蟹と荒波

戀一色

蟹と荒波

 目を瞑りたくなる程の明るい快晴の下で、信楽戎はただ目前の景色を眺める。身に降り注ぐ鴎の鳴き声。ジャリジャリと聞こえる浜の音や潮風の匂い。戎の体を海が支配していた。防波堤に着き、哀愁に満ちた手つきで、手帳と万年筆を取り出す。創作のためのアイデアを書き記しておくものだが、いつもなら踊るように進む筆も、一向に動く気配がない。

「大丈夫かな……あいつ……」

ポツリと呟く。あいつ――来栖渚は戎の幼馴染、現在は山の灯台の近くの病院に、手術のために入院している。渚が元気な頃は帰宅途中に来ていたこの場所。とある賞に応募したことがきっかけで高校生ながら作家として人気を博していた戎は、渚の鼻歌を聴きながらネタを考えるのが日課となっていた。

「いつもは煩いと思ってたけど、いざ無くなると……寂しいだな」

笑い飛ばすように言う。実のところ、手術とは聞いていたものの、何の病気なのかは戎はわかっていない。教えて貰えなかったのだ。加えて面会は家族以外許されておらず、ろくに会えていないことが更に不安の火種を煽っていた。深いため息を吐き、滑るようにその場に座る。

「……今日は辞めだ」

そう言って寝転んだ視線の先、二匹の蟹が遊歩していた。そのうち一匹は右の鋏が欠けている。

「親子かな……てか怪我してるな、可哀想に」

そう言いながら、戎は破顔した。こんな小さき生き物、しかも右鋏がない大怪我。しかしながら、懸命に生きているその姿に、きっと渚も大丈夫だろう。そう安堵したからだった。視線は頭上の青へ昇っていく。気持ちのいい微風に眠気を誘われて、次第に瞼が重くなる。

「こんなところで寝てたら、海に落ちちゃわない?」

突如としてかけられた声に驚き、勢いよく飛び起きようとしたその矢先、頭上の影に気づかず頭をぶつけてしまう。

「いったぁ……て大丈夫!?」

「あ、あぁ……ぶつかって悪かった」

額をさすりながら声の方へ振り返ってみる。そこには、居るはずのない人物が立っていた。

「渚!?どうしてここに!?」

渚にそっくりな、ショートカットに組紐を横に結んだ少女。言葉を返す間もなく、彼女の体は蛇に巻き付かれたかのように強く締め付けられる。強く、それでいて優しく。何かに怯えているのか、微かながら震えさえ感じられた。

