第4話

 俺と葉那子は地下鉄の電車に乗っていた。

 車輌内の中は意外にもまばらで、ふたりがシートに座ってもまだ余裕は充分にあった。

 時刻は夕方へと差しかかる。俺はこの時間帯に彼女が家路につけるように店の予約時間を取り計らったのだけれど、現在俺たちが向かっているのは葉那子の家ではない。


 食事中、オムライスとハヤシライスを分け合って談笑していると、ふいに葉那子が「やっぱりワイン飲みたいわ」と言った。


「大丈夫なの? 医者に控えるように言われているんでしょう?」


「えー、でも飲みたいんだよー」


 悩ましいところだ。

 葉那子の特性について完全には知らない俺では「じゃあ、飲もう飲もう」と勢いよく同意することはできない。もしも彼女の身に何かあったらどう償えばいいのだろう。


 考えあぐねていると彼女が、


「私、ああは言ったけれど、結構飲んでるんだよ」


 と、言ってきた。


「一昨日も友達と飲んだし。泥酔するまで飲まなければ大丈夫だから。だから、お願い」


 そんな可愛い顔をしてお願いされては、こちらは弱ってしまう。

 まあ、彼女は俺よりも年下であるが、さりとて自制できないほど子供でもないだろう。

 万一、体調に異変が生じそうならストッパーになればいいのか。

 葉那子の一昨日の件は嘘か誠か、判断するだけの材料は俺にはない。

 その場合、本来は更に強く拒否しておくべきなのだろうが、拒否をして葉那子に嫌われたくないという気持ちがまさってしまった。


「わかったよ。ただし、無理しないこと」


「私、無理しないでばっかり言われている気がする〜。わかってるよ。ありがとうね」


 そんなやり取りがあって、今に至る。

 いや、今に至る前にもこんな会話があった。

 改札をくぐる前に立ち寄ったカフェでのことだ。

 ワインを飲んだにもかかわらず、まるでしらふのように平然と振る舞う葉那子はひとつのクイズを提示してきた。


「ねえねえ、私の名前、葉っぱの葉に那覇空港の那、子供の子なんだけれど、どうして葉や子はわかるとして、どうして那という漢字が使われていると思う?」


「わかんないな。どうして?」


「えー、ヒント言ったのにー。那覇が由来なんだよ」


「那覇? 沖縄の?」


「うん。お父さんとお母さんがね、新婚旅行で那覇の海を見に行ったの。そこから那覇の海のように広くて綺麗な心を持った優しい子に育って欲しいからって、私の名前をとったってわけ。今もなお愛し合っているふたりの思い出の地から名前を授かったの。だから、気に入っているんだよね」


 にこやかに、そして誇らしげに自分の名前の由来を語る彼女はとても眩しく、燻んだ魂の俺にはあまりにも綺麗に映った──天使の放つ光に浄化されそうになった。


 改札を降りる。


 俺は電子カードで、葉那子は切符を改札口に通して、改めて合流するとふたりは肩を並べて歩いた。

 地下鉄の階段を昇ると、人の数は一気に増加した。いや、この駅の地下鉄にしたって人口密度は高かったが、外に出るとその比ではない。


 すすきのだ。


「じゃあ、飲み屋を探そう」


「でも、この時間に開いている飲み屋ってあるの?」


「開いているところあるでしょう、多分」


 多分で飲み会を提案したのか。

 行き当たりばったりなところがある。

 そういうところもかわいいんだけれど。


「とりあえず探してみるか」


 俺と葉那子はすすきの街を練り歩くことにした。

 しかし、日本三大歓楽街と言ってもさすがに午後三時で開いている店はそうそうない。あっても既に席は埋まっている状況だった。

 途方に暮れる中、ランチのときに聞きそびれていた質問をした。


「葉那子は大学中退って言っていたけれど、どこの大学に通っていたの?」


 彼女は大学を中退している。それは無論、彼女の口から語られたことなのだけれど、だからこそそのときの俺は詳細を訊くのを憚られた。そこまでの距離感ではないのだと、身を引いていたのだ。

 しかし、葉那子とランチ、カフェと多くの時間を過ごしていくうちにふたりの距離もどんどん縮まり、それに伴って互いの壁が少しずつ取り払われてきた。おかげでするりと疑問を呈することができた。


「甲乙大学だよ。知ってる?」


 案の定、葉那子はあっさりと答えてくれた……え?


「その大学、俺も通っていたけれど……」


 俺も六年ほど前まで華の大学生だった。

 その大学とは彼女の口から出た甲乙大学だったのだ。


「えっ!? 嘘!? そうなの!? 通ってた大学がかぶるなんてすごいね!」


 瞳を輝かせて嬉々としてはしゃぐ葉那子。

 さすがの俺も驚いた。マッチングアプリに登録しているのは男性だって女性だって十人十色の経歴を持っている。

 現在の居住地が一緒だからといって、通っていた大学まで合致するなんて確率は限りなく低い。しかも、彼女とは出会う前も出身大学の話を一切していなかった。

 こんな偶然、驚かないほうが不思議だ。

 俺は続けて訊いた。


「じゃあ、学部は?」


「人文」


「俺も人文だった」


「まじで!?」


 俺は頷く。

 俺が彼女に嘘なんてつくはずがないだろう。

 紛れもなく本当だ。

 そうなると、次の質問の解にも期待ができる。


「じゃあ、学科は?」


「臨床系」


「ああ……」


 違った。

 もしかしたら学科までも一緒なのかとにわかに期待したが、そこまで一致するなんて都合のいい話はなかったか。

 俺は教育系の学科だ。これでも昔は教師をしていた。


「違った? まあ、そこまで一緒だったら運命的すぎるよね」


「……そうだな」


 思わぬ共通点が見つかり、若干気が急いでいた。

 葉那子のほうがよっぽど落ち着いている。

 俺も冷静にならないと。


「通っていた大学が一緒なら、出身地はどう?」


 冷静になりきれていなかった。

 思えば彼女から高校の話を受けていた。男子生徒から酷い扱いをされていたことや女子生徒ともあまり仲良くなかったとか、俺が中退した大学に関する質問を配慮していた一方で彼女は色々と赤裸々に話していた。こんな話題を明かしてくれている時点で、大学についても遠慮なく訊いてもよかったかもしれないけれど、まだ何をどう気にしているかわからない現状、ある意味、壁をこつこつと取り払っていたのは正解だったかもしれない。


「出身は弟子屈町っていうところだよ」


 俺は吹き出しそうになった。

 それは札幌じゃなかったからとか、田舎を小馬鹿にしたからみたいな軽薄な理由ではない。


「いや、俺の出身もその近くだよ」


 俺の生まれ育った町から車で一時間もすれば着く距離だ。

 弟子屈と同程度の規模の町である。


「えっ? どこ?」


 俺は出身地を告げる。

 すると葉那子は、


「え? え? うそー!?」


 と、口元を手で覆った。


「まじで? うちら、じゃあ大学も出身地も同じわけ? こんなことってありえる?」


「俺もこんなことは初めてだよ」


 一体何パーセントの確率だ。ナンバープレートでたとえるなら、ひらがなは違うが、四桁の数字は同一みたいなものか。

 それにしても、これは僥倖だ。

 天使とこうも共通項があるなんて。

 普通の出会いならありえないくらいの幸運だ。


「これはいい酒が飲めるね」


 葉那子は言って、微笑を浮かべた。

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