第2話 キスってどんな味ですか?(SIDE 環)

「キスの味ってどんな味ですか……」


 いきつけの居酒屋で。

 胸の中でモヤモヤしていた言葉を思わず吐き出したら、目の前でビールをあおっていた美和みわに「は?」と返された。


「はぁ……」

「環。ため息が酒臭い」


 深いため息をつく私に、美和がすかさずツッコミを入れる。


「ねえ、おかしくない? 私、付き合ってるんだよね? てゆーか、付き合って2か月たつんだよね?  何もないってどゆこと? 2か月前の付き合います宣言は夢だったの?」


 思いが募ったあまり、妄想を現実と混同してしまったのだろうか。

 いや、そんなわけはない。

 少なくとも、湯原は前より明らかにベタベタくっついてくるようになったし、おでこやほっぺにチューくらいは日常茶飯事になった。


「え、なに? 環の今日の相談事ってそれ?」


 目の前に座る瀬南せなみ美和みわは、大学の時のサークル友達で(もちろん湯原もいたゲームサークルのことである)、女友達がほぼ皆無の私にとって貴重な存在である。


「私……、彼女……なはずなのに。なんで彼氏のオナホの使用感とか聞かされてるの……? いや仕事なんだけど……。てゆーかきっかけ私だけど!!」


 あふれ出す苦悩を抑えきれず、思わず頭を抱える。

 確かに、付き合った直後、こういうことオナホのモニターはもうやめた方がいいのかも……とは思った。

 明らかに普通の彼氏彼女のやりとりではないし。

 しかし、彼氏のオナホの嗜好しこうを知ることは、ゆくゆくは彼氏を満足させる結果につながるのでは! と思ってしまったのだ。


「湯原も大概たいがいアホだけど、環もいい加減にしたれやって思うわ」

「ちがうもん! 私も湯原が嫌そうなんだったらやめようと思ったんだよ? でも湯原が『今日はいいの?』って言うから……! なんだよ『今日はいいの?』 って!? 違うでしょ! 言葉の用途がさあ!」

「相変わらずこじらせてんなぁ……」

「だからそれが解決したんじゃん! お付き合いできてめでたしめでたしってなったんじゃん! なのになんで私、まだ悩んでるのおおおおおお!」


 ――湯原と付き合い始めて2か月。

 お互い、いも甘いもみ分けるいい大人なはずである。

 なのになぜ! 大人のキスひとつまともにすることもできないのか……!


「あのね。なんでもそうだけど、なにかひとつゴールしたように思えるものは、だいたい次のゴールへのスタートってことよ。希望の会社に就職できたと思っても、そこからまた大変だし。結婚できたと思っても、そこはゴールじゃないんだわ」

「付き合えただけでゴールだと思った私がバカだってこと……?」

「そんなの、誰でも通る道でしょ。あんたたちがこじらせてたから遅いだけよ。つか、本来なら今が一番楽しい時期なんだからね? 何もかもが新鮮! 寝ても覚めても彼のことを思ってハッピー! そんなの今のうちだけだから! そのうち予定合わせるのもめんどくさくなるんだから。ウチは違うけど」

「夢を壊さないでよぉぉ……!」


 そういう美和は、高校から付き合ってきた彼氏と半年前にめでたく入籍した。恋愛というジャンルにおいては、私の遥か先をいく先人であり、恋愛相談ができるありがたい友人なのである。


「現実なんてそんなもんよ。いつまでもビビってないで、上目遣いで『チューしたいな♡』くらい言ってみーや」

「そ、そんなの言えないし……!」

「湯原も案外チョロいからね。それであっさり陥落かんらくすると思うけど」

「えええ……」


 ――そんなやりとりがありつつ。


 その後、美和が新婚の旦那から『そろそろ帰るけど』コールを受けたことによって「旦那が帰ってくるから帰る」と言う美和により、その場はお開きとなり。


 「こんなところでクダまいてないで、とっとと彼氏のところに行ってさくっとのしかかってきな! いつまでもオナホに相手させてんじゃないわよ!」と叩き出された。



 ◇



 そうして美和に言われた通り、素直に湯原の家にやってきた私だったが――。



 玄関を開けたら、風呂上りっぽい雰囲気の湯原に迎えられ、見えない心臓が2メートルくらい飛び出た。

 え、なんか髪の毛しっとりしてるし、いい匂いするし。

 な、なんだか胸がもやもやするんですけど……。

 これが噂の、ムラムラするってことかな……?