「ちょ、ちょっと!痛い!痛いよ!」

「あ、あぁ……ごめん……」

先ほどの興奮のしようから一転、バツが悪そうにゆっくりと離れる。

「渚……よかった。本当によかった……もう会えないかと……」

「な、渚って……誰のこと?」

地面にポツリと雫が落ちる。戎の視線が少女の頭からつま先まで、重く沈んでいく。

「だ、誰って……お前の……お前の名前だよ!」

どうしたんだよ……尻すぼみに呟く。穏やかな波の音、鴎の鳴き声に二人は包まれる。口を開いては閉じて、少しの逡巡のあと少女は言う。

「わ、私は杉咲なる!な、夏休みの間だけこの近くのおばあちゃんの家に帰ってきてるの!」

「……あ、あぁ……そう、なのか……だ、だよな、よく考えれば……あいつがここに来ることなんて……」

膝をストンと落とし項垂れる。啜り泣きと共に呻きが漏れてくる。

「お、落ち着いて!えっと……ほ、ほら!深呼吸!」

だんだんと呼吸を落ち着かせていく。吐いた悲しみが澄んだ空気に溶け切った頃、漸く戎は口を開いた。

「……すみません。ありがとうございました……」

「落ち着いた?よかったよかった!何か訳ありみたいだね……どうしたの?私でよければ話聞くよ」

返事は返ってこない。戎は胸の辺りを抑え続けている。

「その……渚?って子がどうかしたの……?」

「渚は……僕の幼馴染で……」

深呼吸を挟みながら、ゆっくりと話し始める。波に吸い込まれそうな弱々しい声を聞き漏らすまいと、なるの目は真っ直ぐ戎に向いていた。

「いつも僕を助けてくれて……太陽みたいな子だったんです」

「そっか……あ、敬語じゃなくていいよ」

気をつかうの、大変でしょ?まさに天真爛漫、そんな笑顔で、なるは言う。

「あぁ……えっと、それで少し前からどんどん元気がなくなって……」

「うんうん。それで?」

「ついに最近、入院して……手術だって言うから……」

再びか細くなって消えゆく戎の声。なるはその続きを待つ。

「つい、心配になって」

「そっか……何の病気かとかは……?」

俯き首を振った。諦念が滲むその様に釣られて、なるも言葉を紡げなくなっていた。纏わりつくどんよりとした空気。切り裂くように船の汽笛が鳴る。

「心配……だよね……でも、きっと、きっと大丈夫だよ!」

「そう……かな」

震えた声で心配そうになるを見つめる。その目からは、恐れが、しかしその奥には期待がこちらを覗いているようになるには感じられた。

「だって、ずっと昔から仲の良かった君に詳しいことを言わなかったってことは、心配しなくて大丈夫だよって、遠回しに言ってるんじゃないかな?」

「そっか……そうだよな……大丈夫だよな!」

初めて笑顔を見せる戎。過度な心配から、少しの希望へと舵は取られたようだった。気がつけば日は傾き始め、水面は橙色に輝いていた。

「……あ、呼ばれちゃった。渚ちゃん。また会えるといいね!じゃあまたね!」

大きく手を振りながら、なるは去っていく。夕陽に照らされ影は大きく伸びていく。

「あ、そーいえばなんだけど!」

思い出したようになるを呼び止める。

「都会の高校って、夏休みに入るの、早いのか?」

脈絡のない質問に目を丸くする。一度首を傾げて答える。

「そ、そうだよ!一昨日ぐらいから!君は夏休みいつから〜!?」

「来週から〜!」

また、どこかで会えたらいいね。大きな声で残し、また背中を向けて走り去っていく。なるの足音に驚き、蟹をつついていた鴎がそれを咥えて飛び去っていく。

「きっと……大丈夫」

明かりのつき始めた灯台に一瞥して、戎は帰路についた。



 希望へ面舵をとって間もなく、渚の手術が成功したと云う知らせが入った。久しぶりに登校するという日、戎は遅れて学校へ向かった。坂を上って数十分、海が展望できる高さに姫の待つ城が聳えている。疲れか、はたまた別の理由か、竦む足を精一杯動かして教室へ辿り着き、部屋を開けると多くの友人に囲まれている渚がいた。

