第3話 エンジェル・イン・ザ・ビーチ

 鶴岡八幡宮は、鎌倉駅の前を大きく横切るように、海に向かう方向へ長い参道を広げている。その途中には境内の真ん前のものを除いて二つの大きい鳥居がある。その参道に沿って、そして参道を過ぎてもその延長をまっすぐ大通りを進んでいけば、鶴岡八幡宮から海までは迷うことなく歩いて三十分ほどで着く。

 千と普摩は今、体育館、街路樹に松がなぜか多い場所、そして消防署を通り過ぎて、砂の増え始めた道路を海に向かって歩いていた。サーフショップを通り過ぎたあたりからしていた海の予感が、駐車場の横の自販機を通り過ぎるあたりで視覚によって立証された。景色の内の海が占める面積がどんどん大きくなり、千は少しだけ気分が上がってきていた。

 海岸の前の信号機が青に変わって、横断歩道を渡ればいよいよ砂浜だ。五時過ぎでもまだ陽は沈んでおらず、ありったけの光を海に注いでいる。その恵みを全身に浴びる海水浴の客で、辺りは気が引けるほど華やかに見える。海の家の近くでは千にとっても普摩にとっても少し気分にそぐわない騒がしさの曲が耳に入ってくるので、二人はそこから少し離れたところにある石段まで移動して腰を下ろした。

 この海に千は一年前に友人と来たことがある。一方鎌倉に来たことのない普摩は海に来るのも数年振りということだったが、八幡宮から海に至るまでの道では特に気分が高まっている様子はなくいつも通りの雰囲気だった。しかしそれは当然悪い意味ではない。普段明るい普摩は、いつも通りでも夏の海にぴったりだった。今日駅に着いてから今石段に腰を落ち着かせるまで、普摩は鎌倉で新しく出会うものの数々に対する感想や印象を次々に千に投げかけていた。そんな普摩が、石段に座ってからは雑談はしつつも落ち着いた様子で海を眺めていることに千は気付いた。その内に会話もするりと終わって、静かなまま一分ほど経った。千としてはその沈黙が気にならないといえば嘘になったので、少し普摩の横顔を、そして何か決意のこもったような、海に向けられた眼を眺めて、可愛いなと思ってから、適当に話を始めた。

「やっぱ海にぎやかだね、」

「そうだね」

「もう五時半なのにね、」

「うん」

「まだ陽も高いし」

「だね」

いつもより少しだけ、ほんの少しだけ、普摩が暗いような気がした千はどうすればいいのかと考え始めたが、次の瞬間、普摩の提案でその思案は必要がなくなった。

「海ちょっと入んない?」

なにかつっかえがとれたような、晴れやかな感じで普摩がそう言った。

「おぉ、いきなり」

不意を衝かれたが、心配事がなくなった千は緩んだ表情で答えた。

「ごめんごめん」

笑いながら謝る普摩。

「いいね、行こう」

波打ち際で戯れる男女二人、ほんの少し先のミュージックビデオのような未来を思い描きながら、千は答えた。

「やった」

その場で靴と靴下を脱ぎ、石段から砂の上に降り立った途端に砂の熱さに思わず少し大きい声を千と普摩は上げた。

「あつっ!」

跳ねるように石段に戻る二人。

「ぎりぎりまで靴履いてく?」

千が提案する。

「うーん」

少し考える普摩。そして、

「走ろう?いっちゃお?」

普摩は思い切った結論を出した。

「おお、攻めるね」

「私についてきたまえ」

「競争するか」

「絶対負けるじゃん私」

「いや俺熱さには弱いから」

「みんなそうだよ」

「いや俺はとりわけ」

「なにそれ」

「まぁ一緒に行こう」

「よし」

結局千は本当に熱さに弱く、蚤のように飛び跳ねながら、熱さにはすっかり慣れた様子の普摩の隣をなんとか歩いた。

 波打ち際について千が落ち着くと、普摩はスカートの裾が濡れないように気を付けながら貝殻を探し始めた。千もはじめはそれに協力していたが、途中からは小さいハゼに気を取られていた。

