1.拉麺

「どうしたの?」

景子さんが、弘君に尋ねた。

弘君が、太腿と脹脛を揉みほぐしている。


「何か、分からんけど、筋肉痛なんかなぁ」

弘君が答える。


「山登り」

千景は、すぐに思い付いた。


「ああ。そうやな」

弘君が納得した。

すっかり、忘れているようだ。


「せっかく、石鎚神社、お参りしたのに、ご利益、無いんやなあ」

景子さんが、残念そうに云った。

千景は、そう云う言伝えを聞いた事がない。


「お母さんは。痛とぉないんか?」

弘君が、不思議そうに尋ねた。

弘君だけ、筋肉痛になっている事に不満なようだ。

だいたい、弘君は、山登りに乗り気でなかった。


「全然や。なあ」

景子さんが、そう云って、千景に同意を求めた。


「でも、二日目に、筋肉痛になるんやったら、まだ若いっ。て事やんか」

千景は、弘君を慰めた。

これ以上、放おっておくと、夫婦喧嘩になる。


駐車場へ車を停めて、杜鵑通りを歩いている。

居酒屋「時鳥」を見付けた。


お店の入口の横に路地がある。

そこが、鷹山さんの殺害された現場だろう。


突然、弘君が、お店の横の、路地に入って行った。

弘君も暖簾を見ている筈だ。


「ラーメン屋さん。ここやで」

「時鳥」の暖簾を見て、景子さんが云った。

景子さんは、弘君が「時鳥」を見落としていると、思ったようだ。


しかし、千景には分かっている。

鷹山さんが、殺害された現場を見ているのだろう。


「チカ。ちょっと、見とって」

何をするつもりか、弘君が千景に頼んだ。

突然、弘君が路地を、奥へ向かって走った。


何を見ていればいいのか。

これは、千景にも理解、出来ない。

弘君が、奥の角まで走り着いた。


弘君が、ゆっくり歩いて戻った。

「数秒やなあ」

弘君が千景に尋ねた。


「うん」

千景は答えたが、弘君が、何を考えているのか、分からなかった。


「確かに、見えんかった。かもしれんな」

弘君が云った。

それにしても、弘君の息は切れていない。

まだ走れるんだ。

山登りでは、息が上がっていたのに。


あっ…

千景は分かった。


事件発生時、鳩井さんが、慌てて店から出た。

路地に鵜川さんが居た。


鵜川さんの足元に、鷹山さんが倒れていた。

鵜川さんが、「男が」と云った。

鷹山さんを殺害した犯人は、その男だと云ったらしい。

犯人は、路地の奥へ逃げたらしい。


鳩井さんは鵜川さんに、気を取られていたのだろう。

だから、鳩井さんが、犯人を見ていない。

と、云うのも不思議では無い。


「奥の商店街にも、飲食店があるし」

弘君が云った。

しかし、鵜川さん以外に、犯人の顔を見ていない。

路地を奥まで走れば、商店街に出る。


商店街へ逃げ込めば、隠れる場所がある。

逃げ切れるだろう。

勿論、鵜川さんが犯人ではない。という前提だ。

弘君は、それを実験したのだ。


それにしても、鵜川さんはどこに消えたのか。

犯人と一緒に逃げたのか。

誰かに、匿われて、隠れていたのか。


「何しよんな」

景子さんが弘君を叱っている。

「ごめんなさい」

弘君が謝った。


「チカ。入るで」

景子さんが、急かした。


千景は、景子さんと弘君の三人で「時鳥」に入った。

ラーメンを提供しているのは、十五時までだ。

十四時を過ぎていたからだろうか、他に客は居なかった。


雉内刑事さんから、醤油ラーメンが美味しいと聞いていた。

雉内刑事さんは、醤油ラーメンの大をいつも注文しているそうだ。

雉内刑事さんは、醤油ラーメンしか食べないと云っていた。


成程。

メニューは、醤油ラーメン。だけしか無い。

当然、三人共、醤油ラーメンの大を注文した。


