第5話 魔が差す


 安息日あんそくびの正午、グリセーオの街の東部にある露店街を足早に去る1人の子供の姿があった。

 穏やかな陽気のもと、黒いフードで頭から腰元までおおった少年の胸元には大事そうに紙袋が抱えられており、その中には1個のリンゴが入っていた。


 だが左目を前髪で隠すその少年の表情は不満そのもので、やつれかけた黒い右目で何かを探すように街の中枢ちゅうすうから離れていた。



——他に軍人は店を出していないのか? うわさに聞いていないだけでスラム街の方でも店を出しているんじゃないのか?



 カリムは孤児院内の清掃が一段落するやいなや、貯金を引き出し即座そくざに街の東側の広場へと飛び出していた。

 だが懸念けねんしていた通り、軍人の出店に並ぶ商品はすでに半分以上が売り切れており、期待していた薬のたぐいは見当たらなかった。


 残りの品は衣類や雑貨類がほとんどで、食糧品でリオが食べられそうなものはリンゴというれたあかい果実しかなかった。


 カリムは店番の軍人と特段会話を交わすことなく、渋々しぶしぶそのリンゴを購入した。美味おいしそうな見た目ではあったが、小振りな割に値が張るようにも感じた。



 り切れない思いも抱えることになったカリムは、別の目ぼしい出店を探して更に街中を彷徨さまよい続けていた。

 あわよくば他にも軍人が店を開いていることをはかなくも期待し、住民が寄り付かない場所へと無意識に足を運んでいた。


 だがスラム街はいつもと変わらず空気がよどんでいるようで居心地が悪く、休日の昼間だというのに人気ひとけまばらで不気味な静けさがあった。

 食糧を抱えるカリムの方がかえって窃盗に狙われそうな気がして、自然と背筋が縮こまっていた。




 それでも諦めきれず曲がろうとした小汚い住宅の角の先に、不意にあかを基調とした軍服が見えてカリムは反射的に身を隠した。


 そこには昨晩カリムがいくつものたる雪崩なだれ落とす罠を発動させた袋小路ふくろこうじがあり、長い黒髪をたたえた上背うわぜいのある女軍人が、ひとりその現場を観察するようにたたずんでいた。



 カリムは窃盗の際に追っ手の人数が多かったりくのが困難だと判断したりした場合に備えて、袋小路ふくろこうじへ誘い込んで動きを封じ込めるための罠を度々たびたびこしらえていた。


 秩序の希薄きはくなスラム街ゆえに、その準備も後始末も何らとがめられることがなかったが、流石さすがに軍人に目を付けられると、今後警戒が張られたり捜査が入ったりされかねないと懸念けねんいだいた。


 他方でしきりに何か考え込んでいる様子で背を向けるその女軍人からはまるで警戒心が感じられず、おあつらえ向きにも手荷物は腰元の黒いポーチのみであった。



——いっそのこと、邪魔をして有耶無耶うやむやにさせてしまうのもありだな。女性でも軍人になる人がいることは知ってたけど、所詮しょせんは女だしくのは難しくなさそうな気もする。


——この辺はほとんど軍人も出歩かないから、仲間を呼ばれる心配もない。そもそも軍人ならスラム街でも窃盗にわないと、油断しているような感じさえする。



 カリムは軍人の出店で期待した収穫が得られなかった不満をぶつけるように、女軍人のポーチに狙いを定めていた。

 そして黒いフードを深くかぶり直すと、足音を消しながらけ出して女軍人の腰元に体当たりをかました。


 不注意で衝突したように見せかけて、その手荷物への接触でおおよその所持品の大きさを把握し、財布とおぼしき大きさの物を慣れた手癖で瞬時に引き抜き立ち去る——それがカリムの身に付けてきた窃盗のわざであった。

 今回も目算通りの大きさの物体を感知し、素早すばやく右手をポーチにしのばせた。



 だがその手首は即座そくざに固くつかまれ、そのまま真上に引っ張り上げられた。


 カリムは想像を絶する反撃の速さと無理矢理腕を引かれた痛みに驚き、小さく悲鳴をこぼした。



「この私から盗みを働こうとは、いい度胸じゃないか。」



 右側から女軍人の低くののしる声音が聞こえたが、腕をつかみ上げられ容易たやす宙吊ちゅうづりになっているカリムはその表情をにらみ返す余裕もなく、暴れるように脚を揺らして離脱しようと必死になっていた。



