第3話 嫡男

 サルと呼ばれた小平は、その力をいかんなく発揮し、今までは先代の参謀から、今度は現在の社長の参謀を務めていた。

 しかし、

「わしも、高齢になってきたことから、次世代に受け継がないと」

 ということで、後継者の選定を行っていた。

 自分にも息子がいるが、ここは、小平家の家訓として、

「親の地盤を受け継がない」

 ということが、成功の秘訣として、他の会社で頑張っているので、期待するわけにはいかない。そこで白羽の矢があったのが、山中家の次男である幸隆だった。

 実は彼は長男よりも優秀であった。

 小平とすれば、

「これが逆だったら」

 と思い、先代に、

「会社の地盤は次男に」

 と言ったのだが、そこに関しては先代は、受け付けなかった。

 先代は、徳川家康を尊敬していた。

「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」

 という狂歌が残っているが、

「最後まで天下が転がり込んでくるのを待った」

 という意味でのことであろう。

 関ヶ原以後の家康は、徳川家の体制盤石と、

「二度と戦乱の世に戻してはいけない」

 ということを中心に考えていた。

 そして、将軍職を息子の秀忠に譲ってからというもの、駿府城に籠り、江戸の将軍との二極体勢を築いていたのだが、江戸において、

「三代目将軍の跡目争い」

 が勃発していた。

 将軍の正室である、

「お江」

 が、身体が弱く、陰気な長男の竹千代よりも、明るくて、家臣に慕われているように見える国松を将軍につかせようとしているというウワサだったが、実際には、秀忠の方がその意識は強かったという話もある。

 実際に竹千代の乳母となっていたのが、福と呼ばれる女性で、のちに、

「春日局」

 と呼ばれるようになった人物である。

 彼女は、父が明智光秀の片腕と呼ばれた斎藤利三だったことから、苦労をし、徳川家から、将軍秀忠嫡男、竹千代の乳母に任じられた。

 この際、お江との間の確執などいろいろ言われるが、将軍夫妻とすれば、

「次男の国松を将軍に」

 ということで、動いていた。

 そこに危機感を感じた春日局が、駿府にいる大御所である家康の元へ直訴に行き、

「竹千代を後継に確定してほしい」

 と願い出たというのは、有名な話だ。

 その後、江戸に行った家康が、竹千代、国松に面会した時、お菓子を与えるということがあったのだが、その時、何事にも控えめな竹千代よりも、積極性のある国松が先に手を出そうとしたところを家康がいさめたという。

「次男の国松は、まずは一歩下がりなさい。長男である竹千代を立てるのだ」

 といって、春日局の直訴に答えたという話である。

 要するに、

「後継問題は、代々嫡男が継ぐのが当たり前のことで、そうすれば、余計な後継者争いになることはない」

 という考え方であった。

 後継者を決めることで、争いが勃発すれば、何が火種で、徳川の天下が揺らいでしまい、結果、戦国の世に戻らないとも限らないということであろう。

 考えてみれば、歴史上の、後継者問題がどのような事件を引き起こし、さらに、そこから先、時代をひっくり返すような事件に発展したというのを忘れてはいないかということであった。

 後継者争いで戦になったのは、まずは、古代最大の戦争と言われた、

「壬申の乱」

 である。

 中大兄皇子、つまりは天智天皇の後継者を、順番からいけば、弟の、大海人皇子であったが、天智天皇が、息子の大友皇子を皇太子としたことで、大海人皇子は、妻とともに、吉野に逃亡を余儀なくされた。

 そのうちに、天智天皇が亡くなったことで、大海人皇子が吉野を脱出し、当時の都があった大津に攻め込んだのだ。

 それが、

「壬申の乱」

 であった。

 天智天皇が崩御したことで、天皇に即位していた大友皇子は、弘文天皇となっていたが、この壬申の乱にて敗れ、首をつって自害したとされる。

 そのため、大海人皇子が、天皇に即位し、天武天皇になったのだ。

 この時は、大きな問題は起こらなかったが、時は流れ平安時代に突入し、次第に藤原氏の力が衰えてくると、そこに武士が台頭してくることになる、その背景として、院政を敷いていた時代で、崇徳上皇と後白河天皇側に朝廷内が別れてしまい、さらに摂関家の内紛などが重なり、戦となった。天皇方が勝ったのだが、それが火種となり、その後の、

