第5話 金に物を言わせる

 歴史が好きな勉は、またしても、歴史に想像を重ねる。

 大人になって、やっと、

「大は小を兼ねる」

 ということわざに、当て嵌まらないものもあるということを、理論づけて理解できるようになって感じたことだが、勉が思い出したのが、戦国時代の話であった。

「戦国時代三大奇襲」

 と呼ばれる戦いがあったのだが、

「桶狭間の戦い」

「厳島の戦い」

「河越野戦」

 というものだった。

 この中の、

「厳島の戦い」

 というものが、

「大は小を兼ねる」

 とは、一概に言い切れないkとを証明していた。

 もちろん、これは偶然に起こったことではなく、大将の毛利元就の最初からの作戦計画の根底として考えられたことであった。

 彼は、敵である陶晴賢に対し、

「元就が、厳島の山頂に、城を築いている」

 というウワサを流させ、実際に城を築き始めたのだ。

 この頃になって、大内家の支配が急速に落ちていた時、陶晴賢は、下克上を狙っていた。毛利元就は、そんな陶晴賢に味方しないということで、一触即発状態になったことで、この作戦を考えたのだ。

 厳島というくらいなので、島なのだ。陣地も戦をする場所も限られている。そこで考えたのが、

「相手をおびき寄せる」

 ということであった。

 しかも、大軍をおびき寄せるのだ。

 そうなると、狭い島に大軍が押し寄せるのだから、身動きができるわけもなく、混乱するというのが、作戦だったのだ。

 その作戦が見事に功を奏し、陶軍は混乱の極みにあり、ついに、陶晴賢を討ち取り、その勢いで、毛利元就は、一気に中国地方を制圧することに成功したのだ。

 その後、参院の尼子氏も滅ぼして、今でいう。山口、広島、岡山、島根、鳥取という膨大な領土を持つに至ったのだ。

 その領地は、関ヶ原で西軍について、敗北するまで変わらなかった。毛利は、すでに大大名となっていたのだ。

 そんな、

「厳島の合戦」

 の教訓を思い出していると、

「俺は、毛利元就にならなくてはいけない」

 という風に思い、無駄に友達を増やすことだけはしないようになった。

 しかし、寄ってくる人を排除するだけの気持ちはなかった。

 社長の後継者という意識があるからなのか、

「寄ってくる人間に対して、ひどい仕打ちをしてはいけない」

 と考えるようになった。

 特に、高校時代において、

「俺は暗く、まわりを皆敵だと思い、そのために、完全に殻に閉じこもってしまった」

 というトラウマがあることから、

「俺は、人にひどい仕打ちをしてはいけない」

 と思うようになった。

 そのためには、自分の気持ちに余裕を持たなければいけない」

 と考えるようになったのだが、それが、半分間違いだったのだ。

「変に気を遣おうとするから無理が来るのだ」

 と思っていた。

「変に気を遣うというのは、無理に流れに逆らおうとするからで、今まで逆らってきた時というのは、自分に余裕がなくなったことで、自分が楽をしようとすると、ハマってしまった沼から抜け出せなくなる」

 という気持ちがあったからだ。

 沼に嵌ってしまうと、息ができなくなり、苦しみながら死んでいくことになる。

 その時間というのは、見ている人間にとってみれば、あっという間のことなのだろうが、実際に味わっている人からみれば、

「とてつもなく苦しいもので、きっと心の中で、一思いに殺してくれと思っているのではないだろうか?」

 と感じているのではないかと思うのだ。

 確かに、

「楽しいことはあっという間なのに、苦しいことやつらいことは、永遠に続くような気がする」

 とよく言われるが、まさにその通りなのだろう。

 変に気を遣っていると、その思いから、楽なことと苦しいことの差の激しさに気づくのだった。

 それに気づいたのは、

「やっぱり、俺が躁鬱の気があるからなんじゃないかな?」

 と感じ始めた。

 躁鬱というのは、誰にでもあるものではないと最初の頃は思っていて。

「しかも、俺の躁鬱はその中でも特殊なんだ」

 と思っていた。

 だが、これはいろいろな意味で間違っている。

 躁鬱は特殊な人間だけのものではなく、大小の差はあるが、誰にでもある、潜在的なものだということである。

 さらに、

「自分だけが特別」

 というのも、勘違いであり、

「ただの重症」

 というだけではないだろうか?

