6.見学

「工場見学は、実施していない。そうや」

弘さんが、景子に云った。


花宮社長との約束で、平日は、石鎚山市内に、居なければならない。

実兄のドナーになった、女性事務員の体調を考慮してのことだ。


体調を崩した場合は、弘さんが、花宮水産の石鎚山営業所で事務をする事になっている。


しかし、今日は土曜日だから、会社は休日だ。

だから、石鎚山市に居る必要が無い。

今日と明日は、居所の拘束が無い。


「何で、先に、確認せんかったん?」

景子は怒った。


「まあ、良えやん。石鎚山市へは、また何回も来るんやし。今日は、紙の町、三之洲を観光や」

千景が執成した。


明日、景子は自宅へ帰る。

確かに、石鎚山市へは、何回も来る事になる。


「それじゃあ、折角だから、紙の資料館へ行きましょ」

景子は、気を取り直して云った。


「ああ。いや。工場内見学は、駄目なんやけど」

弘さんが、恐る恐る云った。

事務所のモニターで、工場内を見学出来る。

係員さんが、説明はしてくれるそうだ。


「えっ」

千景の顔が綻んだ。


千景が喜ぶのなら、それで良いのだ。

景子は、了解した。


しかし、景子は、製紙工場に興味が無い。

説明を聞いても、理解出来ない。


ところが、弘さんと千景は、別の係員さんと、楽しそうに話しをしている。

景子は、何か、嫉妬を感じた。


十五時前に、工場見学は終わった。

事務所の一画が、見学モニタールームになっている。


お礼を云って、事務所を出ようとした。

その時、男が入って来た。


事務員が、席に着いたまま、男に軽く会釈した。

そして、すぐに、外方を向くように、自身の作業に集中した。


景子達三人を出入口まで見送った、見学の係員さんも、男に、軽く会釈して、目を逸らせた。

その男は、随分と嫌わているようだ。


「誰ですか」

弘さんが、係員さんに尋ねた。

男が、工場長室へ入って行った。

従業員の誰もが、気配を追っているのが分かった。


「鶴見課長ですよ」

係員さんが、露骨に嫌な顔をして答えた。


事務所の出入口で、弘さんが、係員さんに向かって囁いた。

「何課の課長さんですか」

もう一つの質問だ。


「秘書課の、課長です」

係員さんが答えた。

そして、「副社長の秘書です」と付け加えた。

何か、係員さんの言葉に、敵意を感じた。


「ありがとうございました」

秋山一家は、係員さんに、お礼を云って、工場を後にした。


景子は。ちょっと、喉が渇いた。

「どっか、入らない」

景子は、どこかで、休憩したかった。


「でも、もう、三時だから、早く資料館へ行こうよ」

千景が云った。

資料館は、四時までだから。


紙の資料館へ行こう、なんて、云わなければ良かった。

製紙工場にも、紙の資料にも、全く興味が無い。

景子は、何でこんな、拷問を受けているのか分からない。


景子は、資料館を早足で巡り、さっさと出入口にいた。

一時間後、やっと、弘さんと千景がやって来た。


「なんや。ここやったんか」

弘さんが云った。

あまり、元気が無さそうだ。


「全く、手掛り無かったなあ」

千景が、訳の分からない事を云った。

期待外れだと、云わんばかりの顔をしていた。

二人共、疲れている。


「どっかで、休憩しようか」

景子は、ずっと喉が渇いている。


景子は、紙の資料館へ来る道筋で、洒落たカフェを見付けていた。


「そしたら、喫茶店、行こう」

弘さんが云った。

来る途中で、風情のある喫茶店を見付けた。と云っている。


あの、洒落たカフェの事だろう。

弘さんは、カフェを古風に喫茶店と云う。


紙の資料館から、車で十分足らずの筈だ。

が、景子が目指していたカフェに差し掛かった。


「ちょっと。ここと違うん?」

通り過ぎた、後方のカフェを指差して云った。

「どこ行くん?」

景子が慌てて、弘さんに尋ねた。


「えっ。ここや」

弘さんが、駐車場へ車を停めて云った。


「ここなのぉ…」

景子は驚いた。

成程。

古民家風ではない。

古風な、と云うより、古びた喫茶店だ。


「千景。ここで、良いん?」

景子は、千景に、反対意見を望んでいた。


「うん。良い」

千景の生返事。

千景は、ずっとスマホに見入っている。


景子は、渋々、店内に入った。

えっ。

驚いた。


良いかもしれない。

景子は思った。


テーブルもソファも、高級なアンティーク家具ではない。

それは、外観からも察しが付いていた。


使い古した家具。

大切に使用して、補修してきた家具だ。


席は、テーブル席だけ、五セット。

全て窓際。

カウンターはあるが、スタンドチェアーは無い。


メニューを見ると、やはり、懐かしい軽食ばかり。

飲み物も、ブレンドコーヒー、紅茶とジュースくらいだ。


景子は、イタリアンスパゲティを頼んだ。

千景が、カレーライスで、弘さんが、カツサンド。

確かに、弘さんの嗜好に合っている。


景子は、食事を済ませて、紅茶を飲んでいた。


お客さんが入って来た。

男の人だ。

見覚えがある。

景子は、軽く会釈した。


ああっ!

男が驚いている。


声に驚いて、弘さんと千景が振り向いた。

二人共、景子に倣って、軽く会釈した。


「どうして?」

男が、席に近寄り、不思議そうに尋ねた。

どうして、三之洲市に来ているのかと尋ねた。


「いや。朱雀製紙の工場見学に」

弘さんが答えた。


「刑事さんは、どうしたんですか」

弘さんが、尋ねた。


ああ。刑事さんだ。

昨日、景子は、石鎚山の登山口の駐車場で会ったばかりだ。

見覚えがある筈だ。


景子は、色々、尋ねられたが、千景が応えていた。

ほぼ、尋ねられた内容を覚えていない。


「いや…」

刑事さんは、口ごもった。


「刑事さんも三之洲工場ですか?」

弘さんが尋ねた。


刑事さんは、沈黙したままだ。

「鷹山さんと、鳩井さん。やったかな」

弘さんが云った。

「私も、二人の事、聞きましたよ」

弘さんが云った。

工場の説明をする係員さんが、結構、詳しく教えて教えてくれた。


ええっ!ええっ?

刑事さんと景子は、同時に声を上げた。


更に。

「副社長秘書の鶴見課長。ご存知ですか」

弘さんが尋ねた。

何だか、皆から、随分、嫌われているようだったが、どういう人ですか。と刑事さんに尋ねた。

こういった事を聞き出すのは、弘さんの得意技だ。


それと、こんな店を見付けるのも得意技だ。

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