「平治の乱」

 などがきっかけにあり、さらに、武士が力をつけてくることになり、最終的に、武家政権である、

「鎌倉幕府成立」

 という、

「時代が大きく動く」

 ということになったのだ。

 また、時代は流れ、今度は、室町時代の中期、室町幕府の権威が衰えてきている頃、これも、将軍の後継問題と、幕府内での権力争いなどが複雑に絡み合い、今度は全国を東西に分けての戦いが、京の都を舞台に、何と、11年間も続くことになった。

 これが、有名な、

「応仁の乱」

 である。

 この戦では、京の街のほとんどが燃え尽きてしまったと言われているが、戦は勝ったり負けたりの小競り合いが多かったのだが、最終的には、戦の総大将の座にあった、

「細川勝元と、山名持豊(宗全)」

 が、相次いでこの世を去り、さらに、戦を行っていた、守護大名が、自分の領土で争いが起こるようになってくると、尻に火がついたことに気づいた大名たちは、

「京都にとどまって、戦などしている場合ではない」

 ということになったのだ。

 皆地理尻に領国に戻っていったので、そこでもう戦争は終わりだった。

 この戦争の影響で、完全に室町幕府の力はなくなってしまい、

「群雄割拠」

 と呼ばれる時代となり、それぞれの地方では、

「守護大名」

 の代わりに、戦国大名となっていき、いよいよ戦国時代の幕があくのだった。

 戦国大名は、守護大名がそのまま戦国大名になることも多かったが、配下のものが、主君を討ち取って、地域を支配する戦国大名になりあがるという、いわゆる、

「下克上」

 というものもあり、必ずしも守護大名が、そのまま戦国大名になったというわけではないのだった。

 そこで登場してくるのが、

「三英傑」

 と呼ばれる。

「織田信長」

「羽柴秀吉」

「徳川家康」

 であった。

 彼らは、細かいところや性格、やり方に違いこそあれ、その目的は一貫したものだったのだ。

 つまりは、

「戦国の世を終わらせる」

 ということであった。

 信長の場合は、

「天下布武」

 という言葉にあるように、

「武力を持って、天下を治める」

 というもので、特に宗教団体に対しては、恐ろしいほどの執念で立ち向かっていた。

 基本的に、信長は、

「朝廷の力を利用しよう」

 と思っていたのだろう。

 ひょっとすると、頼朝や尊氏のような、武家政権としての、

「幕府」

 というものを作って、自分が商軍になろうとは思っていなかったのかも知れない、

 安土城には、天皇がこられた時の宿泊所も設けてあったようで、ただ、そこを見下ろすように信長は天守に住むということを考えていたことから、

「自らで朝廷を動かす」

 ということくらいは考えていたことだろう。

 では、秀吉の方はどうであろう?

 信長が、

「本能寺の変」

 で討たれた。

 ということを知ってから、いよいよ、天下取りに乗り出すわけだが、あまりにも光秀が討たれたのが早かったことなどから考えて、

「本能寺の変」

 これは、秀吉の黒幕説というのも否めない。

 もっとも、ここまで分かっていたわけではないだろうが、光秀をそそのかすくらいのことはあってもいいだろう。

 もちろん、光秀とすれば、秀吉の命令を聞くわけもないので、それなりの裏ワザがあってのことであろうが、今となっては分からないことが多いので、想像の域を出ないのだった。

 そんな時代を進むことで、秀吉は天下を握り、関白となった。

 藤原摂関家に近づいたわけだが、秀吉にも分かっていたのか、天皇家に近づくといっても、

「貴族化」

 するとどうなるか?

