煙草を吸う少女

石田くん

第1話

 由良はいわゆる凡庸なやつだった。

 上には大学生の姉が一人いて、自身は高校二年生の女子で、部活はバスケットをしている。特段うまいわけでもないが、下手なわけでもない。父親は会社員で、母親はパートをしている。全校生徒が多めの高校に通っていて、通学は自転車で、友達は特に仲がいいのが同じ部活に数人と、その他にも学年の半分くらいの女子は知り合いと言えるぐらいだ。成績は上から数えるでもなく、下から数えるわけでもなく、真ん中から数えるのが一番早い。悪いことはしたことがない。顔は別段可愛いわけでもなければ、かといって前髪を直すのに鏡を見るのが苦になるほどではない。

 

 今は二限の体育が終わって、空調のないホームルームの中、ドアと窓を開けっぱなしにして三限の古典がうっすらとした人いきれの中で行われている。眠いわけでもないが、なんだか退屈な感じだ。気が向いたら黒板の文字を写して、それ以外のときはペンのキャップをつけたり外したり、時計の横に貼ってある学級目標を見たりしている。つまり何もしていない。次は昼休みだが、特に食欲があるわけでもない。

 このクラスには人が多い。というかこの学校に人が多い。一学年十クラスで一クラスにおおよそ五十人というのは、いくらなんでも多すぎる。この前数学の質問を学年主任にしにいったときにその教師は由良の名前が全然出てきていなかったから、教師も一人一人なんて把握していないのだろう。特に由良のようなやつのことは憶えていない。今授業をしている古典の教師も、由良たち全員の名前は憶えていないだろうし、今授業を受けている生徒の状態もわかっていないだろう。一番後ろの廊下側の席の由良が左を見れば、寝ているやつが一人と、分厚い参考書を広げて内職しているやつが一人と、早弁をしているやつが一人。あとの四人はまじめだ。早弁をしているやつが注意されていない時点で、そこまでクラスの状況を把握する気はないのだとわかる。

 そんな教師を少し愚弄してみたくなったというわけではないが、由良は自分のすぐ右後ろにあるドアが開いているのを改めて確認すると、古典の教師が板書をしている隙を見計らって、教室から抜け出した。普段の由良からすれば柄にもなくとんでもないことをしたと焦ってもいいはずだが、このときの由良は妙に落ち着いていた。その理由は、自分一人がいなくなっても特に何も変わらないだろう、という思いだった。今日の授業の様子や学年主任の対応から感じたのかはわからないが、その思いには妙な確信があった。残念なことだが、思ってしまったものはしょうがない、と由良はとりあえず教室のある一階から二階のトイレに向かって歩き始めた。階段へ向かうには、教室の前の方のドアを通り過ぎるしかなかった。古典の教師はまだ由良が抜け出したことには気付いていない。気付くかもわからない。抜け出してすぐに怒られるのは嫌だと思ったので、由良は少し早足で、しかし教室の中は確認できるようにドアを通り過ぎた。古典の教師は生徒に向かって話をしていて、早足で通り過ぎた由良には全く気付いていないようだった。クラスメイトも、何事もなかったかのようにただ教師の話を聞くばかりだったが、その様子を確認した由良は、バレなくてよかった、とのみ思うわけではなかった。

 そこからは他のクラスの横を通り抜けるだけで、どの教室もドアは開いていたし授業もしていたが、特に由良に声をかけるものはいなかった。由良に気付いた者がいたとしても、他のクラスなので、由良には何か保健室に行くのだったりトイレに行くのだったり事情があるのかもしれない、と思い声をかけなかったのだろうか。