お待たせしました。と、ラーメンを運んで来たのは、女性だった。


「事件があったんは、横の路地ですか?」

割箸を割って、弘君が、厨房にいる店主に尋ねた。


「そうです」

店主が、即答した。

別に隠そうともしていない。


「お店の、お客さん同士ですか」

出汁を一口啜り、厚かましく、弘君が尋ねる。


「いや、違うと思いますよ」

店主が、状況を説明した。

ニュースで、報道されていた通りだ。


「でも、他のお客さんは、吃驚したでしょ」

麺を啜って、弘君が更に、話しを店主に振った。


「そりゃ。吃驚してましたよ。儂もやけど」

店主が答えた。


「他のお客さんは、皆、常連さん。だったんですか」

叉焼を一口噛って、弘君が尋ねた。


「そうですね。月に何度か、お見えになる人もいました」

店主が答えた。


「皆、ご近所の方ですか」

メンマを口に放り込んで、弘君が尋ねた。


「いえ。街中の人が殆どでした」

店主は更に喋った。

一組は、古くからの知人だそうだ。

奥さんが、店の女将と同級生で、月に一度は必ず来店するそうだ。


「お名前。何と仰るんですか」

弘君が、店主に尋ねた。


えっ!

店主が、意外な顔をしている。


弘君が「食品衛生責任者」の免状を見ている。

名前は「梟旗辰夫」とある。


「ああ。よく聞かれるんです」

店主が答えた。

何か勘違いしたようだ。


名前は「フクロウハタ」と云うそうだ。

珍しい名前だ。


「いつ頃から、お店、始めたんですか」

もう一口、スープを啜って、弘君が尋ねた。


「五年前です」

と店主が答えた。


「それまでは、どちらに?」

と弘君が尋ねる。

それまでは、会社勤めだったそうだ。


「定年退職してから、お店、始めたんですか」

弘君が粘る。


「いえ。思う所があって、退職して、始めたんです」

少し、店主の表情が強張った。

嫌な事を思い出したようだ。


「殺された人は、朱雀製紙にお勤めだったそうですね」

弘君が尋ねた。

やっと本題に入ったようだ。


「そうらしいですね」

店主の表情が戻った。

何事も無かったような口調で答えた。


「同席していたお客さんも。ですよね」

弘が尋ねた。


「そうでしたね」

店主が答えた。

店主は無表情だ。


「他のお客さんも、朱雀製紙の関係の方だったそうですね」

ラーメンを食べ終えた弘君が尋ねた。


「よくは、知りません」

店主が答えた。


「でも、他の皆さんは、常連さんですよね」

弘君が、また粘る。


「そうですね。でも、個人情報ですからね。勘弁してください」

店主が、個人情報保護を理由に躱す。


千景は、ラーメンを食べ終わった。

「それで、梟旗さんは、朱雀製紙に勤めていたんですか」

千景は、店主の梟旗さんに、直截尋ねた。

そう直感的に思った。


多分、弘君も、そう思ったのだろう。

どうして、そう思ったかは分からなかった。


しかし、梟旗さんは「そうですよ」と頷いた。

やはり、何も隠すつもりは、無いようだ。


「なんや。皆、朱雀製紙の関係者やったんや」

弘君が、間髪入れずに云った。

「何か、あるんですよね」

弘君が尋ねた。


「そんな訳ないやろ」

梟旗さんが、何故が笑顔で返した。


「でも、何で、そんなに興味があるんですか」

梟旗さんが、苦笑いしながら、弘君に尋ねた。


「私が鵜川さんの遺体を発見したんです」

弘君が答えた。

「あっ。いや、発見したんは、娘です」

弘君が訂正して、付け加えた。


千景は、丁寧にお辞儀をした。

梟旗さんが、驚いている。

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