一章
「早く戻ろう」
スマホの電波状態が、圏外になっている。
早く駐車場へ戻らないといけない。
救助を求めるにも、スマホが繋がらない。
せめて、スマホが繋がる場所まで、行かなければ。
急ぐ。
鷲尾が谷へ落ちた。
鳩井智哉は、鵜川悠人、鷹山久志と鷲尾卓の四人で、石鎚山へ登った。
鳩井は、鷹山の後に付いて、山を登っていた。
鷹山は、体格が良い。
講義の合間でも、スクワットをしている。
何故、そんなに身体を鍛えるのか分からない。
筋力トレーニングに、命を賭けているとしか思えない。
鳩井は、高校時代、野球部だった。
甲子園を目指す程では、無かったが、一生懸命、練習に励んだ。
大学へ進学してから、アルバイトが忙しくて、部活には入っていない。
ただし、ずっと土木作業のアルバイトをしていた。
体力には、自信がある。
だから、鷹山に付いて行く事が出来た。
鵜川と鷲尾が、葛折りの山道を二曲がりか、三曲がりくらい、遅れて登っていた。
鵜川は、極、真面目に学業に、取り組んでいる。
ゼミで、テーマ別の発表の時、教授が質問したのは、鵜川の研究だけだった。
教授が、質問するのは、珍しい。
ただ、酒癖が悪く、仲の良い鷹山と鷲尾も閉口するそうだ。
鷲尾は、釣りが趣味で、休みに近場の磯へ向かうそうだ。
皆に、チヌや鯵を配って、喜んでいた。
ただ、誰も魚を捌けない。
それを知って、三枚におろして配っていた。
鳩井も切身の鯵をもらった事がある。
その鷲尾が、谷へ落ちたのだ。
鵜川の悲鳴のような、大声が聞こえた。
下の山道を覗いたが、二人の姿は見えない。
「どうした!」
鷹山が怒鳴った。
「鷲尾が落ちた」
鵜川の声が聞こえる。
慌てたように、鷹山が山道を戻り始める。
鳩井は、また、鷹山の後に付いて、坂道を急いで降りた。
登り坂より、降り坂の方が、脚に衝撃が大きい。
三曲がり降りた。
岩肌の迫り出した、杣道に鵜川が居た。
そうだ。
鷹山が鳩井に、「ここ、危ないぞ」と注意した所だ。
岩肌に手を添えて歩いた。
そんな、危険な難所が、何箇所もあった。
鷲尾が落ちた、という所から、下を覗いた。
恐ろしく切立った崖だ。
鷲尾の姿は見えない。
まず、こんなに、危険な山道が登山道なのか、と不審に思った。
救助を要請しようと、一斉にスマホを握った。
しかし、三人のスマホは、全部、圏外だった。
鷹山と鵜川は、慌てた様子で、山道を降り始めた。
鳩井は、不審に思った。
鷲尾が落ちたという箇所には、滑ったような跡が無い。
闇雲に降りて、後から落ちた場所を特定出来るのだろうか。
スマホの電波は圏外だが、カメラは使用可能だ。
落ちたという箇所。
周りの景色。
写真を手当り次第撮った。
先に降りて行く二人は、もう随分、下に居る。
鳩井は、慌てて二人を追って、山道を降りた。
夏休みになると、登山客が多くなる。
だから、七月の夏休み前に、石鎚山へ登ろうと計画していた。
四人は、石鎚山大学の四年生。
同じゼミを受講している。
鳩井は、他の三人と、さほど親しくは無かった。
それでも、鷲尾に誘われて、少し嬉しかった。
他の三人は、よく居酒屋へ飲みに行くそうだ。
鳩井は、居酒屋へ誘われた事が無かった。
四人共、早々に、単位を取得していた。
後は、ゼミの卒論を仕上げるだけだ。
鳩井は、朱雀製紙に就職が、内定している。
朱雀製紙は、地元の大企業で、地元というだけで、優遇されたのかも分からない。
実は、受講しているゼミからは、毎年、何人か、朱雀製紙に就職している。
鳩井も、朱雀製紙に就職を希望していた。
だから、少しは、打算があった。
朱雀製紙には、石鎚山本社と東京本社がある。
大阪と名古屋に支店がある。
地元にも予南市、栗林市、眉山市と龍河市に営業所がある。
他にも、工場と倉庫が、予東の三之洲市にある。
三之洲市は、製紙工場の街だ。
三之洲市内にある、どの会社も、朱雀製紙と、何らかの関係がある。
朱雀製紙に、採用された地元出身者は、大抵、石鎚山本社か営業所、もしくは、三之洲工場へ配属される。
鳩井と同じく、他の三人も、皆、朱雀製紙に内定している。
鳩井は、一緒に示し合わせた訳では無い。
偶然だ。
三人は、採用試験会場へ、一緒に行ったそうだ。
鳩井が、朱雀製紙に内定したのを聞いて、登山に誘ったのかもしれない。
今後、色々と付き合いがあるだろうから。
くらいの、気持ちだったのだろう。
駐車場へ戻る途中、三人は、何度もスマホを確認した。
しかし、スマホは圏外のままだ。
しかも、他の登山客とも出会わない。
更に、重河渓ルートは、かなり険しい登山道だ。
わざわざ、登山客の少ない日を設定していたのが、拙かったようだ。
重河渓を下り、駐車場まで戻った。
やっと、スマホの電波が圏内になった。
事故が発生してから、既に、一時間経っていた。
鳩井は、警察に通報した。
鵜川が消防へ救助を要請した。
警察車両と救急車が、重河渓から石鎚山の登山道へ向か駐車場へ到着した。
三十分程して、救助ヘリコプターがやって来た。
鵜川が、救助隊員から、鷲尾の落ちた場所を聞かれている。
鳩井は、救助隊員に近付き、スマホの画面を見せた。
十分後、救助ヘリコプターが飛び立った。
それから二時間後、鷲尾が発見されたと連絡があった。
スマホで撮った写真を手掛りに、捜索したという。
転落した場所は、すぐに特定する事が出来た。
葛折りの、岩肌が迫り出した杣道だ。
だが、その真下の周辺に、鷲尾は居なかった。
救助隊員は、そこから十メートル程、東の沢の岩場で、鷲尾を発見したそうだ。
救助隊員が沢へ降り、鷲尾を確認した。
その場で、死亡が確認された。
崖から岩場へ転落する際、山肌に突き出した岩に、何度か衝突した形跡があった。
即死だったらしい。
鷲尾が、ビニールカバーに包まれて、駐車場まで戻って来た。
いつの間にか、一人の女性が、鷲尾の側に走り寄った。
鷲尾は、救急車に運び込まれた。
「可哀想に」
鷹山が云った。
女性は、鴨池さんというそうだ。
鷹山が、駐車場に着いて、すぐ鴨池さんに、連絡を入れたそうた。
何となく、鴨池さんと鷲尾の関係が、想像出来た。
気丈にも、鴨池さんは、泣いていない。
後日、三人は、警察から何度か事情聴取を受けた。
警察は、不審な点が無かったので、事故死として処理した。
鳩井は、警察で、ある事を知った。
四人が登った登山道は、途中で二岐に分かれている。
一方は、以前から立入禁止になっている。
その立入禁止の山道を登っていたそうだ。
随分、危険な登山道だと思った筈だ。
しかし、そんな標識は無かった。
智哉は、先頭を登っていた鷹山から、二メートル程後を登っていた。
だから、そんな標識があれば、気付く筈だ。
その後、立入禁止の標識が、見付かった。
分かれ道から、本コースに入った草叢に、置き去られていた。
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