第7話 グリーフ・イン・ザ・ラブ

 亀が死んでいた。一匹だけ、水槽の中でひっくり返って。血を出して。堅いはずの腹もえぐれている。死んで無力な亀は、運命に弄ばれるかのように水の上にただ浮かんで、その身から出た真っ赤な血の中にあり、火に包まれているようだった。

 千は衝撃的に惨たらしく死んでいる亀を見て、まず一瞬当惑した。甚だ当惑した。しかしその後すぐに、亀が一匹しか水槽の中にいないことのおかしさに気付いた。この水槽には二匹の亀がいるはずなのだ。鶴と亀という名前の二匹の亀を飼っていた。この水槽の中で死んでいるのは、亀の方だ。死んでいても、一目見てすぐわかった。だが、水槽にはその一匹しか見当たらない。水槽の周りにもいない。どこかに行ってしまったのだろうか。しかし水槽から出てしまったにしても、周りにそれらしき足跡はない。もうかなり離れたところにいってしまったのかもしれない。そう思った瞬間、玄関に至る階段を降り、その周りを見回す。いない。家の裏側を見る。いない。門を出てその周りを見回す。いない。すぐに目を血走らせながら近所を一周走る。いない。自転車に飛び乗って、目をぎらつかせながら街を一周する。いない。そして同じことを、目を潤わせながら、歪む視界の中、冷たい風の中、灰色の空の下、何度も繰り返す。いない。いなかった。すっかり日は暮れて、街灯も点き始めた。千は、家を飛び出していった時とは見違えるような速さの自転車に乗りながら戻ってきた。自転車をもとあった場所に戻し、とぼとぼと家の門に向かう。その時ふと、ポストに目が行った。なにか嫌な予感がして、心臓が少し騒がしくなり始めた。千はその予感がなんなのかにだんだんと気付き始めた。その予感はどんどんと胸の中で大きくなって、ついに目を逸らせなくなった。ポストを見つめ続けながら、恐る恐る手を伸ばした。震える手でダイヤルを合わせてポストを開ける。そこには何も入っていなかった。ほっとするような、うなだれてしまいそうな、不思議な悲しさになった。




 21時半、千は二階の部屋で一人、呆然自失、寝転がっていた。ポストを開けた後、玄関と水槽の掃除をした。亀の死体はどこかに埋めたかったが親の許可を得てからにしようと思ったので、玄関前の階段の横の芝生に置いて、水槽をひっくり返してかぶせておいた。しかしそれでは水槽が臭くなって、また洗うことになるかもしれない。千もそれには気付いていたが、その時はその方法しか思い付かなかったし、他に考える気力もなかった。その掃除も終わって暗くなってから両親は帰ってきたので、階段横の亀と水槽には気が付かずに家に入ってきて、千に亀の居場所を尋ね、事情を聞くとショックを受けたようだった。しかし千にはその両親の様子がどうも薄っぺらいもののようにも感じられた。しかしそれは両親が亀を愛していなかったというより、千の亀への愛情がとてつもなく深いことの裏返しに過ぎないかもしれなかった。

その後の夕食はあまり喉を通らなかったが、それを見越して少ししか自分の茶碗に盛らなかったので何とか食べきることができた。そしてぼけっとしたまま風呂に入って、今、少し経って21時45分、ベッドの上で一人寝ている。ちょうどいい気温、机には友人と買ったポッキー、あと足りないものは、千の心に空いた穴がふさがることだけだが、とにかくそれがどうしようもなかった。今その空いた穴の中を飛び交い始めているのは、他殺の可能性、という疑念だった。なぜ、どうやって亀は死んで、そしてもう一匹はどこへ行ったのか。誰が、何が、殺したのか。亀の腹は背中と同じように硬くなっている。その腹の右側がえぐられて、ひっくり返っていた。野良猫や野良犬が入ってきてやったのだろうか。そんな力は動物にあるものなのか。野良犬が殺したのなら、きっともう一匹、鶴の方は口にくわえてどこか見当もつかないところに運んで行ってしまったかもしれない。そんなことを考えるのと悲しむのとで疲れてしまって、千はまた魂の抜けたようになった。




 22時30分、まだ千は眠れずに、ただ寝転がっていた。天井を見つめて、ぼうっとしていた。その時、常にマナーモードにしている携帯が震えた。普摩からのLINEだった。

「千~」

大体普摩がLINEしてくるときは「千~」か「今暇?」の二択だ。

「どうしたの?」

「今何してる?」

「ぼーっとしてる」

「電話してもいい?」

「いいよ」

普摩はあまりメッセージを送ってこないが、電話が好きなようだった。千は普摩と交際を始めてから、それを特に感じている。

電話が鳴った。

「もしもし~」

普摩と電話するときは大体夜なので、普摩も疲れているのか会って話すより語尾が揺れがちで、不思議ちゃんな感じがいつにも増してする。

「もしもし」

「こんにちは」

「こんにちは」

「ぼーっとしてたの?」

「うん」

「なんか元気無い?」

「そうかも」

「どうしたの?」

「なんか今日色々あって疲れた」

「大丈夫?」

「びみょうかな」

「なにがあったの?」

普摩の声は相変わらず暖かくて、千は不意に涙がこぼれそうになった。電話を始める時、千は亀が死んだことを言うつもりはなかった、むしろ普摩が電話をかけてきたのだから何か悩みがあればそれを聞こう、という心でいたが、実際に普摩のいつもと変わらない声に触れて、全部言ってみてしまおうかと思った。普摩は千が亀を大切にしていたのを知っていたし、実際に千の家の亀を見たこともある。その時もとても優しく亀に話しかけたりしていた。そんな普摩には伝える道理があるのではないか、と思った。

「俺玄関の横で亀飼ってたじゃん?」

「うん」

「死んじゃって」

普摩は少し黙った。

「それで今ちょっと悲しかったんだよね」

「そっか」

今度は二人とも少し黙った。

「千すごい大事にしてたもんね」

「うん」

「えさやりのために早めに帰ったりとかさ」

「あったねそんなの」

また二人は少し黙った。

千は思わず一筋の涙をこぼした。そして少し鼻をすすった。

「泣いてる?」

「なんか涙出ちゃった、」

「つらいもん、そりゃそうだよ」

普摩にすべてを話して、普摩の声が暖かくて、そのまま少しの間横を向いて泣き続けてしまった。

涙も落ち着いてきたころ、普摩が話しかけた。

「明日創立記念日だよね」

「うん」

「部活ないよね」

「うん」

「ちょっと散歩しに行かない?」

「うん、行こう」

「9時半に千の家行くね」

「俺迎えに行くよ」

「ううんいいよ、私が行く」

「そう?じゃあそれで。ありがとう」

「うん」

また少し、二人は黙った。

「絵とか描いたら?」

と、普摩がふと言った。

「絵かぁ」

「千絵上手だし、気分転換にでも」

「上手じゃないけども、そうねぇ」

普摩は中学生の時に、授業で千が描いた絵をすごく褒めてくれた。

実際に千の絵は中々上手だったが、千は凝り性なところのせいで、美術の授業のような決まった時間までに作品を提出する様式が中学の終わりごろにいよいよ嫌になってきて、そのせいで日頃描いていた絵も敬遠しがちになっていた。

「明日の散歩どこかに絵描きに行く?」

普摩がそう訪ねた。普摩となら久しぶりに楽しく絵が描けるかもしれない。

「じゃあ道具持ってくわ」

「いいね」

少し気が晴れて、明日が楽しみになった。

「亀もどこかに埋めてやりたいんだけど」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地獄変 石田くん @Tou_Ishida

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