2.登山

千景は、弘君と景子さんの、三人で石鎚山へ登る事になった。


木曜日、突然、景子さんからメッセージの着信があった。

「今、石鎚山市に、来ている」

明日、学校を欠席しなさい。

という内容だった。


「どういう事?」

早速、千景は、メッセージを返信した。


景子さんから、説明のメッセージがあった。


内容は。

弘君が、四月中旬から、石鎚山市に来ている。

花宮水産の、石鎚山営業所に勤務していた。

営業所の女性事務員さんが、兄の生体肝移植のドナーになったからだ。


今週、初めに女性事務員さんが出社した。

無事、手術は成功した事は、連絡を受けていた。


実際に、顔を見ると、元気そうだった。

と云っても、その時、初めて顔を見たらしい。


弘は、女性事務員さんに、休暇中の事務処理の引継ぎを終えた。

契約期間は二ヶ月で、来週の金曜日までだった。

しかし、引継ぎは終わっている。


花宮水産の社長は、引越しの準備もあるだろうと、考えたようだ。


引越しの準備と云っても、荷造りは、ほぼ無い。

家具、電気製品は、アパートに備え付けられている。

だから、荷物は、着替えだけしか無い。


宿泊していたアパートは、来週の日曜日までになっている。


花宮社長は、女性事務員さんに、何かあった場合を想定したようだ。

連絡が取れるようにして、石鎚山市で居るように云われたそうだ。


つまり、何も無ければ、十日間の休暇になる。


それで、明日、一緒に市内観光する。

とう内容だった。

長文のメッセージだった。


成程。

景子さんは、浅井弁護士事務所へ勤めている。

弁護士事務所といっても、弁護士一人、事務員一人の個人事務所だ。

勤務時間の融通が利く。


それにしても、授業を欠席して、市内観光?

弘君とは、週に一度、会っている。

毎週、土曜日の朝、九時に、校庭の駐車場で待ち合わせて出掛ける。


アーケード街の、マドンナ通りで買い物したり、昼食を食べたりしている。

石鎚城へも行った。

湯放町の温泉へも行った。

だから、今更、市内観光と云われても。

と思っていた。


今週は、共用部清掃の当番ではない。

だから、交替者に依頼する必要がない。

門限までに帰寮すれば良い。


そして、金曜日。

七時に寮の前に集合して点呼。

ラジオ体操。

周辺の清掃。

七時三十分に朝食。

いつもは、八時に登校の準備だが。


千景は、八時に、両親と校庭の駐車場で、待ち合わせをしている。


授業は、まだ始まっていない。

自宅から通っている学生達が、次々と登校して来る。

驚いたのは、車で送ってもらっている学生も、結構、居る事が分かった。


千景は、少し、いや、かなり罪悪感を覚えながら、駐車場へ向かった。


弘君が、見慣れた車で、迎えに来ていた。

いつものように、助手席に乗り込もうとした。


「チカ。こっち」

景子さんが、後部座席に招く。


弘君が、タクシーの運転手のようだ。

後部座席に、景子さんと千景が乗って校庭を出た。

市内観光へ出発だ。


ところが、突然、石鎚山に登山する羽目になっていた。

弘君が運転して、石鎚山へ向かった。

弘君は、絶対にそんな事を云わない。

おそらく、景子さんの、気まぐれだろう。


「突然」だったので、道が分からない。

景子さんが、スマホでナビをしている。


石鎚山の標識のある駐車場に車を停めた。

登山口から山頂を目指した。


川を見下ろしながら、整備された登山道を登った。

千景は先鋒。

次鋒が景子さん。

弘君が大将。

なのだが、大将が、随分と遅れて付いて来る。


弘君が、後ろの彼方に見える。

五メートル程登っては、木の幹に寄り掛って休んでいる。


千景も少し汗ばんできた。

しかし、休憩する程ではない。


弘君が、また、木の幹に手を付いて休んでいる。


途中、鎖場も弘君は、迂回道を歩いた。

お酒と煙草が祟っているのだろう。

何度、景子さんが意見しても、直らない。


九時前に登り始めて、石鎚神社に辿り着いたのが十二時三十分だった。

ずっと木陰を歩いていたが、それでも少し汗ばむくらいだ。

山頂は、かなり日射しが強い。


石鎚神社に参拝して近くのベンチに腰掛けた。

意外にも登山客は少ない。


千景は、景子さんと、コンビニで買ったおにぎり二個を食べた。


後から、汗だくの、弘君が到着したのは、十三時。

なんと、駐車場から四時間。


降りるのに、同じくらい掛かるとすると、

十七時を過ぎる。

それは困る。

実は、十八時に、焼き肉屋さんへ予約を入れている。


千景は、スマホで写真を撮った。

何の下調べも無く、石鎚山へ登った酬いだ。


弘君の山頂での滞在時間は、なんと、十五分だった。

おにぎりさえ食べなかった。


また、同じ順番で、山を降り始めた。

緩やかな坂道を降りた。

また渓谷の景色だ。

山を降りる時は、結構、脹ら脛に力が入る。

慣れてしまえば、登りより楽だ。


後ろから、弘君が、足を引き摺って歩いて来る。


こんなに絶景だったのかと驚いた。

「ちょっと、待ちましょう」

景子さんが、弘君を待とうと云った。

案外優しい。


いや、景子さん自身が、疲れたのだ。

頻りに、脹ら脛を摘んで、疲れを解している。


千景は、スマホを翳して、写真を撮った。

かなり余裕ができた。


真っ直ぐ、正面の山並み。

景子さんが、あれは、「剣山だ」と云った。

景生まれ育ったのは、祖谷国森だ。

剣山の姿が見える地方だが。

後で、「かもしれない」と訂正した。

千景は、しっかりと、写真を撮った。


右手に広がる鹿山高原。

下を流れる川を覗いての写真。


あれっ。

河原に、誰か倒れている。

うつ伏せだ。

白い上着を着ている。

遭難したのかもしれない。


石だらけの河原で、眠っている筈がない。

動く気配がない。

勿論、人形なんかではない。

と思う。


「お母さん。あれ」

千景は、指差して、景子さんに知らせた。


景子さんが、ペットのお茶を飲んでいる。

「何ぃ?」

景子さんが、千景の指差す河原を見た。


「誰か倒れてる」

千景が云った。


「いやあ。参った。あそこで、転けた」

弘君の声だ。

転けたけど、倒れたりは、していない。

と弘君が、呑気な事を云っている。

いつの間にか、追い付いていた。


「お父さん。あそこ」

千景は、もう一度、河原で倒れている人を指差した。


「スマホ。電波が圏外や」

弘君が云った。

救助要請が出来ない。


千景は、スマホを見た。

確かに圏外だ。

警察に通報も出来ない。


千景は、景子さんと、駐車場へ急いだ。

せめて、スマホが、繋がる場所まで、降りないと。


弘君は、「あの河原へ降りる」と云うと、脇道を見付けて降りて行った。


千景は、景子さんと駐車場へ辿り着いた。

景子さんの足が震えている。

倒れた人を見た、恐怖なのか。

それとも、坂道を急いだ、疲れからなのか。


倒れた人を発見してから、一時間、経っている。


「もしもし。重河渓の河原で、人が倒れています」

景子さんが、救助要請の電話を掛けている。


不謹慎だが、これで、今夜の焼き肉は、無くなった。


残念。

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