 三つ桜色の貝殻を見つけた普摩は、二つを千にくれた。その後二人は立ったままぼんやりと海を眺めて、そして見つめ合った。

 雰囲気が変わった気がする。今告白すべきなのだろうか。そう千は思った。今日小町通りに入ってからはずっとリラックスして話していたので忘れていた心臓の鼓動が、それまでの分を取り返すように素早く強く動き始めた。普摩から見れば逆光でもないし、きっと千の赤い顔はその切れ長の、しかしぱっちりとした、美しく背反を覆した瞳ではっきりと見えているだろう。よく喋る普摩も、何かを察したように静かなままでいる。何か言おうとするが、心臓が膨れ上がって気道を圧迫し、何を言えばいいのかもわからないので、細く強く熱い息だけが漏れた。心を落ち着かせようと一度千が海を見ると普摩も海を見て、もう一度普摩を見ると、普摩も千を見た。その時千は、普摩の左の目尻、涙ぼくろの位置に砂がついているのに気が付いた。とってやろうと普摩の顔に千が手をやると、普摩は静かに目を閉じて、少しだけ上を向いた。女性経験がない千でも、普摩がキスを待っているとわかった。千は「しまった」と思った。「砂ついてるよ」でも何でも言えばよかったものを、勘違いさせてしまっているのだ。今思い切ってキスをするほどの度胸は千にはなかった。しかしどう言えば普摩を落胆させずに伝えられるかもわからない。しかも周りには人もいるのだ。普摩は自分が思っているよりずっと大胆なのかもしれない。刹那の間にそんな逡巡を何度も繰り返す内に、千は心が決まってきた。今ここでキスをして、三年間の恋を成就させるのだという心が。心臓の鼓動に乗せられて高揚しているのかもしれないが、恋愛とはそういうものなのだろう。キス待ちをされている時点で、この後告白すればほぼ確実に付き合えるじゃないか。安心して、もっと落ち着いた心を持っていい。きっと普摩は俺のことが好きで、そして俺が普摩を好きなのは間違いないのだ。

 そう思って千が首を普摩の方へ動かした瞬間、膝より少しだけ高い波がいきなりやってきた。

「うわっ!」

思わず声を上げて砂浜の方へ一度大きく戻る二人。お互いに離れる方向に戻ったので、先ほどまでより少し距離が空いた。

拍子抜けな感じで海を見て、その後に見つめ合った。そしてどちらからともなく二人で、はははと笑い出した。底抜けに明るい、八月にぴったりの笑い方だった。

「おら!」

不意に普摩が千に水をかけてきた。

「あー、やっちゃったね」

そう答えて千も水をすくって普摩にかける。びしょびしょにならないようにそっと。

夏の恋の絵を描いて、と人々に頼めば、その内三割はその場面を描きそうな、そんな瞬間を過ごした。

 そんな風に少しの間ふざけあってから、靴を置いてきた石段まで、足に着いた水が熱い砂から足を守ってくれている間に戻れるように足早に帰った。

 足に着いた砂が乾くのを待って、その砂を払って、靴下を履いて、靴を履いて、海に着いたばかりの時のように、石段に座って海を見た。

 ぼんやりと、今度は心地いい沈黙の中に身を委ねていると、普摩が口を開いた。

「二週間後の江ノ島の近くのお祭り誰かと行く約束してる?」

 普摩の言葉で、千はその祭りの事を思い出した。祭りの一週間前ぐらいに、部活に一緒に行くときとかに普摩を誘えたらいいな、と思っていたので、他の誰かと行く予定を入れようとは考えていなかった。

「いや、してないよ」

「じゃあ一緒に行かない?」

またさっきの波打ち際のように心臓が鳴り始めた。何回経験しても慣れない。特に普摩といれば、それは不意に訪れる。

「うん、いいよ」

何とか答えた。

「ほんと?ありがとう!」

嬉しそうな普摩を見て、千は安心した。しかしそういえば、鎌倉に誘ってくれたのも普摩で、今回祭りに誘ってくれたのも普摩だ、という事に気が付いて、なんだか申し訳ないという気持ちと、自分の情けなさにがっかりする気持ちとが押し寄せてきたので、

「俺も誘おうと思ってた」

と、喜ばせる台詞風の保身をした。心臓がまだドキドキしていた。

 帰りは家まで送っていったが、その間も気が気ではなかった。

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