 重症と言っても、あくまでも、

「気の持ちよう」

 であり、余計なことを考えてしまうことで、深みに嵌ってしまうのだということに気づくか気づかないかということなのであった。

 高校時代の自分が、深みに嵌ってしまったのは、

「とにかく、自分を他人と比較する意識が強すぎて、自分が、まわりから必要以上に見られてしまっているからではないか?」

 と考えたからだった。

 大学時代には、その思いが和らいでいった。

「何をやっても今なら許される」

 という大きな思いが自分を包む。

 もちろん、犯罪行為は論外だが、自分でしたいと思っていることをする分には、別に問題はないと思われるのだった。

 ただ、勉は、それが歯止めが利かなくある要因であるということに気づかなかった。

「まるで、麻薬のようだな」

 と、一度嵌ってしまうと抜けられないという感覚に陥るのだ。

 麻薬は、

「そうして辞められないのか?

 というと、もちろん、禁断象徴における苦しさもあるだろう。

 しかし、禁断症状というものがなかったとして、本当にやめることができるだろうか?

 麻薬というのを、最初に手を出した時の理由は様々だろう、

 その中には、

「芸術家」

 特に、創作者と呼ばれるような人は、いつも何かが降りてきて、そこからいろいろな発想が芽生え、覚醒していく。

 しかし、それはバイオリズムのいい時はうまくいっているに違いないのだが、一旦狂ってしまうと、押しても引いてもアイデアが生まれてくるものではない。

 そうなると、

「そのアイデアを、苦しまずに覚醒させる何か」

 を求めることにある。

 それは、

「覚せい剤」

 などの、麻薬なのだ。

 しかも、薬物は、覚醒している時は、一切眠くならないということで、一気に爆発させることができて、

「気がついたら、作品ができていた」

 などということになるだろう。

「麻薬は怖い者だ」

 ということは分かっている。

 昔のCMで、

「覚せい剤やめますか? それとも、人間やめますか?」

 などという恐ろしいものがあったということは知っていた。

 さらに、覚せい剤というものが、本当に高価なもので。暴力団の資金源になっているということもあって、覚せい剤を一度摂取すると、逃げられなくなる。

 やくざからの追手というのもあるだろうが、そもそも麻薬には常習性がある。

 悪魔のような苦痛を、禁断症状という形で味わって、やっと薬が身体から抜けていくのだ。

 禁断症状は、人間が廃人になる寸前を見ているようで、普通の精神状態であれば、苦しんでいる人間を見ていることでさえ、苦痛でしかないのだ。

 それなのに、何とか薬を抜くことができて、それ以降、普通の生活に戻ることができた人がそれほどいないのも事実だった。

 またしても、

「薬に手を出す」

 ということになり、また同じ生活に逆戻りである。

 確かに、

「意志が弱い」

 と言ってしまえばそれまでだが、戻るには理由があるだろう。

 芸術家であれば、またあの生みの苦しみを味わうことにあり、

「それならば」

 とまた、同じ道を繰り返すことになる。

 これを、

「意志が弱い」

 といって、一言で片づけられるだろうか?

