メッセージカード

孔田多紀

第1話

「餅肌」だとか「マシュマロ肌」だとかいう言葉があるけれど、白末の頬っぺたはそんなもんじゃない。両手の親指と人差し指でさわってみれば、誰でもびっくりする。左右に伸ばすと、むにーと皮膚の表面がどこまでもどこまでも広がっていって、こんな肌のどこに神経が詰まってるんだろう、と数ミリ単位にまで薄まってゆく手元の肉に不安を覚えて、心もち爪を立てるようにすると、ようやく、あ、痛い、痛いからやめてください、と、こちらを見上げるようにして抗議の声をあげる。

 ゴメンゴメン、とあたしは謝る。

 むうー、と白末はむくれる。今、わざとやりましたよね?

 なんか人間の身体じゃないみたいで、だんだん怖くなっちゃって……。

 そんな失礼な! だいたいホロさんは私の顔さわりすぎです。いじられてる間、私なんにもできないんですよ?

 だってきもちーんだもん。しょうがないじゃん。あたしのことは気にしないで、本でも読んでなよ。

 するとその様子を想像でもしたのか、

 ……そういうのって、なんか寂しくないですか。

 ウン、自分でも、いいながら思った。

 それで、お互いヒヒヒと笑いあう。

 白ちゃんはさあ、なんかあたしにしてほしいことないの? 割となんでも聞くつもりだよ。たとえば肩揉みとか。あんた肩凝りそうだし、あたしは親に鍛えられてるからね。

 ぐっと力こぶをつくると、

 じゃあ、ホロさんが頬っぺたの代わりに、私の肩揉んでくれたらいいんじゃないんですか。

 と正論をいうので、

 ウーン……そういうのじゃないんだよなあ……と、唸ってしまった。もっとこう、楽しくお互い様な感じ? それによく考えたら、肩まで揉んだらあたしが単に白ちゃんずっと触ってるだけだよね。別のにしよう。

 そうですか……と、白末は考えこむようにいった。じゃあ、思いついたらいいますね。

 よっしゃ、と内心、ガッツポーズをとった。――これで思うさま、白末を独占する口実ができる。


   *


 もちろん、自分の頬をつねったこともある。

 当然、厚い肉をつまんだだけで、痛いし、楽しくもなんともない。それに、だんだん皮脂がじわっと指先にまとわりついてくる。白末の場合はそんなことはない。スキンケアでどうにかなるのか、と色々教えてもらったこともあるけれど、そういう問題ではなかった。

 どだい、白末とあたしとではモノが違う。

 手の爪だって整ったアーモンド形で、あたしみたいに寸詰まりじゃない。睫毛は天然でも片目に綿棒が二本乗っかるぐらいだし(実際、試したことがある)、髪質も体格も比べ物にならない。

 性格はいうまでもない。

 こんなに心も頭もよくてきれいな子が自分と一緒にいてくれるなんて、最初は信じられなかったし、罰があたりそうで怖かった。あいつと白末じゃ釣り合わない、さっさと別れるに決まってる、と周囲で陰口が聞こえてきた時は、正直燃えた。

 それでも、長い時間が経てば、いつかは別れる時がくるんだろうな――初めて一緒に泊まった時、白末の寝顔を眺めながら、そんな場面が自然と思い浮かんで、悲しくなった。ツーと熱い涙粒が自分の眼の際を流れた。

 そのうち、白末が目を覚まして、

 あれ、どうしたんです?

 といった。

 あたしは心が弱っていたために、正直に話してしまった。すると、白末はハハハ、と大げさに笑った。

 ホロさんもバカですねー。勝手にそんなこと考えて泣いてるんですか。

 ……だって想像しちゃったんだもん。

 白末は本当におかしそうに、一枚の薄い同じブランケットにくるまった隣でしばらく苦しそうに笑っていた。そしてようやく笑いが収まると、

 前にいってたホロさんへのお願い、決まりました。

 何?

 じゃあ、私と別れるの禁止で。


   *


 誰だって、別れようと思ってつき合い始めるわけじゃない。

 最初は、毎日が魔法にかけられたみたいだった。

 けどだんだん、それが苦しくなってくる。

 白末にはもっと相応しい素敵な相手がいるんじゃないか、と考え始めると、自分がミジメに思えてきて、根拠のない罪悪感に苛まれた。

 それは根拠がないからこそ消しようがない。白末があたしなんかのどこが好きなのかわからない。この子はいい子すぎて、あたしに引きずられてるだけなんじゃないか?