「あ、久しぶり〜!遅かったね。どうしたの?お腹下したりでもした?だから道端の草を食べるのはダメだって……」

「食ってねぇよ!いつも食ってるみたいに言うな!」

ケラケラと笑う彼女。俺はこれを待っていたんだ、渚に応じて戎も笑う。梅雨明けから咲き誇る向日葵のように。

「元気だった?」

「そこそこ。つまんなかったよ。お前がいない日々ってのは……夏休みのない八月みたいな」

「ま、夏休みはこれからだけどね?」

夏日の差す昼下がり、二輪の花は咲く。その一輪に、霽れが故の、露の滴るのをもう一輪は見逃さなかった。

「……頑張ったんだね」

不意に溢れた言葉に首を傾げる。渚は首を横に振り、なんでもないよ。そう一言残す。

「そういえば、私が入院してる間、新作出さなかったの?」

「まぁ……うん、どうしてだ?」

新作が出たら買ってくれと頼んでいたらしい渚。目の前のファンに対峙し、照れくさそうに戎は鼻で笑う。

「いつもの場所に行っても、なかなかアイデアが思いつかなかったんだよ、お前がいないと、どうもダメみたいでさ」

「……そ、そっかぁ……」

視線を反対の窓の方へやる渚。教室の奥の後ろ角の席、何か小声でぶつぶつ呟く渚だが、死角のためその顔は誰にも見えない。

「……私が居なきゃ書けないってこと、だよね」

「あぁ、そうだ。退屈で何もなくて、お前のことばかり考えちまう」

お前がいれば何かしらは起こるからな。言いかけてやめた。両手で顔を覆っている渚に届きはしないと考えたからだろう。

「あ、でも一つあったな。いつものとこでお前そっくりの女の子に遭ったんだよ」

「へ、へ〜……ドッペルゲンガーとか?」

先程とは打って変わって、戯けた口調の渚。

「流石にそんなわけないだろ、本島から帰省してきたって言ってたし」

「そうとも限らんじゃん。私の生き霊かもよ?」

「なんのために俺んとこに生き霊飛ばすんだよ」

「……戎くんが私のものになってくれないならいっそ……ふふふ……」

控えめに形容しても不気味で奇怪としか言えない語りに、文字通り身の毛がよだったような戎。

「今、凄い悪寒がしたよ」

「ふふふ……ずっと一緒だよ♡」

幼馴染の見せる新たな一面に顔を引き攣らせていたものの、冗談であったことが分かると安堵した様子の戎。

「……楽しいね。こうやって話すのは。これで午後の授業も頑張れるね」

「あぁ、そうだな」

いつもなら腹の立つ、優しい夏の潮風が教室を駆け抜ける。誰に充てるわけでもなく、一人微笑んで机に座る。渚がいる。たった一つの違い。たったそれだけで戎は一日を戦い抜こうと思えるのだった。

 終業のチャイムが鳴ると、渚は開口一番、いつもの場所へと戎を誘った。

「部活はいいのかよ。久しぶりに部員にも会えるんじゃねーのか?」

「復帰してばかりだからね〜、しばらく休むことにしてるの〜」

蝉が鳴き始め、いよいよ夏本番とも言えるほどの暑さ。照りつける太陽に見守られ二人は歩く。

「久しぶりだね。こうして二人で並んで歩くのも」

「……そうだな」

会話が止まる。続く無言の時間だが、それすらもどこか愛しそうだった。暫くすると、鼻歌が聞こえてくる。特段上手かと問われればそうでもない。しかしその落ち着いた歌声は、確かに戎の心の鼓動を穏やかなものにさせてくれる。いつもの砂浜へ辿り着く。波はいつにも増して穏やかに揺れていた。

「あれ、蟹がいない。これじゃ蟹浜じゃなくなっちゃう」

蟹浜――昔二人でつけたこの場所の名前。蟹が沢山いるから、そう安直につけた名前。二人の間でしか使わないため、久しぶりに聞くその名に、どこか懐かしさを感じて大きく息を吐いた。防波堤まで辿り着き、腰を下ろす。戎は小説のアイデアの為に思索を巡らせ、渚はただ歌う。それだけのこと。ただそれだけのことがどれだけ幸せなことか、戎は心得ていた。

「そーいえば、夏のアレ、どうする?」

急に鼻歌が止まった。

「アレってなんだよ」

「アレはアレだよ、全日本アマチュア蟹釣り選手権大会だよ?」

「あるわけねぇだろそんな大会、てかあってたまるか!」

あまりにも急なボケに、勢いよくメモ帳を閉じてツッコむ。

「私、予選七位通過なんだよね。七人中」

「最下位じゃねぇか!……で、本当はなんなんだ?」

ひと呼吸おいて、彼女は答える。

「夏休みにさ、お祭りあるでしょ?前まで一緒に行ってたから、今年はどうするんだろ〜って思って」

この島には、毎年夏に祭りが行われる。離島であるので、村の男性の多くは漁師で、その祭りは彼らの安全祈願、そして海の豊饒を祈るものだった。尤も、子供達にとってはそんなものは頭の片隅にもなく、神社に並び立つ出店、港で打ち上がる花火が御目当てである。