 ということは、歴史が証明している。

 清盛しかり、頼朝だって、あれだけ後白河法皇を警戒していたのに、最期には娘を参内させようとしたではないか。

 そして、さらに、幕府の権威をゆるぎないものにしようと考えて、清盛と同じことをしようとしたのが、足利幕府の三代将軍、義満だった。

 なるほど、義満はその権勢でもって、室町幕府最大の権力を握ったが、死後、急速に衰えていった。

 朝廷に近づいても、貴族化したり、天皇の身内になることで、県政がゆるぎないものにあるということが、夢幻であることを分かっていたのだろう。

 これは、きっと信長が一番分かっていたことではないだろうか?

 信長のそばでずっと見ていた秀吉だからこそ分かることであって、秀吉は冷静に、自分の政権を着実に築き上げていった。

 その証拠に、江戸幕府の基礎は、豊臣政権から受け継いだものが多かった。家康としても、自分が、ほぼ秀吉と同じだけの力を持っていることを自覚し、秀吉のやり方を、一つの教材として学んでいったに違いない。

 いよいよ秀吉も死に、いよいよ自分の時代に入ったことを悟った家康は、豊臣恩顧の大名を潰し、幕府を開くことを考えた。

 秀吉が、一代で滅びゆく運命にあるのは、

「力を自分だけに一極集中したためだ」

 と言えるのではないだろうか?

 後継問題も確かにあるが、幕府のような完全な支配体制を築いていなかった。

 あの室町幕府といえども、各地に大名を置いて、それぞれの要衝に、探題などを置くと言った、鎌倉幕府にならったやり方を確立していたからこそ、名前ばかりではあったが、足利幕府の権力を利用して京に上った信長だったのだ。

 確かに関白といっても、それは天皇や朝廷内での力であって、

「武士をまとめる」

 ということではなかったのだ。

 それを思えば、秀吉は自分の代で終わったといえるだろう。

 そう考えると、

「源氏は3代。足利幕府も、4代目以降は、ほとんど、権力もなくなtっていて、守護の力が強くなっていた。つまりは、幕府を開いても、3代までがいいところなのだ」

 と家康は思っていた。

 そして、幕府を開かなかった秀吉にいたっては、自分の代で終わりだったではないか?」

 そこで、どうしても、

「幕府設立は必須だ」

 ということになる。

 そして、そうなると、豊臣家は邪魔になる。

 家康としては。

「自分の目の黒いうちに豊臣家を滅ぼす必要」

 に駆られたのだ。

 二条城の会見で秀頼が、秀吉以上の好青年であることを悟った家康は、真剣に豊臣家を滅ぼしにかかる、特に母親の淀君の存在は鬱陶しく感じられたことだろう。彼女に、

「応仁の乱」

 の火付け役となったとされる、

「日野富子」

 を彷彿させるものがあったに違いないのだった。

 そこで、方広寺の鐘の文字を因縁の道具として使い、相手に戦の準備をさせることで、大義名分ができたとして、

「大坂の陣」

 を勃発させる。

 難攻不落とされた大阪城に立てこもることを、必死に解く淀君だったが、あくまでも、不利であった。真田幸村の作戦のように、城から打って出て、ゲリラ戦のような戦いで、いけば、少しは違ったかも知れないが、結果、一度の和睦を境に、家康の策略に嵌り、濠を全部埋められてしまった大阪側は、

「裸城」

 としての大阪城に籠るしかなく、勝ち目はあるわけはなかった。

 それでも、真田幸村、後藤基次軍は勇敢に戦い、力尽きる。

 結果、大阪方は大阪城に火をかけられ、秀頼、淀君は自害ということで、豊臣家は滅亡した。

 それにより、守るべき豊臣家はなくなったことで、徳川家に忠誠を尽くすしか、諸大名の生きる道はなくなってしまったのだ。

 関ヶ原、大坂の陣において滅ぼされた藩にいた武将のほとんどが浪人となって溢れてしまった。それがのちに江戸幕府に問題をもたらすのだが、とりあえずは、徳川の天下が盤石になる足がかりができたということになった。

