リバーシブルー

椎名宗一郎

本編

 ねむいなぁとか思って目を擦っていたら背中を押された。

 階段の上から。知らない誰かに。

 ふわぁっと飛んで、ぐにゃっと潰れて、それっきり。

 強烈な悪意だった。あんな悪意を、わたしは知らない。だから、もう少しこう、捜査というか、護衛的なものをしてくれてもいいのにな、と思うところもあるのだけれど、いざ退院となる今日にいたっては、わたしの周りにはそういった公的機関に類する人間は一人も見当たらなかった。

 帰ったらどうしよう。

 当面の間、仕事をせずには済むものの、あの悪意に隠れながら、ときには身を守りながら生活をしなければならない。両親に言ったら、どうせ「どうして出張なんて嘘をついたんだっ」とか説教を食らいそうだし、いまのわたしには職場の上司である桜井さんと、それから同僚である智子ぐらいしか頼れるあてもない。

 まあ、夕方にでも連絡すればいいか。

 数週間ぶりとなる自宅のアパートに着くなり、わたしは消毒液の臭いと気怠さの染みついた皮膚をシャワーで洗い流し、顔面にチフレをべちょっと塗布してから身だしなみの整理に取り掛かる。まゆ毛のお手入れとか、伸びた爪とか、マニキュアとか、アソコのその、アレの処理とか。

 それらを終えると、わたしは窓という窓、鍵という鍵の施錠を確認したのち、ひとときの平穏を得るべくぴちりとカーテンを閉め、取り戻すべき日常をこれまで見守ってきた相方、もとい昼間のベッドへと、まるで意識を失うようにだらしなく、その身をポンッと投げるのであった。



 真っくらな室内には青白い街灯の光が差し込んでいる。

 そのひとすじに流れるホコリの粒子が音も立てずにキラキラと輝いていて、なんだか天の川みたいだな、と思う。不安を煽ることを生業とする静寂たちが部屋のそこかしこにその身を潜めており、少しでも音を立てようものならすぐにでもこちらに襲いかかる算段だろう。わたしの経験からすると、いまは午後一〇時あたりだろうか。いつのまにか夜になっていたらしい。

 まいったな。

 じつはこのときから、どうにも要領を得ない違和感が視界の端にうずくまっていたのだけれど、その正体に気がついたのは、寝室の静寂を蛍光灯の明かりで追いやり、リビングへと足を踏み入れたときだった。

 カーテンの隙間から自分の姿が見えたのである。

 眠る前、たしかにぴちりと閉めたはずなのに。

 強烈な悪意と恐怖。

 時間が止まり、音が縮まる。緊張が室内を支配する。

 わたしの身体はリビングのあらゆる場所に意識を張りめぐらせている。視線はおろか、指の動きや呼吸さえも、言うことを聞かずに意識を飛ばしている。冷や汗が垂れて耳が鳴る。心臓がうなる。死の匂いを前にして、わたしはただ立ちすくむことしかできない。

 しばらくの沈黙を破ったのは、リビングテーブルに横たわる携帯電話からの大きな着信音だった。



「遅くなってしまった。ごめんね。ひょっとして寝てたかな。ちょっとした、あいや、じつはけっこう大変なことがあって、それでその、出るに出られなくてね。いまちょうど、もらった住所のアパートの前にに到着したところなのだけど」

 耳元をやさしく撫でる携帯電話からの声が、恐怖にこわばった身体をほぐしてゆく。それは、わたしの鼓膜によく馴染んだ上司――桜井さんからの声だった。

 わたしはいそいで玄関へと走った。乱雑に施錠を解いてチェーンをはずす。多少の不安もあったけれど、彼の声に安心して警戒を怠ったのはわたしの落ち度かもしれない。

 ドアを開けるとそこには、くたびれたコートを片手に下げるいつものスーツ姿があった。いつも通りの誠実な笑顔をたずさえて。

 彼はどうしてか、わたしを見るなりすぐにそっぽを向いてしまう。こちらを見ないようにと、なにやら自らの視線を片手で遮っているようだ。

「ああ、突然ごめんね。寝てたよね。その、あわてなくても大丈夫だから。ええっと、外は寒いし、なにか羽織っておいでよ」

 冬将軍の前衛部隊らしきからっ風が、わたしの頬を、肩を、そしてお股の間を縦横無尽に通り抜けてゆく。たしかに寒いとは思うけれど、今はそんな悠長なことを考えている場合ではない。あれ、お股って。

