第9話 婚約の腕輪と首飾り

 翌日、朝早くにクルルスとオルハンはラガシュマの集落を発った。見送りはラガシュマ族九十七人総出だ。


 その中心にいたのは族長ムラグルとロハル一家だった。



『昨日はすみませんでした。取り乱してしまって……』



『いや、こちらこそ済まなかった。君のお姉さんを想う気持ちは十分に受け止めたよ』



 ルノルノとオルハンはお互いが申し訳なさそうに握手を交わしてそう言った。


 そしてオルハンはミアリナに腕輪を渡した。綺麗な瑠璃石ラピスラズリが嵌め込まれたもので、アルファーン帝国の街で仕入れたものに違いなかった。



『ユルヴァハン族の伝統では婚約の証に男から女性に腕輪を送る習慣があります。もしよければ結婚するその日までつけて持っておいてください』



 ミアリナはそれを大事そうに受け取ると、自分の左手首につけてみせた。そして恥ずかしそうにそっと革で出来た質素な首飾りをオルハンに渡した。オルハンの高価そうな腕輪に比べれば非常に素朴で、明らかに自分の手で作ったものであった。



『ラガシュマの伝統では、婚約の証に女性から男性へ首飾りを贈る風習があります。その……こんな見窄らしいもので恥ずかしいのですが……受け取っていただけますでしょうか』



 オルハンはそれを大事そうに受け取ると、自分の首につけて見せた。



『今日から私の一番の宝物にしますよ』



『ありがとう……ございます』



 ミアリナは照れながら、嬉しそうに頷いた。


 こうして婚約が成立した。ラガシュマの誰もがこの二人の婚約を祝福した。ただ一人、ルノルノだけは複雑な心境だった。








 ユルヴァハンの二人が去ると、祭りと婚約の余韻もそこそこに、いつもより少し慌ただしい日々が始まる。と言うのも、来週あたりから春営地に移動する準備に取りかからなくてはならないからだ。


 春営地はみんなばらばらのところになるので、集落は一旦解散となる。


 みんながまた一堂に会するのは半年ほど先ではあるが、全くのばらばらになるという意味ではない。


 春営地の場所は世帯毎にある程度決まってはいるが、草の生え方の良し悪しなど自然に左右される因子も加味されるため、流動的な側面もある。


 そういう理由から、状況次第では情報共有が必要となる。だから集落は一旦解散になるとは言っても、比較的連絡を密に取り合い、お互いの位置を確認し合っている。


 もちろん前もって行われる相談も大事だ。各世帯が事前に、綿密に話し合って春営地を設定していかなければならない。


 そういう訳で、ロハルは春営地の最終確認のため、族長のマフで開かれる寄合に行ってしまった。


 ルノルノとミアリナは自分達のマフに戻り、まずは私物をまとめることにした。


 しばらく黙って片付け作業をしていたが、ミアリナは不意に手を止めて、腕輪を嬉しそうに眺めた。



『こんな綺麗な腕輪、初めて見たわ』



 ルノルノも初めて見た。腕輪の青い石は美しいミアリナに良く似合っていた。



『いいなぁ』



 ふと昨日まではなかった感情が頭を擡げて来る。


 昨日までは姉と離れるのが寂しくて、オルハンが妬ましかった。


 それは今も変わらない。


 しかし同時に彼が羨ましい。


 あんな腕輪を送るだけで姉の心を掴んでしまえる彼が羨ましい。


 しかし自分が送れる腕輪はせいぜい羊の皮で編んだ簡素な腕輪だけ。そんなもので姉の心なんか掴める訳がなかった。



『ルノルノも結婚する時になったらもらえるわよ』



『え? あぁ……うん』



 ミアリナはどうやら腕輪のことを羨ましがっているものと考えているようだが、実際のルノルノの気持ちはもっと複雑だった。



(何考えてるんだか……。女の子は男の人と結ばれて幸せになるものなのに……)



 頼り甲斐のある男性と結ばれるのはきっと幸せなことだろう。


 父親は自分達の幸せを願って送り出すと言っていた。


 それはつまり彼のような人と結ばれることを願っているということになるのだろう。


 女の子としての幸せ。それは剣で男の子に勝つことでも馬に乗って遊牧をすることでも弓矢で狩をすることでもない。素敵な男性と巡り合い、結婚することだ。



(だからお姉ちゃんは幸せになれる。それで十分じゃない)



『ルノルノ?』



 黙り込んでしまったルノルノをミアリナは心配そうに見ていた。



『あ、んーん。なんでもないよ。でも、ユルヴァハンかラガシュマの人と結婚しないと腕輪貰えないんじゃないかなぁ。他のとこはどうしてるのか知らないけど』



 取り繕うように話を合わせて、にへらっと笑ってみせた。


 ルノルノは知っていて言った訳ではないが、実際婚約の時に男性から女性に腕輪を贈る習慣があるのはユルヴァハン族とラガシュマ族ぐらいで、他の部族にはそんな習慣は無い。


 そして女性から男性に首飾りを贈るのはラガシュマ独特で、どの部族にも女性から男性に物を贈る習慣は無いのである。


 強いて言うなら嫁を貰う代わりに羊を何頭かその親に贈るというような財産のやり取りぐらいだが、それはどちらかと言えば結納の品という意味合いが強い。


 そういう意味ではユルヴァハン族とラガシュマ族はどこか叙情的な習慣を有していると言えるかもしれない。



『そうね。ルノルノもユルヴァハンの人と結婚出来ればずっと一緒にいられるのにね』



『なるほど、そういう方法があったね』



『こら、そんな安易に決めちゃだめよ』



『お姉ちゃんが言ったんじゃない』



 二人でくすくすと笑い合う。


 大丈夫。自分の中で少しずつ折り合いがついてきている。寂しくない訳じゃないけど、寂しがってばかりもいられない。だからこそ、大切な姉との残された時間を大事にしよう、そう思えるようになってきていた。



『ルノルノにもきっと良い人が見つかるわ』



 そう言われると、やっぱりオロムのことが頭を過ぎる。


 初めて向けられた男の子からの好意と温かい抱擁の感触。


 幼いルノルノには甘酸っぱさを通り越して、激しいときめきに変わる。


 しかしルノルノは頭を横に振って否定した。



(ないない。そんなことあり得ないって……)



 あの温かい感触が、自分の中で特別な意味を持つとは到底思えなかった。


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