 もっとひどいのになると、せっかく薬を抜いたのに、昔の男から、

「いいカモが戻ってきた」

 ということで、再度、無理やりに注射を打たれるなどということもあるだろう。

 そうなると、今度は、その女性は人生に失望し、自殺をするという最悪の形も生まれてくる。

 こんな状況を見ると、

「やくざが許せないのは当たり前のことだが、警察があんな連中をのさばらせておくのが一番悪い」

 といって、その矛先を警察に向ける。

 正直、それも仕方がない。事実として、このような最悪の事件が実際に起こっているのだから、警察は弁明の余地はあいというものだ。

 それを思うと、

「人生なんて、まわりや国家がひどかったら、簡単に影響を受けてしまうに違いない」

 ということになるのだろう。

 高校時代において、精神的に自分が追い詰められている時に、感じていた言葉が、

「四面楚歌」

 だった。

「まわりはすべて敵だらけ」

 中には裏切りもいるだろう。

 そんな状態において考えたのは、

「自分のまわりの近しい人間が、実は、悪の秘密結社のような連中から、自分を苦しめるために、知らない間に、悪の手先と入れ替わってしまっているのではないか?」

 という妄想だった。

 それこそ、

「テレビの見過ぎ」

 と言われるのだろうが、高校時代などでは、こんなこと恥ずかしくて誰にも言えなかった。

「お前気は確かか?」

 と言われるに違いないと思ったからだったが、大学に入ると気が大きくなるからなのか、それとも、

「話題としての自虐」

 ということで、別に恥ずかしさを感じるわけではなかった。

「感覚がマヒして、一周したのかな?」

 と感じるほどであったが、大学というところは、そういう感覚をマヒさせる何かがあるのかも知れない。

 ただ、このような意識のことを、ちゃんと心理学では言われているらしい。

「カプグラ症候群」

 というのだそうだが、いわゆる被害妄想的な発想が、こういうホラーやオカルト、SFチックな発想になるのかも知れない。

 もっとも、これも、20世紀の頃に言われ出したことなので、ごく最近のことであり、やはり、テレビや映画での、SF的な発想が、そういう考えを生むのかも知れない。

 しかも、当時の子供も、ひょっとすると大人も似たような被害妄想があり、

「自分のまわりは敵だらけ」

 という思いが募るのかも知れない。

 自分のまわりが敵だらけに見えてくるようになると、何かを考えても、すべてが悪い方にしか考えられなくなってくる。

 そうなると、どこかのタイミングで、

「俺は躁鬱症なんじゃないか?」

 と思うようになり、一度そう思ってしまうと、もうそれ以外は考えられなくなるというのが、

「躁鬱症の特徴ではないか?」

 と感じるようになってきた。

 ただ、躁状態の時は手放しに気持ちがハイになっているわけでも、鬱状態の時は、絶えず苦しい状態から抜けられないとして、気分は最悪になっているのかも知れない。

 特に、躁鬱状態の時というのは、躁状態の時には、これからやってくる鬱状態に思いを馳せてしまったり、逆に、鬱状態の時に、

「二週間の我慢だ」

 と大体のパターンから、抜ける時期が分かっているので、必要以上の辛さを感じることはないのだ。

 それが、彼岸の時の、

「暑さ寒さも彼岸まで」

 と言われるような、季節が巡回するかのような時には、

「最悪の時にいいことを、いいことが続いている時に、不安を感じるという要素になるのではないか?」

 と言えるのではないだろうか?

「頭の中を少しでも、平均的にならそう」

 という考えがあるからではないかと思うのだが、それが、

「限界を知りたくない」

 という思いがどこかにあるからではないかと思うのだ。

 その限界は、いいことであっても、悪いことであっても同じだ。

 悪いことの限界を知ると、

「そこが地獄であって、二度と這い上がることができなければ恐ろしい」

 という思いと、逆に、

「天国であれば、すぐに夢のように覚めてしまい、まるで夢を見たと思って、実際の夢のように、一度見てしまったことを、意識してしまうと、二度と見れなくなってしまうのではないか」

 という意識に駆られるからではないだろうか?