 奇妙な感覚に恐る恐る視線を下ろしてみると、そこにはキャミソールと水色の下着があるだけで、視界のほとんどは肌色の、いや、青白い生が占めている。

 ああ、なるほど。どうりで寒いわけだな。って違うっ。なんてはしたない姿を晒してしまったんだわたしはっ、とか後悔している場合でもない。とはいえひとまずのマナーとして、助けを求めてすがるように、わたしはデコルテのあたりを手で隠しながら、また口元からこぼれる笑みを隠しながら、そっと彼の胸へと飛び込んだのだった。



「どうやら、気のせいだったようだね」

 人間が隠れられそうな部屋中のありとあらゆる場所を探しても、違和感の正体たる何者かが発見されることはなかった。本当に気のせいだったのだろうか。

 一旦落ち着こうと思い、下着にくたびれたコートという、いささかはしたない姿のわたしがキッチンで二人分のコーヒーを淹れていると、なにやらリビングの方から桜井さんが独白めいた意味深な言葉を投げてくる。

「じつはその、とてもショッキングな事件があって、どうしても君のことが心配になったんだ。その事件というのがさ、んーなんといったらいいものか」

 意味合いからして自分にも関わりのある事件らしい。わたしは緊張を感じつつも、マグカップを両手にリビングへと向かった。

「とてもショックを受けると思うから、心して聞いてほしいんだ」桜井さんは自らを諭すようにそう言いながら、テーブルの上の何もない中空を見つめている。「君の同僚の今井智子さんが今日の夕方に亡くなってね。なんでも自宅マンションの屋上から誰かに突き落とされたとかで大事件になってる。会社の方も警察やら病院やらとひっきりなしで、ようやく今になって僕も解放されたってわけさ」

 えっ、智子が死んだ。

 殺された。

 誰かによって。

 同一犯。模倣犯。わからない。

 ぞっとする話しのはずなのに、わたしの心はどうしてか安堵している。おそらく、わたしを階段から突き落としたのは彼女なんじゃないかって、心のどこかでそう思っていたのかもしれない。智子は、桜井さんのことが好きだったと思う。だから、桜井さんの直属の部下であるわたしが彼とランチを伴にしたり、ときには二人っきりで出張に出向いたりする境遇をよく思っていなかったんじゃないかって。結局のところ、わたしの考え過ぎだったみたいだけど。

 ということは、智子はわたしを突き落とした犯人じゃない。

 そう理解した途端、親友の死が、得体のしれない犯人の存在が、またたく間に心の内を侵食する。わたしはつい悪心をおぼえて、両手に持っていたマグカップを放り出し洗面所へと駆け込んだ。水道の蛇口を思いきりひねる。ゴボゴボというS字トラップの水を飲む音によって、嘔吐にあえぐ自らの醜態を紛らわせるために。

 脈がうねる。呼吸が震える。

 わたしは洗面台を支えにしながら内容物の吸い込まれてゆくその光景を、ただ呆然と眺めていた。そしてふと、酸欠状態から脱却をはじめる脳裏におかしな疑問が浮かんだ。

 わたしがこのアパートを借りていることは、智子のほかに誰も知らないはず。会社や免許証には実家の住所が登録されているはずだし、家族にすら話したおぼえはない。いくら緊急事態とはいえ、いったいどうして。

 このことを聞くべきだろうか。しかし、万が一逆上されてしまったら、わたしの人生はそれまでである。ひとまずは呼吸とか、震えとか、動悸とか、これらの不安をどうにかしなければ。あ、そういえば、病院から薬を持たされていたような気がする。シャワーを浴びる前、たしかこのあたりに放ったはずなんだけど。