 二代目将軍秀忠。そして、のちに将軍となる、長男の竹千代改め、三代将軍家光は、徹底的な改易を打ち出した。

 改易というのは、いわゆる、

「お家取り潰し」

 である。

 いろいろな理由があるが、一番の理由は、

「後継者不在」

 であった。

 次に多いのが、

「謀反を企んでいる」

 などというものであるが、特に、武家諸法度に違反したりすると大きな疑惑になるのだ。

 たとえば、大名同士の許しのない婚姻。

「一国一城令」

 を破って、城を新たに建築したり。現存の城を許しなく改修することも許されなかった。

 それらを理由に、幕府から、

「改易」

 を言い渡され、配下の武士がまた浪人となり、いわゆる、

「失業者」

 が、溢れてくるという大きな社会問題になってくるのだった。

 江戸幕府は、当初、幕府の足固めに必死だったといえるだろう。

 そんな時代において、徳川家康を好きな先代は、最初から、

「跡取りは嫡男に決めていた」

 という。

 なぜかというと、これも家康公の考え方である。

 ただ、家康とすれば、跡取りの秀忠は、自分の三男であった。

 長男は、いわゆる、

「築山事件」

 において、嫡男である信康が、自害、築山殿も自害したとされる。

 これは元々、家康の正室が今川家から嫁いできた築山殿と、息子で家康の嫡男である信康に嫌われたと思い込んだ信康の嫁であり、信長の娘であった徳姫が、信長に、

「信康と、築山殿が、

「武田家と内通している」

 などを含めたいくつかの内容の書状を信長に送ったことで、信長から、

「信康を切腹させろ」

 といってきたことで、家康は、信長に逆らえないということで、切腹させることを選んだ。

 築山殿も、自害を拒んだことで、殺されたと伝わっている。

 そんな事件が起こったことから、家康には長男がおらず、次男である、秀康は、秀吉に人質に出され、結城家に養子に入ることになる。家康が、次男を、

「容姿が醜い」

 ということを理由に嫌っていたという話もあり、結局、家康にとっての長男は、三男の秀忠ということになるのだ。

 そういう意味で、家康は嫡男を大事にしようという思いがあるのかも知れない。

 ただ、理由はもちろん、それだけではない。

 跡取りを決めておかずに、もしものことがあった場合というのは、必ずといっていいほど、

「跡目争い」

 というものが起こるのだった。

 特に、城中にいる、役人や、側用人などは、必ずどこかの派閥に属したりしているのは、今も昔も変わらないだろう。

 つまり、跡取りをしっかり決めておらず、中途半端にしておけば、それらの間で、権力争いの道具に使われる可能性があるのだ。

 実際に、三代将軍の時も、国松派と、竹千代派とで、揉めていたのは確かであった。

 家康は前々から、

「跡目争いが、結局、お家騒動になり、幕府の力が弱くなる」

 あるいは、

「諸大名も巻き込んで大きな戦になりかねない」

 ということで、せっかく、

「戦のない世の中」

 を作り、

「元和堰武」

 と呼ばれる、武器をすべて、偃の中にしまい込んで、蓋をすることで、戦のない太平の世を作り上げるということを達成したのに、いまさら蒸し返すようなことはしたくないというのが、本音であろう。