「渚は、誰か一緒に行く相手とかいるのか?」

「ううん、ぜーんぜん!みんな彼氏と行くんだってさ」

渚は立ち上がり、伸びをした。猫の如きその様に、猫と海の組み合わせは新鮮かもしれない。そんなことを思う戎である。

「じゃあ、今年も一緒に行くか」

「うん!今年も一緒に行こ!これで私たちもデートって言えるね!」

今度は野を駆けずり回る兎のように飛び回る。

「デート、ねぇ……俺たちが一緒にいると、兄妹って間違われるけどな」

一人で盛り上がる渚を尻目に、ぼんやりとあたりを眺める。すると奥の船着き場に見慣れた人影。遠く離れているものの、なんとなく見慣れている。しかし、その見慣れた人影は確かに自分の横にある。直感で、以前に出会った少女、杉咲なるだと思った。目を擦って、大きく見開いてもう一度。そこに人影はないのであった。

「見間違い、か……」

「じゃ、五時に迎えにきてね!」

両肩を軽く掴まれる。訳もわからずの生返事を返すが、それがわからぬ渚ではない。少し機嫌を悪くしながら、もう一度教えてもらった。屋台が六時ごろに出るので、少し早めに五時に迎えに来いということであった。

「楽しみだね〜!ちゃんとエスコートしてね?」

「……善処する」

烏の群れが飛んで行った。もうじき日が暮れる。

 信頼を寄せることのできる幼馴染の帰還。その処方箋は、戎の生活に活気を少しずつ取り戻させていった。渚が入院してから殆ど手付かずだった執筆活動も徐々に再開することができた。十月の終わりまでに完成させる予定にあるので、今からでも時間は充分にあった。

 三日ほどして、終業式を迎え、夏休みに入った。夏の日々は、とても緩やかで、部活に属していない戎にとっては、退屈なものであった。渚は部活終わりに、決まって戎を家から引っ張り出しに訪ねてくる。それまでは自由の時間。自由すぎるが故に何にも手がつかない。課題は初日に終わらせる性分であるので、なおさらすることがない。いつか誰かの言った「我々は自由の刑に処されている」とはまさにこのことであろう、と戎は思う。

 夏休みに入り数日、夜型人間で、徹夜癖のある戎にしては珍しく朝早く目覚めた。なんとなく、蟹浜へ向かう。もしかしたら、また、なるに会えるかもしれない。そんなことを思ってのことである。蝉の鳴き声が絶え間なく降り注ぐ坂を下り切ったところで、潮の匂いと衝突する。今の時代には珍しいとも言える古びた駄菓子屋を通り過ぎた。今日の風は強く、波を煽り、テトラポッドにぶつかる波は連なって静かに音を奏でている。

「あれ、戎くんだ!久しぶりだねー!今日はどうしてここに?」

初めて呼ばれる名前。以前出会った時に、手帳に書いてあるのを見たのだろう。

「なんだろうな……もしかしたら、誰かに会えるかもしれない。そう思って」

笑顔で見つめ合う二人。戎の静かな笑みとは対照的に、眩しすぎるほどのなるの笑顔。

「私でよかった?」

戎はさらに明るく笑ってみせる。なるの笑顔もまた一段と眩しくなった。

「まぁまぁ!とりあえず座って!色々聞きたいこともあるし……」

家主のように振る舞うなるに勧められるまま座り込む。踏みそうになった干からびた蟹の死骸を海に放り込んでやった。

「聞きたいこと?この島のこと、とかか?」

「ううん、そうじゃなくて、えっと……渚ちゃん、だっけ?結局、どうなったのかなって……」

質問している側であるのに急に歯切れが悪くなる。仄かに顔が紅潮していて、身に纏う白のワンピースとのコントラストはなかなかに鮮やかなものだった。

「あぁ……無事に手術は成功したいみたいでさ。そんな気にかけてくれてたなんて、ありがとう」

「そっかぁ〜成功したのか!よかったね!……でも、それだけじゃないでしょ?」

探りを入れるなるの言葉に思わず体をびくつかせた。

「戎くん、すごい機嫌良さそうだもん。なにかその渚ちゃんといいことでもあったんじゃない?」

「……強いていうなら、夏の祭り、一緒に行くことになった」

なるは二つの驚きを見せた。一つはこの島でやる祭りのあること。地域民でもなければ、この反応は妥当であろう。もう一つは言うまでもなく、その祭りに渚と一緒に行くことである。