 一階のすべての教室を通り過ぎ、階段を上り二階のトイレに着いた。由良の学校は二階にホームルームがなく、音楽室や理科室などの特別教室、そしてトイレがあるだけだった。トイレはその二階の中でも端にあり、由良はここに来る間に二階のどの教室も授業をしていないのを確認していた。二階のトイレは、まず共用の手洗い場があり、そこから男子トイレと女子トイレにわかれる、という形になっており、廊下からは手洗い場も、当然トイレのドアも見えない。万が一のために廊下からの視線を切るように、女子トイレのドアの前に陣取り、これから何をしようかと由良は考え始めた。そしてポケットからおもむろに煙草の箱を取り出した。由良は当然酒も煙草もやったことがないし、その他の非行もしたことがない。今日の朝の登校中にコンビニの近くの道に落ちていた煙草をただ少し好奇心で拾ってきていたのだった。取り出した煙草を何の気なしに眺めている内に、この前理科室で実験をした後ホームルームへ戻るときに男子達がしていた会話を思い出した。由良の学年には何やら悪いことを少しばかりする男子達がいるのだが、その男子達が生活指導でライターを取り上げられたから煙草に火がつけられない、なので理科室のマッチを拝借して、二階の男子トイレの個室のドア枠の上の溝に隠しておこう、と話していた。二階の男子トイレといえば由良の今いる女子トイレのすぐ隣、目線を移せばドアが見える。由良は煙草をポケットに入れ、廊下に人がいないのを確認して、男子トイレに入った。見慣れない水色のタイルに戸惑い、嗅ぎなれた洗剤スプレーの匂いを感じる。隠すなら一番奥の個室だろうと思い、少し奥へ歩みを進める。ドア枠の上はもちろんそのままでは手が届かないので、個室に入って便器に上り、手を伸ばしてドア枠の上を触れてみると、なるほどたしかに溝があった。かなり埃っぽいが、耐えて溝を少し右になぞってみると、コトンと紙箱を感じたのでそれをそのまま溝の終わりまで指で押して立ち上げ掴んで、見ると確かにマッチ箱だった。中身も入っている重みと音がする。話したこともない悪い男子達に勝手にほのかな親しみを感じてそれを拝借し、折角なので小便器を少し観察した後男子トイレを出た。

 廊下に人がいないのを再度確認して、由良は女子トイレの前に再度立ち、女子トイレの換気扇のスイッチを押しトイレのドアを開けっぱなしにすると、もう一度煙草を取り出し、映画やドラマの見よう見まねで煙草の箱を叩いて一本取り出し、口にくわえた。次に手洗い場の水受けのふちに置いておいたマッチ箱からマッチを一本取り出し、こちらはある程度慣れた手つきですっとこすって火をつけ、遂に煙草の先に近付けた。初めてのことなので距離感もわからず、少し口元をゆがめたりマッチの火が指につかないか恐れたりしながら、なんとか煙草に火をつけた。マッチをぶんと振って急いで火を消し、次にようやく火のついた煙草をくわえたまま眺めた。あまり味がしないので今度も映画の真似をして少し息を吸ってみると、変な味をした煙がぶわりと鼻と肺に入ってきて、一気に咳込んだ。苦いとも臭いともつかない煙の中に少し爽やかな匂いもあって、なんだか変な感じだった。咳が落ち着いた後、手洗い場の水道で少し水を飲んで、腕で口を拭い、指に挟んだままの煙草を眺めた。そしてもう一度、今度は少しだけ、と思い、煙草をくわえて息をさっきよりも少なく吸った。今度は咳込みこそしなかったものの、口に入ってきた煙はやはりおいしいとは言えない。しかし、少しばかりの満足感が由良にはあった。それは煙草を吸った、悪いことをしてやった、という心ではなく、つかんだ機会、機会というか煙草、を試行錯誤の末にものにした、というある種の達成感のようなものだったかもしれない。煙をぶぅと吹き出してみると映画でよく見るような感じで煙が広がった。少し由良には余裕が出てきたので、今度は手洗い場の窓から見える景色、それは由良がこの学校で一番好きな景色だった、菜の花畑や田んぼや、その奥には大きい湖が見える。それを眺めながら煙草を吸ってみようか、さぞ映画のように格好よく映るに違いない、と思い、窓の方に体を向け、窓の鍵に手をかけ少し鍵を開けた、その瞬間、天井の方からいきなりジリリリリリ、とベルが鳴った。