「環、何飲む? ビール?」


 雑念を振り払おうと、ソファの定位置に座って必死に格闘ゲームに集中しようとする私に湯原が聞いてくる。


「あ、お茶で……」

『さくっとのしかかって、お願いキスしてって言ってこいや!』


 瞬間、さっきの美和の言葉が頭の中をリフレインした。


「いやビール! やっぱビールで!」

「? おう」


(うう、そんなの……、酒も入れずに素面でやれるか! やると決めてきたからには、コトを起こさずに帰れまい……!)


 女は度胸。そして愛嬌。

 自分に愛嬌がいちじるしく欠けている自覚がある分、せめて足りないところは度胸で補うしかあるまい。


 そう。

 エロが世界を救うのだ。

 間違いなく、が達成された瞬間、私という世界が一つ救われることになる。

 そして、願わくば湯原の世界も。


「ほい」

「ひゃうっ!?」


 突然、背後からビールを手にした湯原が手を伸ばしてきたので、見えない心臓が5メートル先くらいまで飛び出た。


「おわ、なに? どした?」


 湯原が困惑したように聞いてくるが、動揺したのはこっちだ。伸ばした腕が肩をかすめていくし、なにやらお風呂上がりのいい匂いがするし、女子大生の色気にドギマギする男子中学生みたいになったでしょうが!


「わ、技が滑っただけだよ!」


 実際、動揺して普段外さないようなコマンドを外した。

 モニターの中のキャラクターが、技をかけそびれて逆に反撃を受ける。

 集中し、ゲームの体勢を立て直すと同時に、心の安定も立て直す。

 そうして、一心不乱にゲームをやりつつ、頭の片隅でなぜもっと可愛い反応ができなかったのかと暴れ散らす自分をスルーする。

 ……格闘ゲームはいい。

 画面と手の動きに無心になることで心が安定する。

 ……無心無心。

 いま大事なのは心を立て直すこと。心頭滅却すれば火もまた涼し。軍師は策を起こす前に心を乱してはいけないのだ。


「よっこいしょっと」


 と、湯原が私にぴったりくっつくように隣に座ってきた。

 自分も飲むのか、もう一本出してきたビールをぷしりと開ける。


(え? なんか近くない?? いままでこんなに近いことあったっけ? かつてない近さじゃない!?)