 それを思うと、社会人になっても、学生時代の気持ちが残っていて、

「学生気分が忘れられないのか?」

 と言われている社員の姿を見てきたが、それを見ていて、

「それの何が悪いんだろう?」

 と、勉は思うようになってきた。

 勉は、大学時代、結構。

「やんちゃ」

 だったといってもいいだろう。

「法に触れるようなひどいことをしていない。だから別に悪くないんだ」

 という感覚でいた。

 逆にいえば、

「警察に捕まるようなことさえしなければ、許される」

 というような気持ちになっていたというのも事実であった。

 そういう意味で、よくある、

「金持ちのボンボンのおいた」

 というような、昭和の言葉を借りるとそういうことなのだろう。

 それをもみ消してきたのが、先代の参謀であった、小平修平だったのだ。

 まだまだ、父親の平八郎が、活躍している中で、子供たちのスキャンダルは命取りだ。何かあれば、必死になって、社長の参謀が火消しに躍起になるというのは、今に始まったことではない。

 さすがに、婦女暴行や、殺人事件に繋がるような、

「ヤバい事件」

 を引き起こすようなことはなかったが、いわゆる、

「金で解決できる」

 というようなことは、いくらでもやっている。それが、

「おいた」

 と言われるものなのだろう。

「おいた」

 というと、

「女の子を妊娠させてしまった」

 ということも少なくはなかった。

 中には、わざと妊娠したなどと言って、お金をふっかけようとしている連中もいただろう。

 むしろ、そっちの方が多かったのかも知れない。

 なぜなら、

「こんな軽い男、誰が真剣になんかなるもんですか」

 と普通の女だったら、こんな曲がった考えの男に靡くはずがない。

 ということであった。

 要するに、大学に入って、気が緩んだのか、

「何をやっても許される」

 というような勘違い野郎が多い大学生の中で、特に彼の周りにはそんな連中ばかりが集まってくるのである。

 だから、一時期、躁鬱症に陥ったのだった。

「俺のことを気に入って集まってくるわけではなく、皆、お金が目的なんだ」

 と、思うようになったから躁鬱症になったのだ。

 しかし、そのことにも発想が慣れてくると、

「まあ、いいや、それならそれで、俺の方も楽しませてもらおう」

 と思ったのは、自分が本当に、金の力で解決できる立場にいることで、気が楽になってきたからであろう。

 実際に、家に帰ると、

「無駄なもの」

 と思えるようなものが、屋敷の中にはいたるところにある。

 昔だったら、

「古風なコレクションが、金持ちのステータスだ」

 といって、伯爵などの屋敷には、いろいろな珍しいものがあったりしたものだった。

 絵画であったり、昔の狩猟の道具、あるいは、中世の甲冑など、等身大のものが置かれていれば、そのまま、ステータスだった。

「まるで博物館のようなお屋敷で」

 などと言われると、本当に嬉しい気分になるものだった。

 そんな屋敷に実際に住んでいる山中一家は、まるで、判で押したような、

「昭和の富豪の屋敷」

 だった。

 昔でいう、

「お手伝いさん」

 がいて、子供たちには、小学生の頃から、家庭教師がついていた。

 小学生、中学生、高校生と、進学するにつれて、家庭教師の先生も変わっていく。教える範囲や内容が違うのだから当たり前のことだ。

 ただ、その中で、

「帝王学」

 を教える先生は同じ人で、しかも、二人をそれぞれに教えていたのだから、

「この先生が誰よりも二人のことを知っている」

 と言ってもいいだろう、

 この先生の名前は、

「茨木先生」

 と言った。

 茨木先生は、年齢としては、当時30代後半くらいだっただろうか? 小平修平よりも少し年上で、父親と同い年くらいではなかったかと思った。茨木先生は、正直、小平とはあまり仲が良くはなかった。

 帝王学というのは、どちらかというと、凝り固まった発想が多く、融通が利かないところがあった。

 しかし、参謀のように、いろいろな立場において、その時の状態を解決していかなければいけない立場において、帝王学というのは、平均的で、教科書のような、リアルなものではなく、

「実践的ではない」

 という思いから、どうしても、好きにはなれないというのは、参謀としての意見なのか、それとも、本来であれば、自分を慕ってもらうことが大切だと思っていなければならない立場を考えると、素直に、

「帝王学」

 というものを、受け入れるわけにはいかないと考えるのだ。

 大学に入ると、帝王学というものも、実践的なことに変わってくる。

 その頃になると、小平も、そこまで茨木先生を目の敵にすることもなく、むしろ、

「帝王学を学ぶのは大切なことだ」

 と、原点に立ち直って考えるようになるのだった。

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