が生み出す色と触れ合う事が。
生きている中で一番好きだと思えるんだ。
鐘が鳴る。
そろそろ校舎が施錠されてしまう時刻だ。片付けを始めるのと同時に、トモキが立ち上がった。
「じゃあ帰るね」
「はーい、お疲れ様」
彼は片手を振ってから暗幕を広げ鏡を覆う。向こうが見えなくなると鏡はこちらの姿を映した。魔法の時間は終わり、只の鏡に戻ってしまったのである。
私も白い布を鏡に被せて道具たちに別れを告げた。
*
「何時だと思っているの」
帰宅早々、玄関で待ち構えていた母親に問い質される。俯いたまま微動だにしない娘に彼女はわざとらしく嘆息した。
「また絵を描いていたのね、もう呑気にしていられる時期じゃないのよ」
きつく制服の裾を握りしめる。私は口答えしようとしたが、すぐに臆病の色に塗り上げられ何も言い出せなかった。
説教が終わると自室へと逃げ込む。
これはいつまで続くんだ。いつになったら自由になれるんだ。今まで幾度となく繰り返してきた自問をする。しかし答えなどが出る訳もなかった。
私は両親に大切にされて生きている。その自覚は幼い頃からあり、愛されているのだと思っていた。
二人は昔から彩度の低い言葉を口にしていた。将来の為、立派な大人になる為という褪せた言葉ばかりを並べる。それが二人の愛ならば疑うこともなかった。
その頃から自分の顔面に親孝行という色を塗り始めるようになる。剥がれる度に絵の具を貪った。
だが小四の夏に事件は起こる。
授業内で描いた私の絵が賞を取ったのだ。私は認められたのだと分かって、二人に絵を見せることに決めた。きっと褒めてくれる筈だと思った。
「画家になりたいの」
二人は絶句していた。
希望で溢れる瞳をした娘を、彼等は異物を見るような目で返す。手渡された絵を躊躇なく破り捨て、微笑を浮かべ否定した。娘の肩を掴み虹彩の死んだ目を合わせる。ふと気づいてしまった。
これは、愛じゃない。
散り散りになる絵。私が両親に抱いていた純粋な愛も散っていく。失望に近い色が脳を満たしていった。
描きたい、彼等の歪んだ価値観さえ圧倒するほどの素晴らしい絵を。あの口から凄いねと言わせたい、認めさせたい。
それから私は二人に反抗することを誓った。娘には才能があると、画家になれると認めるまで続けるつもりである。
*
今日は部休日。まだ日が高い。
帰宅して自室へ向かう途中リビングから微かに声が聴こえた。押さえつけるような、囁き合うような声だった。
「どうしたら結灯は絵を辞めるんだ。想って鞭打ってきたのが水の泡だぞ」
いつも以上に低い声が鼓膜を揺らす。父の囁きは娘の喉を絞めるのに十分だった。
目の奥が熱い。体が臆して動いてくれなかった。削ったばかりの鉛筆で胸の内側を引っ掻き回されているようだ。
私は静かに家を出た。何度も転びそうになりながら不透明な視界で走る。
何処に向かうかなんて分からない。助けを呼ぶことも出来ない。頼れる人も近くにはいない。
酸素が頭に回っていないからか、知らないうちに学校へと戻ってきていた。汗が流れ出て涙なのかも判別できない。
私は昇降口から目的地まで行くのに、かなり時間を掛けてしまった。心臓が痛い。
階段を登った突き当たり、明かりのない美術室が退屈していた。
鍵を開け覚束ない足取りで向かう。
布に包まり眠る鏡の前に立つ。徐ろに布を引きずり下ろすと、そこには醜い私が立っていた。酷い形相だ。
でも良いと思った。彼になら、この無様な姿を晒しても。
私は震える喉を振り絞った。
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