第6話 すでに手は打ち、餌を撒いた
事はミリエットが帰宅する六時間前に遡る。
領都中心部にある警察署内の殺風景な一室で、ミリエットは無精髭の痩せた中年と古いテーブルを挟んで向き合っていた。壁と扉には鉄格子付きの窓が、ミリエットの背後には二人の屈強な兵士が立っている。彼らは、ブライス伯爵直々に、犯罪者と向き合うことの多いミリエットに付けられた腕自慢の護衛たちだった。
ミリエットはテーブルに広げた書類を無精髭の痩せた中年に一つ一つ見せ、サインをさせる。黙々と従う無精髭の痩せた中年は、猜疑心の強そうな目をしていたが、反抗する意思はない。
出来上がった書類をまとめ、ミリエットはやっと微笑みを見せた。
「——では、確認が取れたから、あなたはもう自由よ。お父様にもそう報告しておくわ、『鍵師』ダイレ」
微笑みかけられても無精髭の痩せた中年——ダイレは愛想笑いの一つもしない。
手先の器用な細工師として働いているダイレは、表向きには仕事熱心な職人、裏では犯罪者に必要な合鍵を作って売る、いわゆる犯罪
当然、それを知るダイレは、ミリエットを疑う。
「なあ、お嬢様」
「何?」
「俺に恩を売って、何を企む?」
単刀直入に、腹芸なくダイレは聞き出そうとする。
『過去視』の魔女相手に言葉を
ミリエットのアクアマリンの髪飾りは彼女が魔女であることを誰の目にも明らかにしているし、そのミリエットがダイレに何かをしてほしくて釈放という大恩を先手取って押し付けてきたのだから、ダイレでなくとも警戒するに決まっている。その恩に見合うことをしなければ牢屋に逆戻りだ、とは言われるまでもない。
ミリエットは徐々に微笑みを失わせながら、ダイレへ冷徹な声で質問をぶつけた。
「『イヴァンとエラ』、聞き覚えは?」
「ああ……あの極悪人夫婦か。噂じゃ人間を襲うだけに飽き足らず、人喰いまでしてるって話だ」
「そう、その二人について、知っていることを話してくれればいいわ。そういう悪人は、早く捕まえたいの。あなたは善人ではないけれど、頭の先からつま先まで悪人というわけではないでしょう? だったら、まだ話は通じるわ。それに、できればこれからもここの人たちに協力してほしいの。もちろん、タダじゃないわよ? 衣食住に身分の保証も、私が取り計らいましょう」
さらなる好条件、好待遇をちらつかされ、ダイレは逃げ場がないと悟ったのだろう。やれやれと強がってため息を吐いてみせ、「分かった」と頷く。
『鍵師』ダイレのもとには、合鍵を求めて犯罪者が集まっていた。当然、その情報も集まり、ダイレは合鍵だけでなくさまざまな情報の売り買いもする情報屋としての側面も持っていた。
ゆえに、ミリエットの口にした犯罪者夫婦についても、よく知っていた。だが、一応は伯爵令嬢にそんな話を聞かせていいものか、と確認を取る。
「これは、あんたみたいなお嬢様に聞かせていい話じゃあないかもしれないが」
「大丈夫、覚悟はできているわ」
「そうか。なら、始まりは三年前だ。隣領のパペチュエリー公爵領から流れ者夫婦が突然現れた、ブライス伯爵領との国境街の安宿を拠点に明らかに盗品を売り捌いていてな。夫のイヴァンは顔こそいいが下卑たやつでね、立ちんぼの女を買っては殺ししてたのさ。あいつの去った街では橋のたもとにごっそりと顔を潰された女の死体が出てくる、って噂になっていた」
ミリエットは秀麗な眉をひそめた。その表情をチラリと見つつ、ダイレは話を進める。
「妻のエラは一見普通の女だ。だが、背中に罪人の焼き印がある。改心しましたと言って修道院や教会、慈善活動に熱心な貴族の邸宅に入り込んで盗みを繰り返している。おぞましいもんでな、エラのやらかした跡には無意味に拷問並みの暴行を受けた人間が倒れている。
「……そうなのね。なら、尚更捕まえて、処刑台に送り込まないといけないわ」
「ああ、俺みたいな人間でもその意見には賛成だ。いや、あの夫婦を少しでも見知ったやつらは、間違いなくそう思うだろうよ」