「もうそんなところまで、そのままとんとん拍子で付き合っちゃえば?」

「いやいや、幼馴染で特に仲が良かったから、それで一緒に行くだけだよ。それに、今まででそんな関係になることが無かったんだから、これからだってきっと……」

そう言って、ゆっくりと上体を倒す。

「あ、そもそも戎くん、その渚ちゃんのことは、好きなの?」

戎は黙り込んだ。恋愛を主題として小説を書くことはあれど、自分の恋情を素直にそして的確に表現することは、どんな文豪でも難しいのかもしれない。

「……まぁ、好き、なんだと思う」

「だと思うって!はっきりしなよ〜」

男の子でしょ。そう続かないあたり、矢張り多様性が少しずつ尊重されてきている、などと頭では他愛のないことを戎は考えていた。

「でも、初めて会った時のあの必死さ、戎くん、渚ちゃんのこと大好きなの丸わかりだよ」

あいも変わらず返事ができない。日頃言葉を巧みに使う戎であるから、上手く喋ることのできないこの話題は早く終わってほしいものであった。

「祭り一緒に行くってことは、そこで告白するんでしょ?」

「……え…………?」

思いもよらない告白の二文字に、戎の脳内はさらにかき混ぜられる。何が原因でそこに思い至ったのか、皆目検討もつかない戎。

「し、しないよ、なんで……?」

「え、だって、祭りがある、二人で行く、でどうせ花火とかもあるんでしょ?だったら二人で屋台楽しんでいい雰囲気になったところで花火見ながら告白……しかないじゃん?」

渚との交際を押しに押される戎。しかし自分の気持ちには嘘はつけないのである。

「そうか……俺、頑張ってみようかな」

「うん!私が大好きな戎くんなら大丈夫!」

「なるさんが俺のこと好きかどうかは関係ない気が……てかなんでいきなりそんなことを……」

ただ笑みを溢すなる。その笑顔に、矢張り渚を重ねてしまう戎。

「因みに、次に渚ちゃんに会うのは祭り当日?」

「……あ、もう昼か、やっべ、もうそろ家に来る頃だ」

「そうなの!?それなら早く行っておいで!」

背中を強く叩かれる。蜃気楼の中を駆け抜けて、家に向かうのであった。

 その日、渚は来なかった。軽い夏風邪だと言う。



 なると出会って蝉が二回落ちた頃、ようやくその日は来た。まだ明るい五時頃、インターホンを鳴らす。

「はぁーい」

ドタバタと足音が響く。準備に手間取っているのか、その足音は頻繁に鳴り響く。ドアが開くと、浴衣を着る渚の姿があった。

「似合ってるよ」

「……そっか……あ、ありがとう……」

恥じらいと喜びの共存するその顔が、何より綺麗に思われたことは本人に伝わることはないのだろう。

 提灯の明るさが目に見えてわかるようになった頃、本格的に祭りが始まった。漁業の盛んなのもあって、海鮮系の屋台が多く出ていた。甘いもの好きの渚に付き添い、りんご飴や綿飴、チョコバナナなどを買い、射的やサメ釣りなんかを楽しんだ。

 一通り祭りを楽しんだ後、渚は少し体調が悪いと言ったので、神社を少し奥に入ったところにあるベンチで休んだ。大きく、何かを確かめるかのように息を吐く。大したことは無かったようで、すぐ元気になった。もう花火の上がる時間まであと少しというので、二人は港へ急いだ。安全のために船で沖に出て打ち上げるので、多くの人々は蟹浜から少し離れた船着き場に集まる。鋏を持った小さな来訪者たちが夥しくあるので、完璧に二人きりとは言えないが、告白の場としては丁度よかった。

「しってる?願いを口にしながら花火を見ると、叶うんだって!」

「……ずっとこの島に住んでたのに、初耳だな。最近できたデマとかじゃなくてか?」

夢のない男だとなじられてしまう。もちろん戎にも夢はある。それが、今叶っているだけなのだ。しかしまた、戎はそれ以上の望みを叶えようとしている。

「あ、あのさ」

振り返った渚の後ろで、花が咲いた。否、夜空に綺麗に咲いたのは花火なんかじゃなくて……甘いまどろみの中で戎は思う。醒めてくれるなよ、この夢から。そう強く。結局、告白はできなかった。なんらかの形で現に戻されてしまうと思ったからだ。渚は少し寂しそうな顔をしていた。今はただ、この幸せを噛み締めていたい。そう思えば思うほど、夏の夜は生暖かく、うたた寝のような心地に陥るのだった。



