第6話 デス・イン・ザ・エントランス

 普摩と千が交際を始めて、三か月ほどがたった。晩秋にさしかかって、一週間のうちに二回ほど冬のような寒さが挨拶してくる。

あまり面白くない4限の数学の授業が行われる1年4組の中、千はいつも通り普摩のこと、それから部活のことなどを、前の席の普摩の背中を眺めながら考えていた。

3回目の席替えで、千は普摩の後ろの席を引いた。一学期の始めは、名字が同じなので普摩が千の後ろの席だった。登下校の時や土日に何度も会うので、千が前でも後ろでも一日で話す時間が変わった気は大してしなかったが、普摩が前だとプリントを回すときに目を見て、「はい」といって渡してくれるので、千は今の席の配置の方が好きだった。

 数学の授業はようやく中頃に差し掛かってきていた。最初の小テストをなんとか解き終えて、千の眠気は最高潮だ。食事後の4限はとにかく眠い。手をぐっと握って眠気を覚ます方法を千は心得ているのだが、本当に眠い時というのは得てしてそんなことをしている余裕もなくなるものである。千はついにがくりと首を落として、肘を机にたてたまま眠りについた。

 それから5分ほど経った頃、教師がプリントを配った。左から三列目、前から三番目の普摩にもプリントが回ってくる。

 前髪に乾いた感触を受け、千は目を覚ました。普摩がプリントで千の前髪に軽く触れ、起こしてくれたのだ。

「おはよう。」

覗き込むように、小さい声で言う普摩はとても可愛らしかった。

「よく眠れた?」

しばし呆気に取られている千に、普摩が追い討ちをかける。

「うん、」

なんとか声を出して、自分の髪に触れたプリントを手に取る。

「ありがとう、」

普摩にお礼を言って、後ろの友保にプリントを回す。

普摩が前を向いたのを確認してから、千は少しうつむいた。自分でも今顔が真っ赤なのがわかる。

囁くような、しかし芯のある普摩の声は、とても魅力的だった。4限の間眠くなることはなかったが、授業に集中することもできなかった。


 5限の世界史の授業中、千はまだ軽くうつむいていた。額に手の甲を当てて先ほどの出来事を思い出しては、顔を赤くして両手で覆うのを繰り返していた。

 授業が始まってから30分、軽くうつむいたままの千はずっと前の普摩の席の背もたれを見ていた。少し視線を上げると、普摩の少し下あたりが目に入る、何度もなぞりなれた道筋である。

そのまま普摩の背中を見ていると、板書のために普摩が少し姿勢を変えた。少し猫背になった普摩の制服の背に、下着の線が少し浮かんできた。

 千はまた少し上気するのを感じるとともに、少しいやな気持ちにもなった。前から千はこの現象が嫌いだったのだ。今まで中学、そして高校で他の席の時にも、何度もこういったことはあったが、目の前の生物が異性である、ということを、恋愛感情の有無関係なく否応なしに思い起こさせるのが少し気持ち悪く思えるからであった。

その現象が今、普摩に起こった。その時の千の感情は、普摩以外の女性のそれを見るのとはまた少し違った感情であった。

 ただ一般的なカップルのように、愛する人を、普摩を守りたい、守るというのは他の男からも守るということだ。なぜなら普摩は千の事を愛しているはずだし、愛しているのなら千以外の男に言い寄られるのは迷惑な話のはずだからである。そういう庇護欲と、普摩の純潔を俺だけはものにしてやりたい、という生物的エゴイズムの背反、つまり、愛する人には純潔であってほしいのに、自分だけにはそれを侵す権利が天与のものとしてあると勘違いしてしまう利己的な男性である自分と向き合うことへの気持ち悪さ、を、千は抱いていたのであろう。

 しかし千の人生を歩むのは千の身体なのであるから、千は明らかに少し血流の良くなった体を受け入れないわけにはいかなかった。普摩を心の底から好きだからこその感情であると一度思ってしまえば、その後は気が楽だった。鼻からふぅーっと少し大きく息を吹いてから、千は微笑した。