幸いにして、ダイレはまだ一度も『イヴァンとエラ』夫婦と面識はなかった。犯罪者の間でも恐れられる連続殺人犯、それも他領から越境してまで犯罪を繰り返す流れ者は、よほど運がいいか、それか頭のキレるやつに違いない。迂闊に情報屋に出入りして尻尾を掴ませるようなことはしないし、自前で独自の情報収集手段を持っているのだろう。
それをミリエットに伝えようとしたが、ミリエットはどこか迫力のある顔つきで、重々しくこう言った。
「そして、その二人は今、このブライス伯爵領都にいる」
ダイレは思わず「便利なもんだ、それも『過去視』で分かるのか」と軽口を叩きそうになったが、口をつぐむ。今のミリエットに、冗談を言える雰囲気ではなかった。
「ああ、そうだ。間違いなくいる、殺人事件がまだ起きていなくても分かる。犯罪者の連中はそういう気配に敏感なんだ、殺されまいと逃げ出したやつだっている」
「そう……その確証が欲しかったの。ダイレ、あなたその夫婦に接触できる?」
ああ神よ、とダイレは心の中で思いっきり嘆いた。
「勘弁してくれよ! そんな自殺行為、絶対にごめんだ!」
「あなたにそう大それたことは求めないわ。これの
ミリエットはカーディガンのポケットから、年季の入った長めの鉄鍵を取り出した。あらゆる鍵を見慣れたダイレも、それはなかなかお目にかかれない年代物で、ところどころ錆びた鉄鍵をまじまじ見つめる。
「これは?」
「伯爵邸の裏門の鍵よ。あとで返してちょうだいね。あなたなら、鍵を複製するなんて簡単でしょう?」
「当たり前だ! すぐにできるよ、できるが……まさか」
ダイレでさえも、その先を口にすることは
——ブライス伯爵家令嬢ともあろう人が、自宅を囮にして犯罪者を誘き出し、捕まえようとしている。
目的を果たすという意味では、とても効率的で、効果的な手だ。『イヴァンとエラ』は殺人を好み、富裕層から手っ取り早く高額な盗みを働く傾向にある。だったら、メイドや使用人が多く、その割には警護も厳しすぎず、おそらく高価な品物がそこいらにあるだろう伯爵邸、そこの使われていない裏門の合鍵が手に入るとしたら、まず間違いなく食指を伸ばしてくる。
しかし、貴族ともあろう者が己の家を囮にすると言い出すなど、誰も思いつかない。たとえ最良の手段だったとしても、多くの貴族は「屋敷の中に下賎な犯罪者を入れるなどおぞましい」と言って拒否するに違いないからだ。
(凶悪な犯罪者相手とはいえ、そこまでするか! このお嬢様、とんでもねぇこと考えやがる……しかも、断れる状況じゃねぇ、くそ!)
今のダイレにできることは、ミリエットの命令に従うことだけだ。
少し悩んだのち、すっかり抵抗を諦めたダイレは承諾した。危険は危険だが、この先の身分や生活の保証を、今後とも警察への協力だけで手に入れられるのなら、決して悪い話ではない。
「売りつけたあとは、急いでここに戻ってきなさい。口封じに殺されたくはないでしょう」
「あ、ああ、そりゃそうだ。そうするよ、だが、いいのか……!?」
「覚悟はできている、と言ったでしょう? 極悪人は処刑台へ、それも見境なく人を殺す獣以下の下衆どもは早々に葬らないと、私たちも安心して眠れないわ」
わざと強い言葉を使って、ミリエットは件の夫婦をなじる。それほどまでに捕まえる決心を固めているのだ、と示して、警察もダイレも護衛も決死の覚悟で取り組むよう仕向けているのだ。
ミリエットは知っている。『イヴァンとエラ』のことも、このあとどうなるかも、すべて知っている。だからこそ、気を抜くわけにはいかない。
無意識のうちに、テーブル上に出した右拳を握り締め、ミリエットは鋭く言い放つ。
「ここで引導を渡す。それだけよ」
それはダイレだけでなく、背後の護衛の兵士たちまで背筋を凍らせるような、鬼気迫った決意だった。
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