 湯原に触れている部分。

 肩や太腿が熱い。

 男の人の体温って熱いんだなあ、とか頭の片隅かたすみで思いながら、今度は動揺を表に出さず黙々とゲームを続ける。


「ほんと、よくそんだけ見えるよなあ」


 感心するように湯原が話しかけてくるが、もはや意識を目の前の敵を倒すことだけに集中させることにした。CPUのコンマの動きを察知して先手をかける。

 流れるような鮮やかな技の連打が、敵キャラクターをマウントにしずめていく。


『YOU WIN!』


 とモニターに映ったのにほっと息を吐き、目の前のビールに手を伸ばす。


「俺、環がゲームしてるの見るのやっぱ好きだな」


 こちらがひと段落をしたのを見計らって、湯原が声をかけてくる。

 基本湯原は、自分のゲームの邪魔になることはしないのだ。そういうところが、湯原の好きなところでもあった。


瀬南せなみ、元気だった?」


 美和と会うことは前に伝えてあったので、今日美和と会っていることはもちろん湯原も知っている。

 陽キャの湯原は割と和の中心にいることが多かったので、サークルのメンバーとは満遍まんべんなく仲がよかった。

 そういうところが、眩しくも引け目を感じる部分でもあったのだけど。


「うん。旦那が帰ってくるからって早々に放逐ほうちくされたけど」

「ぶはっ! あいつ、ほんと旦那大好きだな!」


 飲みかけのビールを吹き出すのを辛うじて免れ、湯原が笑う。


「いまが新婚の一番楽しい時期なんだって。今しか味わえないから堪能たんのうするって」

「あいつらすげーよなぁ……。あんだけ長くいて、それでも飽きないってマジ尊敬するわ」


 美和と旦那さんは、高校で出会い、高校で付き合い始めた。

 大学も同じところに進学し、就職先こそ違ったものの、その頃にはもうお互い家族公認となっており、大学卒業後にほどなく結婚に至った。


 ふたりとも実家住まいだったため、籍を入れたと同時に同居を始めたこともあって、一緒に暮らす生活が新鮮らしい。「長く一緒にいても、知らなかったって思うことはたくさんある」と言っていたが、私なんかまだまだ湯原のことなんて知らないことだらけだ。


「……で、どしたん?」


 唐突に、ビールをあおりながら湯原が尋ねてきた。


「……え」

「環がゲームに没頭する時って、大抵落ち込んでる時か悩んでる時だから。またなんか抱えてモヤってんじゃねーの?」


 言いながら、湯原が指の背中で、優しく私の頬を撫でてくる。


「まあ……、言いたくなければ無理に言わなくてもいいけど。でもほら」


 言って、こちらに向かって両腕を広げ、胸に飛び込んでこいとばかりに湯原が微笑みかけてくる。


「ほら。おいで」


 その一言で、胸をぎゅっと鷲掴わしづかみにされ、気持ちが一気に乙女モードに入った。我ながら単純だなあと思いながらも、おずおずと湯原の腕の中に沈んでいく。湯原はそれを受け止めると、包み込むように、優しくギュッと抱きしめてくれた。


「困ったときは俺がいるから。いつでも頼っていいんだからな」

「湯原……」


 軽く音を立てて、唇でおでこに触れてくる。額にかかる鼻息も、優しく前髪をかすめ心地よく感じる。


 ……そうだ。

 これじゃ前と同じだ。

 ひとりで悩んで、ひとりで決めつけて。

 ふたりで一緒に過ごしていくなら、ふたりで話し合っていかなければ、すれ違いも解消できないじゃないか――付き合う前のときみたいに。


 自分が傷つくのを恐れて、相手との交流から逃げてはいけないのだ。

 そう結論づけて、湯原に打ち明けようと身を乗り出す。


「湯原、あの……、あのね……!」


 そう言って、私が湯原に向かって体重をかけた拍子に、体勢を崩した湯原が体を支えようとついた腕が、ソファの下にあったリモコンを誤って押してしまう。

 そして同じく体勢を崩した私は、湯原の上に突っ伏しながら、ソファの下にしまってあった不思議な感触のものを思わず掴んだ。


『あっ……、あん……っ』


 格闘ゲームから切り替わった、テレビの画面。

 静かな室内に、清楚系美少女のあえぐ声がこだまする。

 テレビの中のサラサラとした黒髪ストレートの女は、どことなく自分に似ているような気がした――。

 が、今はそんなことはどうでもいい。


「……」


 ソファ下の異物を引っ張り出すと、見慣れたオナホが手の中にあった。


「……」

「……」


 どれくらいの間沈黙していたのだろう。

 いろいろ頭の中を思考が廻りすぎて、時間が数分経過したような気もするし、もしかすると、たった数秒のことだったのかもしれない。

 ただ――。


「生身の彼女がいる彼氏に……、こんなもんに相手させてんじゃねえええよおおおおお!」


 身のうちに生じた衝動に任せて勢いよく立ち上がり、ちからいっぱいオナホを床に投げつける。


「いてっ!」


 と、どうやら床に投げたつもりが、湯原に当たったらしい。

 頭の片隅でぶつけた申し訳なさを感じながらも、それ以上に自分の不甲斐なさで胸がいっぱいだった。


 ――私が初めてだから?

