旅立ち
網膜が光を受け取り、脳へと受け渡す。
何処かで見たような無機質なコンクリートの壁に金属製の扉が一つ。休ませる気が無いほどくたびれた寝具。光が弱く影を生み、気力を奪うような灯り。
受け取った情報はここが独房であることを私に伝えた。
「ノイアは?ノイアはどこ?」
立ち上がろうとすると痛みを訴える左足がそれを阻み、背もたれ越しにつけられた手枷が倒れそうになる私の体を支える。
次に手に入った情報は空気の振動。
「あ、起きたねぇ」
尻尾の濁った声が響く。
鼓膜が捉えた振動から得られた情報はその主があの女教員のものであると訴えていた。
それに呼応するように怒りと、そして恐怖が膨らむ。
「会わせて」
「怖い怖い。貴方かわいいんだからそんなに睨まないの」
女は指先でペットをつつくかのように言う。
そして私の要求に応えるつもりは無いと言うように言葉をを突きつけてくる。
「まずは聞こう。ラヴィ、お前はここを出て何処に行き、何がしたかった?」
「ノイアはどこ?会わせて」
引き下がるつもりはない。勝ち目は無いだろう。それでも希望、期待その一縷の望みに縋らずにはいられなかった。
どうか、おねがい。おねがいだから。
「良いのかい?そんなことを聞いて。君は今抱いているその儚い儚い希望を失うことになるかもしれない」
予想に反する女の態度に戸惑いを覚えた。
でも何よりも、一刻も早く彼の安否を知りたい。それと同じ位知りたくないとも思う。
息があがる。嫌なことを考えてしまった。
もし、ノイアが死んでたら?きっと大丈夫。
でも、もう二度と会えなかったら?
怖い。こわい。
「……」
結局、声が出せない。
「そうか、なら私の質問に答えろ」
少し残念そうな声音で言う女は続けて先程の問いかけの回答を急かす。
「……」
視界には床のみが映る。抵抗をしたいのか目を背けているだけなのか私にも分からない。
そんな浅い抵抗虚しく、ぐいと顔が天井を向く。
私の目には弱く仄暗いはずの灯りでさえ眩しかった。
わずかに霞む私の視界を女の瞳が塞ぐ。
「さぁ答えなさい」
黙ったままで居ると女は私の両頬を掌で掴み、その黒く深い瞳で私を覗き込んできた。
するとどうだ、心の奥底に仕舞い込まれた叫びが沸騰するように湧き出す。
気がつくと私は叫んでいた。
――ノイアと一緒にダンジョンに行きたい
――旅をして、あり得ないような体験をしたい!
それを聞いた女はきょとんとした表情を浮かべ
「あっはっはっはっはっはっは!」
と、ひとしきり大笑いした。そして少し考えをめぐらせるような動作をすると思い立った様に言った。
「ダンジョンに行きたいだなんてねぇ、あんな地獄とも言えるような場所に行きたがるとはなぁ。好都合だ。連れて行ってやる。しかもお友達と一緒に。良かったじゃないか」
え……。いや罠だ。おかしい。私の願いを叶える利点なんて一つも無いはずだ。
「もちろん君に有利な訳はないさ。それでも行きたかったんだろう? あんなに頑張って脱走までしようとしたんだもんなぁ」
――まぁ、君達の頑張りは完全な無駄だった訳だしそのせいで君のお友達は重たーい傷をを負ったのだが。
重ねて告げる。
「ダンジョンに連れて行く条件だ。君達には今から奴隷として生きてもらう。 そう。 自らの命を秤にかける使い捨ての駒として。そうである限り君達は自由。いい話だろう?」
そして私を一瞥すると、
「そんなに信じられないかい? じゃあまず手始めにお友達と会わせてあげよう」
そう言葉を置いて出ていく。扉が閉まると音が消えた。
独房の中。様々な考えが巡る。疑い半分、期待半分。いや、期待のほうが大きいのかもしれない。あの女職員は敵なのだ。信じて良いのかという疑念と期待が混ざりあう。
そう時間も開かず、再び扉が開いた。
満面の笑みを浮かべる女に両手で抱きかかえられ、眠った様子のノイアが連れられてくる。
ああ、ノイアだ。良かった。無事だったんだ。
駆け寄ろうとしたが、また左足と枷に阻まれた。
だとしても、今は彼の顔が見られるだけでも良い。
安堵とノイアの無事そうな姿に私の頭は喜びに染まっていく。
女はノイアをベッドに寝かせ、そしてこちらを一瞥し、気持ちの遣り場を見つけられずに居る私によく聞言って聞かせるように声を響かせる。
「あー、でもゴメンね。ちょっと弾丸の当たりどころが悪くてさ。お友達、そのーね?いやぁ悪いね。死んじゃったよ」
うそだ。
そんなわけ無い。
ねぇ、生きてるって、そう言ったよね。
いや、分かっていたはず。だってあの赤黒い液体が流れ出ていた部分は――
言葉として伝えられたその情報は否が応でも私の頭に入ってきた。
視野が無理やり引き伸ばされるかのような錯覚、眼の前の物がどんどん遠ざかってゆくようにめまいがする。
目が回り、意識も朦朧とする。
「ぅえ」
こみ上げる衝動に押され胃をひっくり返しても裏返しても透明な粘液以外何も出なかった。
嗚咽。内臓の全てが引っ繰り返されるような錯覚。長い長い拷問のような時間。私の中身を全て吐き出し続けた。
一体どれくらい経っただろう。
不思議と、もう涙は出なかった。ただ、泣く気力が潰えてしまっただけなのだろうか。もう、全てがどうでも良くなったのだろうか。分からない。
ただその女が憎かった。どうしてこんな弄ぶようなことをするのか、どうして希望をもたせたのか、始めから絶望できていれば。
「ほら、拘束も解いてあげるよ」
手慣れた手つき。
外れるやいなやノイアの下に駆け寄ろうとして転んだ。そういえばこの足が悪かったんだっけ。
今はそんな事どうだっていい。
とにかくノイアに触れたかった。
きっと生きているはずだから。
冷たい床を這い、彼のもとにたどり着く。そして、縋るように触れた手は――
温もりを持っていた。
「あ……。ノイア、生きてる……」
途端に再び視界が歪み、心臓がうるさいほど騒ぎ出す。
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
この感情をどこに遣ればよいのか分からず、ただ泣くことしかできなかった。
楽しそうな女の声が聞こえてくる。
「いいねぇ、やっぱり子供ってかわいいぃ」
ノイアの手に泣き縋る私を女が撫でてくる。
「よしよし。いい子いい子。良かったねぇお友達と会えて」
そしてその女は続ける。
「さあ、行こうか。君達の望んだダンジョンへ」
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