 一夜の夢から覚めた後は、またいつもと同じ日々を過ごすことになった。ただ一つ、変わったことといえば、祭りの時の体調不良が祟ったのか、渚がまた病院へ入院となってしまった。

「大丈夫、検査だけだから」

そう言い残して去って行ってから数日。戻ってこないのには、なにか大きな理由があるのだろう。そう思わないではいられなかった。物思いに耽りながら、波の往来を確かめる。また少しずつ執筆の勢いも衰えてきた。

 海は広い。そして寛大である。それが故に、何者であっても、受け入れ、また呑み込んでしまう。呑み込んだものの思いを増幅させてしまうのだ。戎もまた、海に呑まれてしまった。行き場のない焦燥に駆られたまま、ただ項垂れるしか無かった。何も考えられぬ空の頭の中を、波の音は少しずつ大きく響くようになっていく。白く立つ荒波、海は戎の不安を写しとっている鏡のようであった。

「そんなに項垂れてどうしたの?」

戎は何も答えない。答える気力すら無かった。

「その様子だと、また渚ちゃんに、何かあった……?」

「…………あぁ……再入院、だと……」

そっか。その後のボールは投げられぬまま。会話のキャッチボールは途切れてしまった。潮風も、汽笛も、鴎の鳴く声も、戎の慰めにはならぬことを、なるは悟った。

「き、気分転換にさ、あっちの方、歩こうよ」

なるは浜辺の方を指をさす。おぼつかない足取りで、戎は歩き出す。

「いきなりなんだけどさ、どうしてそんなに、渚ちゃんのことが好きなの?」

「…………えっと、それは……」

身じろぐ戎。思い出したかのようにして、なるは戎を止める。

「ちょっと待って!私が当ててみせる」

前に出会った時と変わらぬ、白いワンピースに麦わら帽子の名探偵は腕を組みながら歩き出す。

 最終章の幕開けは急なものだった。

 「戎くん、いじめられてたでしょ」

予期せぬ問いかけに顔をこわばらせる戎。お構いなしになるは続けた。

「初めて会った時、一週間後に夏休みだって、戎くんは言ってた。じゃあ日中あんなところにいるのはおかしいから」

「……別の理由が、あるかも……」

「戎くん、いってたよね、渚ちゃんはいつも君を助けてくれてたって、そして、その渚ちゃんに似てたっていう私を見てそこまで取り乱すってことは……」

なるは視線を戎の目から外した。

「渚ちゃんといる時は、いじめられないように助けて貰ってたじゃないのかな?だから、入院してた時期は学校に行かずにここに居たし、私を見て動揺した、違うかな」

一人で整理するように、なるは話す。波打ち際、ザクザクと足元で音がする。

「……なるさんの、言う通りだよ。作家として、人気になってから、嫉妬、て言うのかな、急にいじめられちゃって。」

「……うん」

「でも、渚だけは、そんないじめてくる奴らのこと、そんなことでいじめなんてくだらないって仲間でいてくれたんだ」

ゆっくりと頷くなる。あたりは曇り空が広がり、今にも雨が降りそうという状況であった。

「それから、ずっと味方でいてくれて、単純かもしれないけど、それで、渚のこと、好きになったんだと思う」

「……そうなんだね」

「……なぁ、なるさん。渚、大丈夫かな……また、会えるかな」

二人は立ち止まった。夏の終わり、台風の影響か、雨がぽつりと降り出し始める。

「……わからない。けど、海はどんなものでも受け入れてくれる。私みたいな、嘘つきでもね」

「嘘つき……?なるさんが……?」

雨が次第に強くなっていく中、なるは海を背にして戎の方へ振り返る。

「ごめんね。嘘をつき続けて。不安にさせたく無かったから」

なるは急に謝り出した。戎はどんどん混乱に陥っていく。

「でも……これだけは言わせて欲しいな。戎のこと、ずっと好きだったよ。きっと、これからだって……」

混乱の中、戎はなにか違和感に引っかかったようだった。しかし、その正体に気づく間もなく矢継ぎ早に次の言葉が続けられる。