 進学先は別だったけど一緒に棲み始めると、あたりまえなことに白末はかわいいだけの人間じゃなかった。家事感覚や金銭感覚、政治感覚まで含めて衝突は日々あった。でもそれより、「白末はホントにあたしのことが好きなのか?」という不安のほうが大きかった。

 そうした苛々をあたしは白末本人にぶつけてしまう。白末はあたしを責めないのでますます不安になる。後で泣きながら謝ると、いいんですよ、とよしよしあやされるからまた悪循環だ。

 あたしはその頃白末より先に寝ることは絶対になくて、ベッドサイドランプの橙色の淡い光に照らされた寝顔を隣で凝視することが多かった。昼中にはあれほど目まぐるしく喜怒哀楽その他諸々の表情を現した皮膚が、すべての活動をやめて、赤子のように安らいでただ呼吸にあわせてゆっくり上下している。その様子があまりにも無防備なので、不意にその頭部をぐちゃっと惨酷に押し潰す妄想が何度も何度も浮かんで、頭を振ってそのイメージを消去する。それから、体勢を変えて手を伸ばし、あの柔らかな頬をむにーと引き伸ばして自由に弄びながら、

 こんなに近くにいるのに、どうしてこんなに寂しいんだろう。

 と、なんともいえない心細さの感触を確かめようとする。

 一つ思い浮かんだのは、白末の口調が、付き合う前と後であんまり変わらないことだ。

 それである夜、

 なんでずっと敬語なの? よそよそしいからタメ口で話しなよ。じゃないと気絶させるまでやめないから。

 と脅迫してみた。けど実際に気を失ってもふだんの口調をやめなかったから、強情なやつだと思った。

 あたしがゼミでの人間関係やその他のストレスで文字が読めなくなり、留年した時には白末は先に就職していた。新卒で大変な頃に、不安定なあたしと暮らすのは並大抵のことじゃなかったと思う。

 その頃のあたしはおかしかった。どんな理不尽な難癖をいっても白末が大した反論もせず受け入れようとしてくれるので、それがバカにされてるようで要求がどんどんエスカレートしていき、自分はなんて最悪なんだと数日へこんでしまう。アンガーマネジメントのアドバイスなんかを受けてもいったんスイッチが入ると止められない。そのうち、白末と同じ空間にいるだけで苛々するようになって、怒鳴って涙粒を跳ね散らかしながら(もう駄目だ)という虚ろな声が頭に響いた。このままだと本当に白末のことを壊してしまう。

 別れを切り出したとき、白末は反対しなかった。

 あたしも毎日泣いて暮らしてたはずなのに、その日はなぜか泣けなかった。

 ただ、実際に別れるのにはものすごく気力と体力が要った。物にも、部屋にも、近所のコンビニやら公園やら駅やらカフェやらビストロやらにも、思い出が詰まりすぎていた。そのすべてを振り払わなければならなかった。振り払ったと思ったら、スマホの予測変換にまで彼女が自分に残した爪痕がしばらく残っていて、その深さを理不尽に呪った。

 引っ越しが完了してしばらくは、大学にも行かず酒ばっかり飲んで寝て過ごした。後になって鞄の底から、かつて貰った何かのプレゼントに添えられた「I'm always with you! by shiro」と書かれたボロボロの小さなメッセージカードが出てきて、それがずっと捨てられなかった。


   *


 十五年近く経って、転職した先のビルの食堂で再び出会った時は、自分の目を疑った。

 注文のために並ぶ列で、お互いの存在にすぐに気づいた。それから、どちらも一人で来ていることが気配でわかって、そのまま唐突に、一緒にランチをする流れになったので、心の準備も何もなかった。

 これだけ時間が経っていればわだかまりなく話せるかと思ったら、全然甘かった。

 白末のほうのそぶりは、そんなことを微塵も感じさせなかった。というか、昔と全然変わってなかった。見た目で違うのは、セミロングボブの内側の髪を赤く染めているところか。体質的に以前から白髪が多く、出産後にますます増えたらしい。

 ……だって赤いほうが街中で変なオッサンとかに絡まれなくてすむんですよ。

 それもう白末じゃなくて赤末じゃん。白ちゃんじゃなくtッッッ……

 と、そこで白末は黙らせるように片手であたしの両頬を摑んで、

 そういう冗談は、ここではやめましょうか?

