第15話 絶望の旅立ち
翌朝、ルノルノは持てる限りの家財道具を持ってキルスに跨った。
もちろん重さには限界がある。
せいぜい持てるのはポーチ、父の三日月刀、火打ち石と火打ち金、歯木、ナイフ、革の水筒、毛布そしてレイボル、レイゴル、レイギルといった燃料を少し。
三日月刀は鞘が無かったので寝床のシーツを巻きつけて刃を守った。燃料は布袋に詰めた。火打ち石や火打ち金、歯木、ナイフは床に散らばっていたチーズや干し肉とともに、いつものポーチに入れておいた。
ポーチは斜めがけにし、それ以外の荷物は全てをまとめてキルスの背に乗せた。
昨夜はあまり眠れなかった。うとうととしては胸に差し迫る恐怖が蘇って目が覚めた。それを何回も何回も繰り返して闇の中で目を覚まし、やっと訪れた朝だった。
キルスに跨り、広場を通過する。
『お父さん』
地面に横たわる父親に声をかける。
剣のこと、馬のこと、弓のこと……色々教えてくれた父。厳しかったが頼り甲斐のある父だった。
『お母さん』
全身に矢を受けて倒れている母親に声をかける。
いつも温かいご飯を作ってくれて、家の中を明るく賑やかにしてくれていた母。もっともっと女の子らしいことを教えて欲しかった。
最後に愛しい姉を見る。杭で体を貫かれ、苦しかっただろう。
『お姉ちゃん』
いつも甘えていた時のように声をかける。
『……お姉ちゃん』
温かく懐かしい夢に浸るように、ルノルノは姉の姿を見つめた。
夢と現実が交錯する。
大好きな姉に抱きつくと、優しく抱き締め返して頭を撫でてくれる思い出が蘇った。
『……お姉ちゃん』
馬の上からでは俯いた姉の顔は見えない。
もう一度顔を上げて、優しい目で見つめて欲しい。
そう思った刹那、あの苦しげで、悲しげで、恨めしげで、無機質な瞳がルノルノの心を深く抉る。
胸が苦しい。
息が出来ない。
頭の中が真っ白になる。
あの時、引き返していたら。キルスに乗せることが出来たなら。もしかしたら今でも姉は……。
助けられなかった。助けられなかった。助けられなかった!
頭を抱える。
耳鳴りがして頭の中に響き渡る。
『ごめんなさい……』
弱くてごめんなさい。
戦えなくてごめんなさい。
助けられなくてごめんなさい。
自分だけ生き残ってごめんなさい。
『……行こう、キルス』
狂いそうになる気持ちを必死に抑えながら、キルスのお腹を踵で優しく圧した。
向かうのは東。
愛しい姉、父、母のいない世界にどれだけの意味があるのか分からない。
だがもしこのまま生き続けるなら、頼ることが出来そうなのは隣のユルヴァハン族のオルハンだった。彼ぐらいしか部族外の知り合いはいない。
どのぐらい向こうなのか分からない。どのくらいかかるのかも。
あの野蛮な兵士達の姿は無かった。
彼らに捕まればどんな拷問を受けていたのかは分からない。でもみんなと一緒に死んだ方が良かったかもしれない。
自分一人生き残ったところで何も出来やしない。
生きていて良かったのか、死んだ方が良かったのか。
ただはっきり言えるのは、生きていてももうあの温かい時間は戻って来ないということだけだ。
所々雪の残る草原を進む。
やがて広大な川が見えて来た。
バヌール川である。
冬の間は穏やかだが雪解け水が本格的に流れ出すと氾濫を起こす暴れ川に変貌する。
ふと以前にオロムとした会話を思い出す。
東岸へ渡る場所がある。ただそれが北なのか南なのか分からない。
ちゃんと確かめておけば良かったが、もはやどっちでも良いような気もする。
ルノルノは南に向かった。
寒い北よりも暖かい南の方に行きたかった。それに南側の方が下り坂になっている。まだ進みやすい気がした。
『死にたい』
ぽつりと声にして呟く。本心だが本能は生きようとしてしまう。だから前に進んでしまう。
ふと今はまだ夢の中なのではと思ってみる。
長く怖い夢を見ていて、目が覚めるといつもの朝が始まる。
オロムやセフタル達とふざけながら糞集めをして、朝食を食べて、遊牧のお手伝いをする。夕方になったら大好きな姉に甘えて、一緒に遊ぶ。夕飯を食べて、眠くなるまで母親から服の作り方を習ったり刺繍を習ったりする。そして暖かな部屋でまた羊毛の毛布に
『寒い……』
いつの間にか日は西へ傾いている。
食欲はないが、空腹で零下の中にいるのは自殺行為だ。
ポーチから乾燥チーズを一つ取って少し齧った。
ふと太陽が地平線に沈む前に火を点けないと危険だと思い付く。まただ。また本能は生きようとしてそういうことを気づかせる。
レイボルとレイゴルを取り出し、火起こしの石と火打ち金で火をつけようとしてみた。しかし全然つかなかった。母親はもっと簡単につけていた気がするが、こういう些細なことでも母親に習っておけばよかったと今更ながら思う。
結局、火が起こせないまま、辺りは闇に包まれた。
同時に満天の星空が広がる。
ルノルノは毛布に包まって、空を見上げた。
いつもは気にも止めていなかった空が広い。
『お姉ちゃん、寒いよ……』
首飾りに結わえた姉の遺髪に語りかける。
昔、別に寒くもないのにそう言って一緒に寝てもらったこともあったな、と思い出す。
またああやって温めて欲しい。お姉ちゃんの温もりが恋しい。
このまま冷気に身を任せて凍死した方が良いのかもしれない。
お姉ちゃんの後を追いたい。
生きる気力も尽きそうだった。
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