 怖がらせないように段階踏んで?

 それにしたって、好きな男にこんな切ないことをさせた自分が情けない。

 湯原は、どんな思いでここでオナったんだろう。

 薄暗い部屋でシコシコやってる後ろ姿を想像するだけで、切なくて申し訳なさすぎて、いたたまれない。


 言ってくれれば、とは言えない。

 言わなかったのは私のほうだし、言わせなかったのも私の方だ。


 傷ついた心のまま、勢いに任せて湯原の襟元えりもとつかみ、かぶり付くようにキスをする。

 やり方のわからない無茶苦茶なキスは、ビールの味がした。


 ――ああ。こんなファーストキスをするつもりじゃなかったのに。やけくそみたいな。こんな……。


 湯原は微動だにせず固まっていた。

 彼が覚醒する前に、そっと身を離す。


「たま……」

「お疲れ様でした」


 湯原が言い切る前に、すくっと立ち上がる。

 間をおかず、さっと荷物を持ち、うつむいてそそくさと玄関に向かう。


「待て待て待て! お前、都合悪くなるとすぐ帰ろうとする!」


 玄関に差し掛かる前に、我に帰った湯原に抱き留められた。


「メンテ入ったんで! メンテ明けまでお待ちください!」

「だから待てって! 不具合の修正は二人でやった方が早いだろーが!!」


 言われて、顔を上向かせられたと思ったら、唇に生暖かいものが重なった。


 ――それがキスだと気づいた頃には、逃げられないよう湯原にガッチリと抱きしめられていた。


「んっ……、んむ!」

「これ、び石分な」

「わ、び石……!?」

「んでこれが、アップデート分」


 至近距離でささやかれ、そのまま唇をむさぼられた。

 湯原の舌が唇を割り入ってきて、環の中の深いところまで溶かすように浸食する。


 逃げようとしても、背中と後頭部を押さえつけてくる腕が逃さないとばかりに引き寄せてくる。しばらくは抵抗しようと頑張っていたが、やがてそれも無理だと悟り、大人しく受け入れる。頭はくらくらするし、呼吸も苦しくて、開放された頃にはすでに息も絶え絶えになっていた。


「……な? わかっただろ」

「な、なにが……」


 見上げた湯原は、かつてない顔をしていた。

 こっちは立ってるだけで精一杯なのに、と思ったら、がくりとひざから崩れ落ちた。


「お、環!?」

「こ……、腰が抜けた……」

「またかよ!?」


 湯原に支えられながら、かろうじて床にへたり込む。


「環、ウケる。可愛い。大好き」


 目の前の男は、そんな私の様子を見てぷっと噴き出すと、なぜかニコニコしながら頬や頭を撫でてくる。


 それがなにか――経験値の差をまざまざと見せつけられたような気がして悔しくて、釈然としない気持ちでいたが、ふとあることを思いついたので実行してみることにした。


「ねえ、湯原」

「ん?」

「さっきの……」


 上目遣い、涙目で。

 美和に言われた言葉を思い出す。


「もっかい……、ちゅーして?」


 …………………………!

 ふわぁぁぁぁぁぁ……!

 言えた――!

 私にも言えた!

 今なら言える気がして言えた! 流れで!

 そして許される気がした!

 それに、心から『したい』と思う気持ちがあったから言えたのだ。


 そう。

 やっぱり、好きな人とするキスは、幸せで気持ちの良いものなのだと実感したから。


 そうしてまもなく。

 再び私はそれを実感することになるのである。


 私の『ちゅーして』の言葉に、なぜかダメージを受けたように俯いていた湯原が、ゆっくりと顔を起こし――。


 その瞬間がもうすぐそこまできていることを感じながら、私はゆっくりまぶたを閉じたのだった。

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