 そうして洗面台脇の洗濯カゴに、つい蛇口を閉めるのも忘れて夢中になってしまったから、背後の気配にすら気づけなかったのかもしれない。

 直後、わたしは何者かによって頭を強く打ち付けられたのである。



「とても大きな音がしたけど、どうかしたのかい」

 遠くから桜井正晴の声が聞こえる。それから重くひろがる額の痛み。

 洗面台に突っ伏したままの上体を起こしてみれば、とても血色の悪い二つの瞳が、正面の鏡の中からこちらをじっと見つめている。

「返事がないようだからら扉を開けるよ。いいね」

 遠のいていた意識を呼び戻し、瞬時に記憶を同期する。

 もう大丈夫。こうしておけば問題ない。

 私はゆっくりと扉の方へ振り返り、くたびれたコートを脱ぎながらキャミソールの肩ひもをはずした。そして、扉が開くタイミングを見計らい、ふらっと。

 彼の胸をめがけて、転倒する。

「だっ、大丈夫かい。すまなかった。まだ君も退院したばかりだというのに、不安にさせるようなことを言ってしまったね」受けとめてくれた彼の対応は、なかなか紳士的だ。「ほら、今日はゆっくり休もう」

 彼に肩を支えてもらいながらリビングまで歩く。テーブルの隅では、つい先ほど落としたはずの二つのマグカップが仲良く寄り添っていた。

 ソファに下ろしてもらった私は、離れようとする彼の腕をとっさに掴んでいた。

 少し驚いているようだった。彼はこちらの様子をしばらく伺うと、無言のままなにかを察したようにその腰を隣りの空席へと、しずかに落ちつけたのだった。

 わたしは昔からおとなしい性格だった。そう、おとなしい。だから、損な役回りもたくさん押しつけられてきたし、本心とは違った道を歩むはめになってしまったことも仕方がないと思う。発言しないから。わたしの希望が叶ったとことは、これまで一度もない。

 大人になってからも変わらずで、もうなにを楽しみに生きているのかさえもわからなくなっていた。そこでわたしは、親友である智子の協力を得て、こっそりとこのアパートを借りたのである。自分だけの空間。自分だけの時間。なにをするでもなく、ただそんな当たり前が欲しかったのかもしれない。変わらない毎日を、どこかで抜け出したかったのだろう。

 そしての願いは、叶えられた。

 いつからか、『わたし』は知らない間に、この『私』というもう一人の自分を産み落としていたのだから。

 私は『わたし』を小さい頃から知っている。私は『わたし』が愛おしい。それゆえに、私は『わたし』がかわいそうで仕方なかった。ゴミ掃除を押しつけられて、机を片づけるたびに悔し涙を流したことも。調理の専門学校にいきたいと言えず、国立大学にいけと叩かれて血のにじむような勉強をしたことも。好きな洋服の一着すら買ってもらえなかったことも。ぜんぶぜんぶ、私は知っている。

 だから私は『わたし』を幸せにしてあげようと、そう思ったんだ。

 私は彼女の想いを知っている。その想いを叶えるために、私はただ背中を押してあげただけ。恋敵である今井智子を殺し、桜井正晴と結ばれるために。万が一罪に問われても、逃れるために。やりたくもない仕事を放り出すために。そして、『わたし』から『私』の存在を隠すために。そのためにあの日、私は『わたし』を階段の上から突き落としたのだ。

 カーテンを閉め忘れたのは失敗だった。けれど、そうした不安も、ある意味では良いスパイスになるかもしれない。このアパートの場所は携帯のメッセージ機能を使っているから、彼への疑惑も履歴をみれば解けるはず。ただ気になるのは、あの入院先の担当医である。どうやら『私』の存在を疑っているようなのだ。しかしこれも、『私』が表に出ないよう十分に気をつけていれば問題ない。

 もう大丈夫。明日の朝になればきっと、彼女の欲しがっていたものが手の内にあるだろう。これは彼女へ贈る、ささやかなプレゼント。

 そっと、彼の肩に頭をあずける。

 胸元のはだけ具合を確認しながら、私は彼の手に自らの手を重ねた。時期に来る、生々しい視線を待つために。やがて、彼の体温に熱が灯ったとき、私はそれを迎えながら、つい先ほど洗面台でこっそりと引いた紅をこうひらくのだ。


『——お願い、今夜は帰らないでほしいの』

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リバーシブルー 椎名宗一郎 @shina_soichiro

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