第49話 グレース
船首付近の甲板に横たわる女船長が、目を覚ました。
「ああ、よかった……」
ボクは、ホッと胸を撫でおろす。
クラーケンの巨大触手による拘束から助け出された女船長は、かなりの時間、意識を失っていた。エロ触手に優しく抱きかかえられるようにして、ボクと奴隷少年の見守るそばにそっと降ろされた後、声を掛けても、恐る恐る身体を揺すっても、一切の反応は無くて……。
正直、もうダメかと思った。
助け出すのが間に合わなかったのかと、思った。
深海の水は冷たかっただろう。触れた時、その身体の温もりの無さにぞっとした。海の底からようやく引き上げられて、ずっと息が苦しかったはずなのに、その口は動かず、少しも空気を吸ってくれないのだから。
「あー、はは、は……」
心が緩んで、なんともマヌケな笑い声が漏れてしまった。
ひとつ、情けない話をしようか。
ボクは、他人の生死に関わったことが無い。
いや、厳密に云えば、欲望の街でナンバーワンの帝王をやっていた頃、ボクを巡っての暴力組織の抗争で死傷者が出たりと、まったく死の影に触れなかったわけではない。幼少期には、ひいじいさんの大往生だとか、村を上げての祭りのような葬式だって経験している。
表面的には、生も死も知っている。
ただ、ここで語りたいのは、意思の話である。
己の意思で、他人の生きるか死ぬかの領域に踏み込んだ事があるか。ボクにはそんな経験はなかった。己の手で、他人の心臓にナイフを突き立てたことはもちろん無いし、逆にまた、自殺志願者の飛び降りを必死に説得して食い止めたなんて経験もない。
身内の老いや病すら、ボクは遠くから見守るフリだけで、自分の手を、自分の意思で差し伸べたことは一度もなかった気がする。
いつでも傍観者だった。
それは考えるに、他人に興味が無かったからかも知れない。他人、あるいは、世界すべて。もっと云えば、自分自身までも。
何もかも、知ったことではないやって。
まあ、ね。それが生まれつきの性格と云えばそれまでであるけれど、スキル『エロ触手』を手にした十五歳から、ボクの無関心はさらに徹底的なものになったように思える。
うらみつらみ。
何もかも、嫌いだ。
何よりも、こんな自分が嫌だ、なんて。
己のスキルを恥じて、恨んで、これのせいで人生を踏み外したと思っているのに、欲望の街ではこれ無しには生きていけなかった。そんなボクは日々を生きているだけで矛盾の塊だった。それゆえ、自分を誤魔化さなければ、やっていけなかった。
何も見ない。
何も気にしない。
他人が生きようが、死のうが。
自分が生きようが、死のうが。
まあ、どうでもいい。
……。
……そう。
今は、違う。
どうでもよくない。
そう気づいた。気づかされた。というか、押し付けられた? その人生の転換点については、今さら語る必要はないだろうさ。
ああ……。
ああ、まったく。
勇者パーティーの、みんな。
四人の顔ぶれを、この瞬間に、頭の中でオーロラが輝いたように思い出してしまった。まったくの誤解やら何やらで奴隷の身となり、奴隷船に積み込まれて、一ヶ月以上の船旅……正直に白状すれば、彼女たちのことは、これまで意識して思い出さないようにしてきた。
なぜか?
簡単である。
故郷の田舎村を思い出しても、ホームシックになる事なんて絶対ないけれど、勇者パーティーの顔ぶれを心に描くと、独りぼっちの今が、とてもとても悲しく感じられるからだ。
あー、もう。
早く。早く、会いたいなぁ。
また、勇者パーティーの旅に戻りたい。
こんなに時間が掛かるとは思わなかった。
こんなに離れ離れになるとは思わなかった。
ボクは、パーティーメンバーとの再会を疑ってはいない。その時は必ず訪れる。彼女らは、ボクの行方を必死に探してくれているはずだ。そして、絶対に見つけてくれるはずなのだ。
疑いは、欠片もない。
微塵もない。
女勇者の誓いの言葉。
――君を守ると誓おう。
ボクの胸中には、それが今でも鮮烈な響きを残している。
だから、ボクは信じて待つだけだ。信じているのだから、悲しむべきではない。涙を零すなんて、勇者パーティーへの信頼をすり減らすような行為に思えるから、絶対に堪えていようと決意して……。
……。
……うん。
そう思っていたんだけどね。
「すまなかったね、命の恩人だよ」
女船長はゆっくり半身を起こした後、しばらくの間、どこを見るでもなく、ぼんやり思春期の少女のように呆けていた。すぐには、現状を把握できなかったらしい。
まあ、それはそうだ。
クラーケンの巨大触手に巻かれて、海の底まで連れて行かれるなんて、絶望的な恐怖体験。ようやく意識を取り戻したとは云え、フラッシュバックでパニックを引き起こしても不思議ではない。
ただ、女船長は静かだった。
冷静に、何が起きたかを、ゆっくり吞み込んでいるようだった。
恥ずかしながら、ボクの方がダメである。
ボクはずっと、彼女の無事を確かめるように、その手を握り、その背中をさすり、子供を相手にするように色々と身体をいたわりながら、いつの間にか泣いてしまっていた。
……あー。
なんだこれ。
まったく……。
まったく、恥ずかしい。
というか、恥である。
顔を伏せた。
見られたくないのでね。
ボクの涙が気つけ薬の代わりになったか、女船長は瞳の焦点を取り戻していた。
「あんたはヒーローだよ、ありがとう」
「……なにを、クラーケンを倒したのは船長です。責任を果たしたのだから、ご立派です」
「いや、あたしは好きなようにやっただけさ。ワガママな子供みたいなもんだ。自分の船を守るために、自分が一番に突っ込まなくてどうするんだってね。……それに、あんた達の助けを借りるのはバカみたいだろ? ここは奴隷船で、あんたらは奴隷なんだから、ピンチに駆けつけて来るよりは、混乱に乗じて反乱でも起こす方が普通だろうさ」
「すみませんね、奴隷らしくない奴隷で」
ボクは、くだらない冗談を口にする。
「エロ触手のおかげで、船長も口出しできない奴隷として評判ですから」
「ああ、その通りだね。あたしは、あんたには敵わないよ」
女船長は珍しく、優しい笑みでボクを見る。
ずぶ濡れのキャプテンハットを、ボクの頭にポンッと置いた。
「命を救われた。一生をかけて返すような恩を受けた。貧乏でカツカツに生きている奴隷船の船長に、今すぐ大金を支払うような余裕なんてないけれど……。唯一の宝物と云っても良いこの船ぐらいならば、あんたにくれてやっても良いよ」
「はい、お断りします。この船をボクが貰ったら、船長は船長で無くなるわけで……なんて呼べば良いのか、困りますからね」
彼女はハハッと笑う。
それから、ボクの両手を握りしめて、まっすぐ瞳を覗き込んできた。
「グレース・シェルバッツ」
冗談のような言葉と、サーベルのような鋭利な声色で。
「あたしの名に誓って、今後一生、細々と銅貨の仕送りでもしようかね」
「もしも、人生を預けてもらえるならば、それよりもお願いしたいことがありますよ。目的地に着くまでの間に、色々と計画は練っていたんです。ボクと一仕事しませんか、グレース船長」
奴隷船による人生初の海上旅行は、ここで幕引きである。
とはいえ、女船長との付き合いは終わらない。
むしろ、ここからの腐れ縁がまあ、墓場まで続くことになるなんてね。
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