 その時、教師がプリントを配り始めた。

普摩が先ほどのように後ろを向く。

「なんか顔赤いね、大丈夫?」

プリントを千に手渡して、普摩が少し心配そうに千に尋ねる。

「うん。ありがとう。」

平然とした様子で、千は答えた。




 5限が終わって、ホームルームも終わるとすぐに、3組にいる親友の悠也が、声を上げながら教室に入ってきた。

「ドンキ行くぞー」

「うっさいな、あんま大声で言うな」

今日は部活がないので、千は悠也と買い物に行く約束をしていた。

悠也が最近ハマっている漫画を貸してもらう約束をしながら校門を出て、いつもとは違う方向へ向かった。少し歩いて、スーパーなどが立ち並ぶ方へ話しながら歩く。

「最近マジでなんもないの?」

一通り前の話題について語り尽くしたところで、悠也がそう尋ねる。

「なんかって?」

わかりきっているが、恥ずかしいので一応聞き返す。

「彼女と」

悠也が答えた。

「ないなぁ、」

そう千は答えた。昼休みにも同じ質問をされて、同じように答えた。その結果、悪ノリも混じって、千と悠也は放課後に避妊具を買いに行くことにしたのだ。

 5限の時には不思議な感情、性交の忌避ともとらえられる感情を抱いていた千だが、それは自らも孕む生命的神秘を前にした人間の畏怖のようなものであって、本当に性的行為への忌避をしていたわけではなかったのだろう。現に千は今まで何度も、普摩とそういうことをする妄想をしてきた。しかし実際には、

「まだキスもしてねーよ」

それ故、その距離感のギャップを、いずれ急に訪れるであろうその瞬間のために埋めることが必要なのだった。

 目当ての店に着いた。いつも通り雑多な印象を受ける。千はあまりこの店に来ないのでなおさらだ。もはや品がないようにも思える。店の中をちぢこまってうろつきながら、求めている商品を探す。

「あった」

思ったよりも高めの、目につきやすい位置に陳列されているそれを、千が見つけて小さい声を上げた。

「ナイス」

そう言って悠也も物珍しそうにそれを眺めた。

「まぁまぁ高いな」

千が素直な感想を言う。

「たしかに、でもまぁそんなもんだろ」

「こっちでいいかな」

「いやでかいの買っとけって」

「いや使わないってマジで当分」

「いやいやいや」

「そっち高いし」

「いっぱい入ってんだからそりゃそうだろ」

「えー、お前出してくれんの?」

「なんでだよ出さねーよ」

「いやー高いって、てかこれマジでデカすぎるだろ何枚入ってんだ」

「まぁそうか、でもそっち少なくないか」

「いやでも一回でこんな使わないだろ、こっちでいいわ小さいので」

「まぁそうか、でもまた来るのめんどくね」

「また来るかな」

「来るだろ」

「まぁそんときはそんとき」

一番小さい箱を選んだ。

「これサイズとかあるよ」

悠也が言った。先にそのことに気付いてMサイズをとっていた千は少し厄介に思った。

「まぁMでいいだろ、わからんけど」

口ではこう言いつつも、ちゃんとパッケージの後ろの表を見て決めた。

「まぁそんぐらいか」

悠也も案外その話題を深掘りはしてこなかった。

これを手に持ってレジに行くのははばかられたので、カゴどこ、と尋ねると、悠也がすぐに見付けてとってくれた。そこで気付いたのだが、カゴに避妊具を入れると、目立つ。そこで千は、YouTubeの動画で見た、避妊具とパッケージの色が似たお菓子を多くカゴにいれてレジに持っていく、という戦法を取ろうと言った。しかしそんなにお金を持っているわけでもないので、ポッキーを二箱だけ入れた。そうして、他のお菓子を手に取った悠也とは別にレジを通ったが、レジでの気まずさは思ったよりずっと軽かった。避妊具を買う時点で開き直って堂々とすることは決まっているので、カモフラージュは特に必要ないかな、とすら思ったが、このポッキー達なしでレジを通る自分を想像してみると、それは強がりだとわかった。


 ポッキーをひと箱開けて、悠也と食べながら帰った。中学の時から一緒で、しかも同じサッカー部の悠也とは話が合うので、帰り道は一瞬のように感じられた。悠也は口が堅く、面白く、たまに変なやつだ。

普摩と付き合っていることは、悠也にしか言っていない。それほど信用している。今回の話題は、千が普摩とこれからどうするのか、という、とりとめもない話だった。キスはしてない、それ以上のこともしてない、たまには手を繋ぐけど、・・・

そんな会話を繰り返して、悠也とは別れた。その後、ここは普摩の家の近くだな、と思って、ポッキーの最後の一本を食べ終わった。


 さらにその後も普摩のことを一人で思い出しながら、家に着いた。玄関の小さな門を通り抜け階段を上ると、玄関横の水槽の亀が死んでいた。



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