 と、にこやかにいった。


 白末が結婚したのは伝聞で知っていたし、SNSで「◼️◼️(白末)」という表記もだいぶ前に目にしていた。息子がいるのも共通の友人から聞いていた。でも三年前に離婚したのは知らなかった。聞くと、今は実家に帰って両親と暮らしているという。

 名字って二回変わると最初の名字に戻せないんですって。だからいちおう白末に戻しておこうかなと思って。ホロさんわかります? 一回変えてもう一度戻すこの各種手続きの面倒くささ。

 ……ゴメン、わからない。

 いやホロさんが謝ることじゃないですけど。


 この間、あたしは三人の人間とつき合ったことがあった。その三人ともから同じように「ホロちゃん」と呼ばれ、いつも尽くす側で、「あなたから最近愛情を感じないんだよね」といって、振られた。

 たぶん、あたしの中には、もし来世でまた十六歳の白末と奇跡的に出会い直すことがあったら、今度は必ず幸せにする、そのためには性格改良でもなんでもしてみせる、という悔悟の念が強すぎて、それが薄々、相手に伝わっていたんじゃないかと思う。


   *


 だから、白末の実家に挨拶に行った時には、めちゃくちゃ緊張した。

 何しろ、一度過失のあるやつが実家住みのシングルマザーを口説き落とそうとするわけで、ただでさえハードルが高い。そこまで話をもっていく道行きには転生するくらいの覚悟が要った。

 相手の両親にすれば、混乱するのが当然だったと思う。娘が孫とともに戻ってきたと思ったら、今度は、むかし学生時代にルームシェアしたことがあるだけの同級生が、母子を連れ出してまた一緒に住む、といってやってきたのだから、人攫いも同然に見えただろう。

 白末の息子の陽一は五歳になる。

 こないだ、あたしが昔みたいに白末の頬っぺたをいじっていたら、

 ――ママを虐めるな!

 とつっかかってきたから、正義感の強い子なんだな、とジーンとしてしまった。

 陽ちゃんね、違うの、ママのここ触ったことある? 凄いから。ほら、触ってみな。

 といったら、さすがにそのぐらいの子はまだ甘えたで、すぐ夢中になってしまった。

 あたしは陽一にとって「とつぜん現れたおばちゃん」でしかないから、これはけっこうポイント高かったと思う。


   *


 越してきた先の片付けもようやく済んだ頃のある夜、陽一も寝についた時間帯、仕事で疲れていたあたしは、リビングのソファに腰かけながら電子書籍リーダーで漫画を読んでいた白末の太腿に昔のように頭をもたせかけた。

 白ちゃんはさあ、今でも前みたいに日常系百合漫画読むの。

 白末は画面に眼を落としたまま、

 んー、まあ、人並みにたしなむ程度には……。

 人並みってどれくらいだよ、と、あたしは笑いながらいった。最近、たまについてけないんだよね。青春ものなんか特に。ただでさえ日中、人間関係で緊張してヘロヘロなのに、なんで今さら十代のソフトソフトポルノみたいなキャッキャウフフに感情ふりまわされないといけないんだー、って、なる。

 そういえば、あたしは引っ越す前――さあ蔵書整理するぞ、と気合を入れて取りかかったのに、処分するものは意外に少なかった。実際には、それまでの生活で、よほど思い入れのあるものを除けばフェイドアウトしていったとか、部屋の片付けが面倒で最近は電子書籍で買うことが増えたとかで、かつてより身の回りから本というものが減っていた。たまに興味を惹かれても巻数が多いととたんに億劫になってしまう。以前はあれほど、終わらない物語を求めていたのに……。

 ……でも、それが癒しな人もいるわけですよね、と、白末は口調を変えずにいった。ホロさんも昔はそういうのでもっと派手なの好きだったじゃないですか。有り余るエネルギーをありえない関係、特に、存在しなかった理想の青春の空白を発散させるために読んでたんでしょ。それができなくなったのは、やっぱり老……

 いいかける白末の両頬をあたしは両手ではさんで、

 やー、それは違う。それは違うよ白くん。むしろ、感性が大人になったというべきでは。

 あたしは白末の顔をゆっくり揺さぶりながら、昔好きだった物語を思い返した。主従もの、輪廻転生もの、職業もの、トラウマ克服もの、……。そのいずれも、自分では体験できそうにない話ばかりだった。