 そのため、家康は、

「代々嫡男が、将軍を継承する」

 ということにしたのだ。

 それでも、長男ができなかった場合、あるいは不幸にも病死した場合などは、次男、三男と行うが、それでもダメな時は、

「徳川御三家」

 と呼ばれる、

「水戸、紀伊、尾張」

 の中から将軍を決めるということまで決めていたのだ。

 八代将軍、暴れん坊将軍、享保の改革で有名な徳川吉宗も、紀伊国の出身である。

 特に国松と竹千代の争いには、感慨深いものがあったに違いない。これには諸説あるのだが、春日局の言い分を認め、将軍を竹千代、つまり、家光にすることに決めたという。

 そんな家康を尊敬していることから、先代は、早々と、

「跡取りは長男の、勉だ」

 と決めていたという。

 そんな勉が、今は36歳、昨年、

「少し早いのでは?」

 と言われていたが、先代の意見もあって、

「若社長就任」

 ということになったのだった。

 自分は、57歳で会長職就任、そういう意味では、社長が若いというよりも、先代が、この年でまだ、社長にしがみついているということの方が、先代の平八郎には気になっているところだったようだ。

 その証拠というべきか、平八郎は、今年になって、つまり社長職を譲り、隠居状態になってから、それまで、病院に行くこともなかった健康状態だったにもかかわらず、今年は、ちょくちょく病院に通っていた。

 最初は、軽い気持ちで、

「人間ドックにでも入ってみるか?」

 ということであったが、医者の方が、

「少し養生された方がいいですよ。どこか、空気のいいところで、のんびりされるようなことをなさってはいかがですか?」

 と進言してくれたのだが、

「いや、私は会社の近くで忙しくしている方がいいんですよ」

 というのだった。

「じゃあ、病院への通院は、定期的にお願いできますか?」

 ということで、次第に会社にいるよりも病院にいることの方が多くなってきたのであった。

 それを聞いた息子たち、

「長男の勉と、次男の幸隆」

 は、父親のことを心配しながら、時々次男の幸隆は病院の父親を見舞っていた。

 長男の勉は、

「社長業が忙しい」

 ということを理由に、病院に顔を出すことはなかった。

 ただ、これは、幸隆の意志というのもあったが、長男の勉の指示であった。

 本来であれば、専務としての仕事もそんなに暇なわけもないのに、頻繁に顔を出すというのは、勉が、

「幸隆、悪いが、ちょくちょく親父を見に行ってあげてくれないかな? 俺はなかなか行く機会がないからな」

 といって、送り出してくれたのだ。

「でも、兄さんいいのかい? 兄さん一人で大丈夫なのか、心配だよ」

 というと、

「俺だって、これでも立派な社長だと思っているんだ。心配いらない」

 と勉は言ったが、

「本当に立派な社長が、自分から、立派だなどというのもおかしい」

 と思うのだが、それに対しては、次男という立場から、何も言えなかった。

 ただ、兄の考えは分かっているつもりだった。

 というのが、

「親父に誰か、何か吹き込んで、自分の立場が悪くなるのではないかということを恐れているのだ」

 ということであった。

 兄の勉は、猜疑心が強く、あまり人を信用しない方だということは、弟から見ても分かっていた。

 しかし、社長業とすれば、少々極端でも、それくらいの方がいいのかも知れないと思うのだった。

 だからこそ、自分という参謀のような立場の人間がいるのだし、兄も自分のいうことであれば、意見を聞いてくれるというのが分かったからだ。

 兄は、いろいろいいウワサは聞かないが、本当に悪い人間ではないと思っている。そんな兄に対して幸隆は、

「兄を信じてついて行こう。道を踏み外しそうになったら、俺が改めてやればいいだけのことだ」

 と考えていた。

 父親からも、

「お前たち二人は、太陽と月のようなもので、勉が太陽なら、お前は月だ。月は月でちゃんときれいに輝くんだが、それは、太陽の恩恵があってのことだ。そのあたりをキチンとわきまえておかないといけないぞ」

 と言われていた。

 もし、これが、他の家であれば、次男というと、

「逆らいたくなる性格」

 ということもあり、気が強かったり、活発だったりするのだろうが、幸隆に限ってはそんなことはなかった。

 兄の方が、積極的で表い出たがる方なので、

「どっちが兄なのか分からない」

 と、子供の頃から言われていたのだ。

 だが、父親は、

「それでいい」

 と思っていた。

 この方が、

「世襲における二代目としてはふさわしい」

 と思うのだった。

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