第35話 妹に宛てたラブレター

「あーあーあー」


 せっかく消えたのに、また美紀ちゃんにキスマークをつけられてしまった。前より目立つかも。

 ちゃんと向き合った結果がこれなんだけど、歯ブラシで消えないかな。


「お兄ちゃん、何してるの?」

「あ、いや、なんでも」


 洗面台の鏡の前で首筋に歯ブラシを当てているところを絵里萌に見られて必死に誤魔化した。



 ◇



 その夜、僕は妹の夢を見た。恵梨香だか絵里萌だかわからない妹が僕に好きだと言ってくる夢。

 僕も好きだと言いたいんだけど、その妹が恵梨香だか絵里萌だかわからない。


 僕のこの気持ちは家族に対する愛情なのか、それとも恋人に対する愛情なのか。そしてこの二つは本当に違うものなのだろうか。


 好きというのは本当は一種類だけで、相手との関係性によって違う情動が生じるだけなのでは。

 

「おにーちゃん、好きだよ」

「僕も…………のことが好きだ」

「うれしい、おにーちゃん」


 夢の中で口に出してみて、僕は自分の気持ちを理解した。




「おにーちゃん」


 ひさびさに身体の上に重さを感じて眠りから覚める。ひさびさと言っても一週間ぶりぐらいなんだけど。


 僕の身体に当たる弾力のある柔らかな女の子の身体、そして耳元で囁いてくる妹の声。

 暗い部屋の青い光に照らされた妹の姿になぜか安心感すら抱いてしまう。


 左手を持ち上げて、その長い黒髪にそっと触れる。すると妹も指先で僕の首筋を撫でるように触ってきた。


「おにーちゃん、また美紀さんにキスマーク付けられてる」

「だから定義上はキスじゃないから」

「やっぱり美紀さんなんだ」


 耳元で妹が鼻をならしてくすっと笑った。


「実は今日は美紀ちゃんに会って、僕には好きな人がいるって言ってきた」

「なんで?」

「ちゃんと人に向き合おうと思って」

「そうなんだ……美紀さんはなんだって?」

「別にいいって。幼馴染だからって」

「へー、じゃあ」


 妹が僕の首筋を舌でちろっと舐めた。


「これは?」

「どうも幼馴染の印みたい」

「そうなんだ。美紀さんも拗らせてるね」


 そして妹は少し上半身を起こして顔を寄せてきた。僕と至近距離で見つめ合う。海の底のような光に見慣れた美少女の顔が浮かぶ。


「それで、おにーちゃんは誰が好きなの?」


 僕は妹の目を見つめると、両手を持ち上げて手のひらを妹の頭の後ろに軽く当てた。長く黒い髪、そしてきれいなかわいい顔立ち。


 少しだけ手に力を入れて妹の頭を引き寄せる。妹は軽く目を閉じた。


 二人の唇が触れ合う。少しだけ触れ合い、少しの間離れ、そして今度は強く触れ合う。そしてまた離れる。


「おにーちゃんは私のことが好き?」

「うん」

「妹だから?」

「それもある」

「おにーちゃんは私が誰だと思う?」

「それは考えたんだけど……」


 妹は僕の目をじっと見ている。僕もちゃんと答える。


「僕はお前が好きなんだと思う。だからお前が絵里萌でも恵梨香でも正直どっちでもいいんだ」

「いい答えだね、おにーちゃん」


 また妹は頭を寄せてきた。一度唇を合わせた後、額と額を擦り合わせて至近距離で会話を続ける。いつもの匂いがする妹に話しかける。


「この一週間、会えなくて寂しかったな」

「顔なら毎日合わせてたじゃない、おにーちゃん」

「そっちはそうだろうけど……」


 すると妹が少しだけ顔を離して、もう一度僕の目を見つめてきた。


「あのね、おにーちゃん、ちょっとバレそうだったの」

「誰に?」

「おにーちゃんの妹の、もう一人」

「そっか」

「だから、こうやって夜中に会うのはしばらくやめたほうがいいかなって」


 僕は一瞬体が海の底に沈んでいくような感覚にとらわれた。目の前の妹が遠ざかっていくように感じられてくる。


「そうなんだ……だったら……」

「なに、おにーちゃん」


 一瞬躊躇したけれど、やっぱりルールを破ることにした。


「さっき言ったけど、僕はお前が絵里萌でも恵梨香でもいいんだ。だから、どっちだか教えてくれないかな」

「それって……」


 妹の声がか細くなる。


「私とちゃんと付き合いたいってこと?」

「そうかな」

「おにーちゃんはズルいね」

「よく言われる」


 口元に笑顔を浮かべた妹が、もう一度僕の額に頭を擦り付けてくる。


「だったらおにーちゃん、明日デートに誘って」

「え、デート?」


 いつも真夜中に会う妹から突然そんなことを言われ、僕は一瞬フリーズしてしまった。


「だって、付き合いたいんだよね、おにーちゃんは」

「えーっと、まあ、そうだよね」


 そりゃそうだよな。正直そういうリアリティがなかった。しかしどこ行けばいいんだ?、そうだ、本人に聞いてみるか。


「デートってどこ行きたい?」

「前と同じところがいいな、おにーちゃん」

「ネカフェ?」

「うん、じゃあそれで」


 妹は僕に頭をくっつけてうなずいた。


「あのね、おにーちゃん、付き合うなら一個だけお願いがあるの」

「なに?」

「こうやって夜中に会ってたことを誰にも言わないで」

「今だって秘密にしてるだろ」

「秘密というよりなかったことにして。つまり私にも、絵里萌にも恵梨香にも言わないで欲しいの」


 妹は至近距離から僕の目を見つめてくる。暗い中で僕もその目を見る。


「意味が良く分からないんだけど」

「うっかり間違えないとも限らないし、もしかしたら相手の振りをして聞き出そうとするかもしれないでしょ」

「そんなことあるかな?」

「あるよ、っていうか私たち子供のころから時々入れ替わって遊んでたし」

「やっぱりそうだったんだ」


 確かにいままでも恵梨香だと思ったら絵里萌だったことが何度かあった。間違えたんだか間違えされられたんだか知らないけど。


「それに私たち双子って相手が何しているかすごく良く分かるの。こないだも危うくバレるところだった」

「へー」

「だからもうしばらく夜中には会わない。こうして会ってたこともしばらく忘れてほしい」

「分かった」

「私も何を言われても知らないって事にする。おにーちゃんに対しても」

「うん、約束する」


 そして僕たちは明日の待ち合わせの約束をした。


「そうだ、おにーちゃん。ラブレター書いてよ」

「えっ、それはちょっと……」

「短いのでいいから。何時にどこで待ちますってやつ。下駄箱に入ってるみたいなの」

「そういうのは読まないで捨ててるんじゃないの?」

「えへへ」


 妹は指で髪を梳きながら軽く笑った。


「ほら、すぐ書いて。私のことデートに誘うんでしょ」

「えー、まあ、じゃあ書くけど」


 本人に指図されながら、レポート用紙になんとか文面を書き上げて、最後に兄と署名をする。


「そっけないけど、おにーちゃんぽくていいか」


 僕が書いたラブレターを、黒髪の妹は丁寧に四つ折りにして手に持った。口元が緩んでいる。


「それじゃ、明日楽しみだな」

「うん」


 僕の妹は立ち上がり、部屋から出る直前に振り返った。長い黒髪がふわっと広がる。


「バイバイ、おにーちゃん」

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