 最初は、一人で読んでいた。やがて白末と出会って、それらは彼女の守備範囲ではなかったけれど、勧めると読んでくれることもあった。それから、二人でああだこうだと感想をいいあった。

 その瞬間、あたしはある考えに憑かれた。

 そして、ああ、そうなんだ、そうだったんだ、と、肩の力が抜けるように得心した。

 あたしにとっては、体験しえない話をそんなふうに白末と共有することが、きっと、何よりも理想的なことだったんだ。

 それを、自分に自信がなさすぎて、自ら壊してしまった。

 にもかかわらず、白末は、その関係を掴み直してくれた。

 そして、再びこうして一緒にいることができた。

 そう考えると、あの、どうしようもない日々――切れた電球を買い換えることさえもできない暗い部屋で横たわりながら、カーテンの隙間からわずかに射してくる日光に、破れかけ、掠れかけたメッセージカードをかざして一日中眺めていたあのどん底の日々も、無駄にはならなかった、そう、今この瞬間へと途切れることなく至るか細い道をなしているように思えて、自分の内側から、かつて覚えたことのない、とてつもなく強い感覚が湧き上がってくるような気がした。


   *


 ……また泣いてる。

 と、いつの間にか電子書籍リーダーを傍らに置いて白末がいった。

 んー、これはね、欠伸だよ欠伸。疲れによるもの。

 と、あたしは急に涙腺の痛みだした眼を擦りながらいった。

 いま、ホロが何考えてるか当ててみせよっか。

 え?

 ……あー、こうしてまた白末と一緒にいられて幸せだなー、自分はとてつもない強運の持ち主だなー、って、そんなことを思ってたんでしょ。違う?

 ……違わない。

 白末の台詞は正確には違うけれど、大筋では違わない。

 あたしはそれより、とつぜん白末の口調が変わりだしたことに戸惑っていた。

 あたしはそれより、白末さんが急にキャラ変しだしたことに驚いたのである。そんなところかな?

 ……そうだけど。

 あたしを見下ろす白末は珍しくにやにやした顔でいった。

 あなたの考えてるそういうこと、だいたい伝わってるからね。

 あたしはガバ! と起き上がって、ソファの上に座り直した。

 どういうこと? と急に不審を感じていった。こういう展開、どっかで見たことあるぞ……テレパスものかなんかで。ひょっとして、信じたくはないけど……。

 白末はおかしそうにブーと吹きだして、違う違う、だってあなた、といった。考えごとしてるとき、独り言すごいから。

 ……なんだって?

 ああ、といっても、普段からそうだというわけじゃなくてね、たぶんリラックスして、心が無防備になってる時だけなんだと思う。さっきも、ボーッとした眼つきで、わーそうか、幸せなんだ……すごい強い……とかなんとか、口走っていたもんね。

 ウッ。あたしは思わず口を押さえた。ええ……それっていつから?

 昔からそうだよ。とりわけ、私の頬をさわってる時なんかね。だんだんトリップ状態に入っていくみたいで。あと、たまに寝言もすごいんだ。私への不満とか、してほしいこととか。素面のあなたなら悶死したくなりそうなことも、平気でいうし。

 と、白末は実際のあたしの寝言を「五分の一に薄めた」発言を聞かせてくれた。それは確かに、人間をやめて原子に分解されたくなるくらいの、身勝手さを丸出しにした願望の数々だった。

 それとほら、前に一緒に棲んでた時、あなたはたぶん寂しいと思ったんだと思う。ある深夜、私が眠ってたら、ブツブツいう声で目が覚めちゃって、あなたは私に何かいっているらしい、でもよく聞くと、それが返事を期待した問いかけじゃなくて、モノローグなのね。で、ここでパッと眼を開けたら気まずいだろうなあ、って考えて、寝たふりを続けてたの。そしたら、あ〜、たまには白にゃんになれなれしく見下されながら煽ってほしいにゃん〜、って低声が聞こえてきて……。

 いや、絶対そんないい方してないだろ。

 それで、そうじゃない方向でいってみようかな、と思って、意地張ったの。「敬語やめて」っていわれて本当にやめたら、単にいうこと聞いてるだけみたいになっちゃうでしょ。

 それはそうだけど……。

 だから、その時はどうしていいかわからなかった。だって、昼はいろいろいわれて、なんだとお? と思っても、夜になったら、うわ、この人、引くぐらい私にガチ惚れしてるんだな、と思うじゃない。それでどんどん衰弱してくから、強くも出られなくて……それがよくなかったんだ。ホントは、私ももっときっちりいうべきだったんだよね。今はほら、リーダーだからさ。昔のあなたレベルの問題児の攻略には、だいぶ慣れてきたんじゃないかな。