「くそっ……放せよ!!」



 カリムがしぼり出すように声を荒げると、それにこたえるように腕が更に強引に引っ張られたのち、手首の圧迫感が無くなった。

 他方でカリムの視界は空と地面が一瞬でひっくり返っており、背中が一気に重みを生み出した。


 自分が女軍人の猛烈な腕力によって放り投げられていることに気付いた頃には、いくつものたるひしゃげた残骸ざんがいの山に背中から突っ込んでいた。


 

 無意識に受け身を取ることが出来できて頭を強打することは避けられたが、それでも全身が衝撃の反動でしびれ、視界が弾けるようにくらんでいた。

 逆さまの姿勢で広々とした青空を茫然ぼうぜんと見上げながら、女軍人を見縊みくび自棄やけになっていた数秒前の自分を早くもいた。


 間もなくしてその青い視界の上から、女軍人がまじまじとのぞき込んできた。

 だがその眼鏡越しに見下される視線を辿たどったとき、カリムは驚愕きょうがくのあまり身体が硬直し、わずかに時間が止まったような気がした。



——嘘だろ……俺と同じ、黄金色こがねいろの瞳……!?



 カリムは親子で瞳の色が似ることを知っていたが、基本的に誰もが黒か茶系統の色をたたえており、蛇を思わせる黄金色こがねいろの持ち主はどれだけ見渡しても見つけることが出来できなかった。


 してや左右で瞳の色をたがえる人など聞いたこともなく、その不気味さが原因で両親からてられたのではないかとさえ思っていた。


 だがたった今カリムを放り投げた女軍人は堂々と両目を黄金色こがねいろに輝かせており、それが意味するところを止まった時間のなかで咄嗟とっさ見出みいだそうとした。



 他方で異様に広い視界に違和感を察すると、カリムは慌てて左目を左手でおおった。

 放り投げられ逆さまにうずもれていたことで前髪がめくれており、非対称の瞳を無防備にさらしていた。


 途端とたん卑屈ひくつ羞恥しゅうちが込み上がったカリムは、全身に残るしびれもいとわずに無理矢理残骸ざんがいの山から抜け出し、一目散いちもくさんに逃げだそうとした。だがそのみじめな後ろ姿を、女軍人がっ気なく呼び止めた。



「おい、これは大事な物なんじゃないのか?」



 その言葉に釣られてカリムが振り返ると、女軍人が薄汚れた紙袋を掲げて見せていた。

 宙吊ちゅうづりになっても左手から放さなかったリンゴの入った紙袋は、放り投げられた衝撃で落としてしまっていたことに今になって気付いた。


 そしてそれを取り返そうときびすを返し、苛立いらだちと屈辱くつじょくとが入り混じった目つきでって掛かろうとした。



「おっと。それとも本当に大事な物はこっちの方か?」



 その寸前、女軍人はもう片方の手に握っていた古惚ふるぼけた巾着袋きんちゃくぶくろをも揶揄からかうように掲げて見せた。

 

 カリムはそれが持ち運んでいた自分の財布であるとわかると、途端とたんに踏み出す足が止まってしまった。

 貯金を全額引き出していたわけではなかったが、期待外れの買い物しか出来できなかったことでだかなりの額の所持金がそこに詰まっていた。



——まずい。あれだけのかねを軍人に直接見られたら、流石さすがに怪しまれる。最悪摘発てきはつされて孤児院に戻れなくなるかもしれない。そうしたらリオにも二度とえなくなってしまう…。


——どうする? どうやって取り返す? 不意打ちも効かない相手に、正面からやり合えるとは思えない。逃げ出したところで、素顔すがおさらしている以上見つかるのは時間の問題かもしれない…。



 カリムがわかやすく動揺し逡巡しゅんじゅんしていると、それを見兼ねた女軍人が不敵な笑みを浮かべながら問いかけてきた。



「ならば選びたまえよ、。どちらかは確実に返してやるが、もう片方は没収だ。それで私に喧嘩けんかを売ったことは不問にしてやる。もっとも、事情聴取はしっかりとさせてもらうがな。」