 由良は大いに驚き、音のする方を見た。するとすぐ近くの天井に火災報知器が見つかった。音の主はこれだったのだ。由良が吸った煙草が出した煙に反応して鳴り続けている。どうしよう、どうすればこの音は止まるんだろう、由良は煙草を床に落とし踏みつけ火を消して吸い殻を拾い上げポケットにしまうと、先ほど開けかけた手洗い場の窓を全開にしてみたり、男子トイレも先ほど女子トイレでそうしたようにドアを開けっぱなしにして換気扇をつけたり、何とか煙を外に出そうと手を尽くした。しかし音は止まらない。ベルは鳴り止まない。次はどうしようか、何をしたらこれは止まるのか、と由良は二階に一人ぼっちで慌てふためきながら考えに考える。火災報知器を止めようにも、天井は高くて届かない。そうだ!由良は二階の教室の空いているドアを探し、空いていた第二資料室から火災報知器の下に椅子を持ってきた。これで火災報知器のどこかをいじれば止まるだろう、そう思い椅子の上に立ち、すぐに火災報知器へ手を伸ばす。それらしきボタンやカバーを見つけ、ようやく音が止まるかと思ったその時、一階の教室が騒がしくなってきた。誰かが音を聞きつけたのだろう。きっとその内大騒ぎになるに違いない、と由良は思った。が、由良はその時、何を思ったのか火災報知器に向けて伸ばしていた手を下ろし、ポケットから煙草を取り出して、一本くわえ、次にマッチで、今度は迷いなく煙草に火をつけた。そして思い切り吸い込み、精一杯背伸びをしながら火災報知機に吹きかけた。心なしか少し音が大きくなった気がした。また煙を吸い込み、ぶぅと吹きかけた。何度も何度も、できるだけ背伸びをして火災報知器に届くように吹きかけた。憂鬱から、逆に空疎な感じから、胸の中のもやや霧が煙と一緒にすべて吐き出されていくようだった。どんどん音が大きくなればいい、その一心で煙草を吸っては火災報知器に煙を吐き、吸っては吐きを繰り返した。そして少し小休止と思い背伸びをやめたとき、近くにあった消火栓の上にある火災警報器のボタンが目に入った。すぐに椅子から降り、歩み寄って、力強くそれを押した。思っていたよりとても大きな音が鳴った。避難が始まるのか、下の階から机や椅子のガタンガタンと動く音がした。誰か来ないかな、と思い階段の方を見ると、廊下の階段側の突き当りにも今押したのと同じ型の消火栓とその上の火災警報器のベルが見えたので、それに向かって走り、走りながら煙草を一吸いして天井のまだ鳴り止まない火災報知器に向けてぶぅと煙を吐き、廊下の反対側まで着いた。着くや否や火災警報器のボタンをまた力強く押した。また大きな音が鳴った。この警報機は階段に近かったので、いよいよ教室も大騒ぎになり始めた。遂に由良ははっはっはっと大きく笑った。すると、由良のすぐ近くの音楽準備室から、焦った表情の音楽教師がヘッドホンを持って出てきた。由良がトイレに行くときに音楽室は使っていないことを確認したが、音楽準備室の窓には暗幕が貼ってあり中の様子はわからなかった。しかし由良は焦るでもなく、むしろまた少し満足感を覚えた。音楽教師は由良が左手に挟んでいる煙草を見ると、急に表情を変え由良の方に寄ってきて、ぐっと煙草を持っている方の腕をつかんできた。由良は必死に抵抗した。すると音楽教師は由良の右腕を後ろから抱え、由良は音楽教師に半ば羽交い絞めにされたような形になった。由良の左手から煙草がふわりと投げ出され、由良の半袖のセーラー服から覗く左腕に火のついている方の端が触れた。

「熱っ!」

 その瞬間にぶわりと力が湧き出てきた。音楽教師の腕を物凄い力で振り切ると、すぐ側の窓の鍵に手をかけすぐに開け、窓枠に左足をかけ前方の湖を見て、次に下を見た。少し高いといえど、ここは二階だ。音楽教師の「待ちなさい!」という声には耳も貸さずに重力と手を取り合って、思い切って火災を知らせるベルを登場のBGMに、上履きでアスファルトに飛び降りた。飛び降りたすぐ近くの教室の中の生徒達が、窓越しに由良を驚きの目で眺めた。校内放送とともに避難を始めようとする教室を尻目に、煙草の火より熱い視線を背中に受けながら、由良は湖に向かって走り始めた。

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