 なんかすごく傷つくんですけど……。

 そりゃあ、これくらいのことはいわせてもらわないと、お互い……でも、今いったのは、半分は後付け、かな。私にとったって、ホロさんはずっとホロさんだもんね。ほら、触ってみて。

 白末は右手をさしだした。その手は小刻みにふるえていた。

 いつでもいえる、と思ううち、二十年以上、積み重なっちゃってた。あんなに近くにいたのに、なんでだろうね。

 さあ……と、あたしは白末の右手を握りながら、視線を落とした。なんでだろ……。

 この年齢になっても、こんなに緊張することってあるんだね。

 ……そりゃあ、あるよ。いっぱいあるよ。

 だいたいさあ、ホロさんは昔から私を理想化しすぎなんですよね。別にそんなに誰にでも優しいわけじゃないよ。部下からは恐れられてるし、敵も多いし。

 そ、そうなんすか。

 あーたが敬語になってどうする。

 白末があたしにチョップを入れる真似をした。

 ホロさんのその自信のないところ、ずっと不思議なんだ。ふだんはもっと明るいのに、私の前でだけ、急におどおどすることあるし。

 ええ? ……いや、なんか……あたし、自慢できることって特にないから……。

 白末が再び手をぎゅっと握ってきた。その手はもう震えていなかった。

 そんなに、誰にでもわかりやすい「いいところ」「好きなところ」って必要かなあ。就職面接じゃないんだし、あー、この人と一緒にいると、一番好きな自分でいられるな、それがラクで楽しいな、とか、そういうのでもいいんじゃない。私はそうですけど。

 うー。あたしは白末の手の骨張った部分を両手で揉みながら、そんなもんかなあ……といった。

 私はホロさんの頑張ってる姿、しょっちゅう見てたから。そういうホロさんの前で自分が「白ちゃん」でいられる時が、たぶん、一番好きだった。でも、ホロさん自身は何か動かぬ証拠みたいなのを必要とするところ、変わってないよね。つきあう前はもっと自信満々でさ、よく衝突もしてたのに、だんだん……。そんなに萎縮したりその反動で怒ってみせたりしなくていいんだよ、とは、思う。

 ……じゃあさ、とあたしは伏し目がちにいった。……指環、つくってよ。

 はい?

 小声で聞きとれなかったのか、白末は訊きかえした。

 ほらこういうの、とあたしはとりだしたスマホの画面を見せた。こないだ、会社の後輩から聞いたんだけど……カップルで工房に行って、客が自分たちでハンマーでトンカン打ってお互いに贈りあうんだって。だから物凄くリーズナブルで、でも、そういう店ってせいぜい三十歳くらいまでの人が行くところなんじゃないの、なんて思って、迷ってたんだけど……。

 へー、いいじゃないですか、と白末は屈託なく、画面をスクロールしながらいった。海も近いみたいだし、休みの日に三人で行けば、きっと楽しいと思いません? ……ああでも、そうすると陽一のぶんはどうしよう、あの子きっとこういうの羨ましがるから。お店の人に相談すればいいのかな……。

 あたしはまだ踏み切れなかったけれど、白末は意想外に乗り気だった。あれこれと考えだした彼女のその楽しげな様子に、思わず見とれていた。

 出会い直した時に全然変わっていないと思ったのは、もちろんあたしの錯覚で、今の彼女は相応にシミもシワももっていた。

 そして、そんな白末の姿をこんなふうに間近に隣で眺めることができるのは、この瞬間、この宇宙であたし一人しかいないのだ。


 白ちゃんあのさ、とあたしはいった。ちょっとあたしの頬、つねってみて。

 えー、なになに?

 なんか、こうして一緒にいるのが信じられなくて……現実じゃないみたいだから。

 一瞬、白末はポカーンとした顔をした。それから、あの、本当におかしそうに苦しそうな笑いを笑い、そして、いきなりそれを断ち切って、

 いいよ。

 そういって、真顔で右手を伸ばした。まだその動作に慣れないそれは、探るようにゆっくりと、やがて遠慮なく触れてきた。


 普通に痛かった。


(K女子校文芸部誌「気合」第五十五号「特集・理想の恋愛/生もの二次創作」没原稿より)

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