 その女軍人は、ルーシー・ドランジアと名乗った。グリセーオを訪問していた国土開発維持部隊の隊長だと知ると、カリムは出来心できごころで彼女から窃盗をはかったことをより一層後悔した。


 国土開発維持部隊はジェルメナ孤児院を管轄かんかつし、定期的に配給物資を届けていることは知っていたが、大抵たいていは就労時間中に荷が降ろされていたために素性すじょうまで把握する余地はなかった。


 カリムがジェルメナ孤児院に属していることは、首から下げ衣服の内に仕舞っていた銀製の名札で容易たやすく明かされてしまった。

 何処どこへ行くにも肌身離さず首から下げることは規則で決められており、安息日あんそくびも例外ではなかった。


 知らなかったとはいえ孤児院の監督者に襲い掛かったことで、その異常な所持金額について真っ先に問い詰められる顛末てんまつとなっていた。



「仮に現在の賃金相場でよわい8から12まで就労時間に従事し、孤児院側が規則上の比率で天引きしたとしても、これほどの貯蓄は不可能だ。おまえは一体どれだけの窃盗を重ねたんだ?」



 カリムはルーシーと共に袋小路ふくろこうじを正面に、たる残骸ざんがいの山に並んでもたれるようにして聴取を受けていた。

 どれだけ騒ぎ立てようがスラム街の一帯は関心を寄せることはなく、見窄みすぼらしい少年が軍隊長になじられようが痛めつけられようが構われることのない格好の場所であった。


 カリムは物理的に拘束されているわけではなかったが、最早もはや逃げ出す気力もなく彼女が許すまで不貞腐ふてくされた答えを返す他なかった。



「…そんなの、覚えてるわけない。」



「じゃあ質問を変えよう。おまえは何のために窃盗を重ねていたんだ?」



「…金持ちになりたいって、誰もが思うことじゃないのか。」



「確かに贅沢ぜいたくは人間がいだく在りきたりな夢だ。だがおまえはこの身に余る大金ではなく、たった1つの小さなリンゴを選んだ。それが自分のためじゃないことくらいわかる。実にわかやすい。」



 カリムはルーシーが提示した条件に従い、薄汚れた紙袋を返してもらっていた。引き換えに貯蓄額の半分以上を失うことになったが、リオに残念がる顔を作らせないためにその選択をらざるを得なかった。


 だがその本心をルーシーに見透かされ、あからさまに小馬鹿にされていることを察すると、肯定を口にすることすら恥ずかしくたまれない思いであった。


 一方のルーシーは口をつぐんだカリムに対し、また別の角度から話題を切り出した。



「昨晩この場所でとある交易商の従者らが負傷してね…中には頭から出血する大怪我を負った者もいたそうだ。窃盗を働いた犯人をここまで追い詰めたものの、妙に手の込んだ罠で返り討ちにったらしい。」


「あまりに悪質だったとのことで交易商から駐屯ちゅうとんしている大陸軍に苦情が入ったんだが、奴等やつらにはスラム街の軽犯罪をすみからすみまで取り締まれるほどの余裕はない。物資自体がとぼしいこの地で、産業のかなめを警護するのに精一杯なんだ。だから偶々たまたまこの街を訪れていた私が、あくまで個人的な関心で現場を査察していたんだが…。」



 ルーシーが背後の残骸ざんがいについて触れていくに連れ、カリムは指と足の先から身体中が冷たくなっていくのを感じていた。


 昨晩の騒動も自分が犯人であるとうに見抜いており、具体的な事件を追及して今度こそ処遇が下されるのではないかと危惧きぐし、全身を強張こわばらせて必死に身震いを抑圧した。


 だが予想に反してルーシーは、虚空こくうを見上げながら嘲笑あざわらうように語り掛けた。



「まったく、ここまでしてかねを奪いたい奴の気持ちは微塵みじんわからないね。他人ひとを傷付けなければ生きていけない人生なんて、社会にとって迷惑以外の何物でもない。してやそれが他人ひとの為にすることであっても、そんな汚れたかねでその他人ひとが喜ぶはずがない。いや、喜ぶべきじゃないんだ…はたから見れば、その他人ひとも共犯でしかないんだからな。」

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