不確実な稜線

真島 タカシ

序章

待てえぇい!

近くで、大声が聞こえた。

追う者の、決り文句だ。


追われる者は、「待て」と云われても、待つ筈がない。


見下ろすと、侍が、山道を駆け登って来る。

一瞬、侍が崖を見上げた。

まだ若い。

城下で見掛けない顔だ。


教覚は、甲音で法螺貝を鳴らした。

すぐに、上の方から、乙音の法螺貝の音が返って来た。


若侍が、すぐ下の、葛折りの角に差し掛かった。

その後を四人の侍が、剥身の刀を手に、登って来る。

髷しか見えない。

若侍を追い掛けているのは、間違い無い。


若侍が駆け登って来た。

若侍は、教覚を見ると、驚いたようだ。

まだ、逃げていないのか。と云いたそうだ。


教覚を庇うように、向きを変えた。

追手を迎え討つように、立ち止まった。


四人の侍が、すぐに追い付いて来た。

若侍を追って来た侍に見覚えがある。

一人は、鵜川嘉衛門。

もう一人は、鳶田慎介だ。


二人共、馬廻の暴れ者だ。

年寄の梟旗刑部の一派だ。

梟旗とは、フクロウハタと呼ぶ。

代々、藩主賀茂家に庇護されている。


後の二人も、見覚えはあるが、名は判らない。

おそらく、同じ番方だろう。

番方は、ほぼ、梟旗刑部一派と云っても、過言では無い。


今度は、教覚が、庇うように、若侍の前に出た。

「刀を収めろ!」

大声で怒鳴った。


「その男をこちらへ寄越せ!」

一人が、刀を構えて怒鳴り返した。


「ここは神聖な石鎚山だ。まずは刀を収めろ」

教覚は怯まず、侍に云った。


「貴様あ!其奴諸共、斬り捨てるぞ」

別の一人が怒鳴った。

助っ人が、一人だけだと思って、強気だ。


教覚は、金剛杖を構えた。

「この山には、修験者が、多く入っている」

教覚が威す。


近くで、法螺貝の音が聞こえる。

先程、法螺貝の音で、助けを求めていた。


「聞こえるだろう。もう近くまで、何人もの修験者が来ている」

大勢の助太刀が来る。と仄めかした。


おおーい!