「もし、本当のことを言ったのなら、戎はどんな物語にしたのかな、戎はどうしたかったのかな」

「どういう、意味だよ……」

言い終えるのを待たずして、荒波が二人を襲う。戎が目を開けた時には、なるはもう、そこにはいなかった。考える前に戎の体は動く、渚の元へ向かうために。

 渚の元へ向かう道中、やけに嫌な予感が戎の胸を占めていた。病院へ行ったところで、面会できるわけでもない。わかっていながら、足は動いた。動かさずには、居られなかった。偶然、病院前で渚の両親に出会った。俯いて、ひどく体を揺らしている渚の母を見て、戎は全てを悟った。



 数日経って、渚の両親に話を聞くことが出来た。渚は癌であった。一度手術に成功したと思われたが、転移したとの事だった。遺品整理の最中だったのだろう、ものが散らばっていて、申し訳なく思う戎の目に、あるものが止まった。どこかで見た覚えのある麦わら帽子である。

「この麦わら帽子は、渚が小さい時によく被ってたものだよ、覚えてないかな、白いワンピースとセットでさ」

渚の父の言葉に、戎はハッとした。そして戎の中で全てが繋がった。こんなことがあるのだろうか、そうは思いながらも、自分が目の前で見てきた事ごとを信じないではいられなかった。

 両親に挨拶をして、渚の家を出た。戎はその足で蟹浜へ向かう。夏も終わりがけ、蝉も道端に落ちていて、鳴く声も弱々しく聞こえる。いつもの坂を下り切った時、これもまた、いつもと同じように、潮の匂いに包まれる。匂いに呼び起こされて、渚との思い出が次から次へと思い出される。途中で通る駄菓子屋も、船の汽笛も、波も、蟹も、全てが思い出を呼び起こす鍵となるのだった。

「懐かしいな」

溢した言葉は、鴎と共に飛んでいく。あの明るい笑顔を見ることは二度と出来ない。そして、耳に残る心地よい歌声を聴くことも二度と出来ない。そんな事実が、戎の胸を突き刺す。

「どんな物語に、したのかな……」

なるの放った言葉を、繰り返してみる戎。もし、渚から本当のこと打ち明けられていたとしても、彼女を救うことはできなかっただろう。そう戎は諦観する。戎は医者では無い。病気をどうにかする術は、持ち合わせていない。

「俺に、何が出来たんだろうか」

次に戎は、作家として自分に、何をしてあげることが出来ただろうかと、考え始めた。特別に本を書いてあげることだろうか、いや、違う。などと考えていた時、不意に渚の顔を思いました。あの祭りの日、告白しようとしたあの時、なんでも無いと終えてしまった直後の、あの表情を。

「……そうか、そう言うこと、だったのか……俺、馬鹿だったな……」

視界が歪み始める。特別なことはいらない。体のことは関係ない。渚が欲していたのは、ただ素直に、戎の気持ちを伝えること、それだけであったのに気づいた。それと共に、渚の方は戎の気づかぬ間にずっと戎に思いを告げていたことを悟った。

「ちゃんと、直接言葉にしてくれなきゃ、わかんねぇよ……」

慟哭混じりで放つ。この矛先は、渚だけではなく、双方に対するものであった。ちゃんと伝えていれば、少なくとも渚の心は、心だけでも、救われたかもしれない。そんな後悔が一粒ずつ、戎の足元へ落ちていく。

「俺には、ハッピーエンドには出来なかったよ」

届かぬとわかっていながら、虚空に向かって答えた。小説であれば、意のままに操ることのできる戎だが、小説ではない。己の無力さに膝から崩れていく。

「海は、なんでも受け入れてくれるよ」

ぼんやりと、頭の中で響き渡る。目の前は、あの日と同じように、白く立つほどの荒波であった。戎は力なく立ち上がった。そして……。

 荒波は、砂浜を闊歩する蟹の群れを、一匹残らず呑み込んでいった。

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