野太い常慶の声だ。


「おい。覚えておけよ!」

侍は、捨て台詞を残して、山道を降りて行った。

逃げる者の、決り文句だ。


「おお!大丈夫か!」

すぐに常慶が、駆け付けて来た。


「何があった?」

常慶が尋ねた。

常慶も修験者で、教覚とは旧知の仲だ。


「忝ない。拙者は…」

若侍が名乗った。

石鎚藩、江戸藩邸、目付、鳩井進次郎。

鳩井進次郎は、国許に戻って来ている。

重河村へ、向かう途中だった。

昨年、また、領内に大災害が起こった。


七年前、二年に及ぶ大飢饉があった。

石鎚藩は、災害の少ない土地柄で、飢饉に対する備えが、充分ではなかった。

領民の餓死者は、五千人を超えた。


藩主賀茂定英は、甚大な被害に驚き、目付、鷹山久元を国許へ帰した。


鷹山久元は、領内の被害を調査し、藩庁における救済策の効果を検証した。

実地検分によると、領内における農作物の収穫は、皆無だった。

藩庁は、免租や救済米の支給等、対策を講じた。


一方、鷹山久元は、精力的に領内を巡回し、逐一、藩主に報告していた。

その鷹山久元が、重河村を巡回中、何者かに斬殺されている。


元々、重河村は斜面ばかりの土地で、田が少ない。

重河村では、年貢米を納める事が出来ない。

それで、山畑で茶を作っている。

茶を売って、米相場に応じ、銀納している村が多かった。


しかし、米の値段は高騰し、茶の値段は下落する一方だった。


重河村では、長久寺に救済米が運び込まれている。

鷹山久元は、重河村の救済米の検分に向かった。


山門の手前に差し掛かった。

林が途切れて、岩肌が迫り出している。

浪人風体の男が、岩に腰掛けていた。


鷹山久元に付いていた、二人の小者が、油断なく警戒していた。


小者が、男の横を通り過ぎる折。

男が抜刀し、小者に斬り付けた。

久元は、瞬間、小者を庇い、刀を抜いた。


斬り付けられた小者は、幸い浅手のようだ。

久元は、二人の小者を逃がし、男と対峙した。


寺へ逃げ込んだ小者が、郡奉行に異変を伝えた。

郡奉行は、早急に藩吏を従え、山門へ向かった。


だが、首筋を斬られて、鷹山久元が倒れていた。

浪人風体の男の姿は無かった。


郡奉行は慌てた。

江戸藩邸の目付が斬殺された。

しかも、一太刀だ。

鷹山久元は、剣の達人と聞いている。


直ぐに追手が山を下ったが、男は、忽然と消えた。

急ぎ、藩庁へ報せた。

久元に従った小者二人の証言で、人相書を手配した。

湯放宿、糸瓜宿の人別改を実施した。


しかし、下手人は、まだ、捕えられていない。

捕えられていないどころか、下手人の目星さえ付かなかった。


その直後、藩内が困窮から回復しないまま、藩主の定英が、逝去した。

大飢饉の起こった、二年後の事だった。

後を継いだのが嫡男の賀茂定喬だった。


雁谷貞継が蟄居を命ぜられた。

少し、ややこしいが、代わって、雁矢貞国が家老に就いた。

つまり、政変が起こったのだ。


石鎚藩は、幕府からの拝借金を領民の救済に充てた。

家老の雁谷貞継が、大坂の商人に、拝借金の殆どを渡していた。

領内の穀物が壊滅状態なので、他領から米の買付けを目論んだ。


ところが、どの藩も、多少なりとも、大飢饉の影響があった。

領内の作物が、他領へ流出するのを禁じた。

これに伴い、米の値段が高騰した。

調達の出来た穀物は、極、僅かだった。

だから、貞継の目論みは、効果が薄かった。

幕府からの拝借金の使途に、不都合があったという理由だ。


雁矢貞国は、藩の財政再建に着手した。

湯放宿の御茶屋を売払った。

費用の削減を図ったのだ。

また、糸瓜宿で、芝居の興業を許し、遊女の配置を認めた。


しかし、まだ領内は、充分に飢饉から回復していない。

更に、昨年、大暴風雨が領内を襲った。

また、米の値段が上り、茶の値段が下がっていた。

領民は、年貢を納めるのに、苦しんでいた。


そんな中、雁矢貞国は、更に、財政再建を進めた。

鹿山の鹿山村は、重河村と同様、高冷地にある。

鹿山村の北鹿山と上鹿山では、畑作と茶の他に、山畑へ楮を植えていた。

楮を原料にし、農閑期に紙を漉いて売っていた。

鹿山村では、その紙漉で、生活を凌いでいた。


財政困難に陥っていた藩庁は、この紙に目を付けた。

財政補強のため、紙の専売に乗り出した。

これが「紙方新法」だった。


藩庁は、楮の株から製紙量を見積り、強制買上げを強行した。


しかし、楮の株から漉ける紙の見積りが多過ぎた。

紙漉農民は、他から楮を買入れる羽目に陥った。

藩が楮を買上げる値より、農民が他から買入れ値が高く、大きな損失を被っていた。

また、納入期限が厳しく、他の農作業に差支えた。

鹿山村の農民は、代官へ「紙方新法」の取止めを嘆願していた。


しかし、藩庁は、これを聞き入れなかった。


鹿山村の農民は、藩庁の方針に失望し、肱川領への逃散を決めた。


これに呼応するように、領内各郡の村も鹿山村と共に、肱川領に逃散を始めた。


「困った」

鳩井進次郎が、何か悩んでいる。


「何かあるのですか」

教覚が尋ねた。

鳩井進次郎が、迷っていると応えた。

危惧した通りになったそうだ。


重河村の農民も、岩屋村の岩屋神社へ集結を始めたと聞いている。

重河村へ、実情を確かめに、向かっていた。


そこへ、四人の侍が襲って来た。

教覚の機転で、事無きを得たが、今後も付け狙われるだろう。


教覚は知っている。

四人の内、二人は、馬廻。

後の二人も番方だ。


鷹山久元も、重河村の長久寺へ向かう途中、何者かに斬殺されている。

番方の仕業だろうか。


しかし、今回は、身分が知れている。

襲った理由も、何となく想像出来る。

ただ単に、脅しを掛けただけだろ。


だが、あまり刻は残って無い。

迷っても居られないのだろう。


重河村へ向かうのか、岩屋神社へ向かうか。


肱川領の内子寺に、逃散した石鎚藩の領民は三千人を超えていた。

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