第8章 囁く黒花

第1話 覚醒

——きっと死んだ私は、底なしの落とし穴に吸い込まれるようにどこまでもちていって、そのうち何を考えているのかもわからなくなって、『私』は何ものこらなくなってしまう。



 かつて予想した通りに、暗闇をただよっていた。いな、五感がすべて失われている以上、浮かんでいるのか横たわっているのかはわからなかった。


 身体を広げているのか縮こまっているのか、そもそも身体があるのかもわからない。この暗闇が実際に見えている世界なのか、まぶたを閉じているだけなのか、視力そのものが失われたのかすらわからない。


 何もわからない状態が続いて、かすかな思考すら暗闇に溶け出していく…それが自分という存在が何ものこらなくなる『死』を意味するのだと思った。



 だが溶け出しそうな思考は、何故なぜ泥濘ぬかるみのようにこびり付いたままで、何もない時間だけが只管ひたすらに続いているような気がした。

 

 生きていた時のことなどはるか昔に思えたが、その間ずっと寝付けずにいるような気怠けだるさを覚えていた。死んだはずなのに事切こときれないまま暗闇に拘束されていて、その陰湿いんしつな仕打ちに憂鬱ゆううつと退屈を覚えていた。



 だからその暗闇に不図ふと現れた一点の白い光に、おのずと引き寄せられていった。


 どちらかといえば、その光の穴がゆっくりと拡張していったと表する方が正しかった。それはまぶたを開く動作と酷似こくじしていて、どこか懐かしさを覚えていたからである。





 真っ白な世界で、修道女ドールは目を覚ました。


 遠い昔に見た白い炎がいまだに燃え盛っているのかと鈍重どんじゅうな思考を働かせようとしたが、それは1枚の紙を広げたかのような無機質な天井だった。


 そこにはいびつに破かれた大きな黒い穴があったが、それが壊月彗星かいげつすいせいかたどっているものだとドールはぐに理解した。

 手を伸ばしてもはるかに遠いその穴からは、金色にきらめくちりのような何かが降り注がれ、この世界に満ちていた。


 そして自分が生前と同じ紫紺しこんの修道服を身にまとってはいたものの、横たわっていた場所が瓦礫がれき残骸ざんがいあふれた廃墟ではなく、黒い花畑であることに気付いた。



——ここは…どこ…? …私、死んだはずじゃ……?




「……イリアさん!!」



 突然知らない女性の悲痛な声がして、ドールは当人でもないのに自然と身を起こし振り向いていた。


 すると黒い円形の足場を緑地のワンピースを着た女性が蹌踉よろめきながら横切り、左手側で同じように黒い花畑に身をうずめていた大陸軍の女性のもとへ近寄っていた。

 イリアと呼ばれた軍人もどこかぼんやりした表情のまま、身を起こしてワンピースの女性の肩を抱き寄せていた。


 

 ドールが改めて周囲を見渡すと、他にも4人の女性が同じように円形の空間のもといくつかに仕切られた黒い花畑の上で座り込み、蒼白そうはくうつろな表情をたたえているのが見えた。



 そのなかで、昔大聖堂で読んだ本に描かれていたラピス・ルプスの民の少女に思わず視線を奪われた。

 御伽噺おとぎばなしに聞く瑠璃銀狼るりぎんろうと同じ毛並みを受け継ぐ希少な人種を目の当たりにしたドールは、死してなお夢を見ているのではないかとその光景を疑った。


 だが物珍しさに染まった視線に嫌気が差したのか、その少女が碧色へきしょくの瞳でにらみ返してきたので、ドールは慌てて目を伏せた。それと同時に、とある違和感を覚えた。



——あれ、確かラピス・ルプスの民は、瞳の色まで銀色に描かれていたような…?




 その呑気のんきともいえる疑問は、たちまち周囲に上がる声によってき消されてしまった。



「イリアさん…ごめんなさい、私……グリセーオで、厄災を引き起こして…大勢の人たちに迷惑を、かけてしまって……。」



 ワンピースの女性はイリアの肩にしがみつき、萌黄色もえぎいろの瞳をうるませながら謝罪を繰り返していた。

 イリアはその赤みがかった茶髪を優しくでながら、りんとした黄蘗色きはだいろの瞳で他の女性たちの様子をうかがっているように見えた。



 一方でドールの右手側では、桃色地のドレスを着た少女が更に右隣の女性に向かって声を荒げていた。



「…ちょっと、貴女あなたのその恰好かっこう、どうなってるの!?」



 その女性が何故なぜか薄い布切れ1枚しか身にまとっておらず、豊満な体型をまったく隠し切れていないことにドールは今更ながら気付いた。

 

 だが当の女性はその身形みなりに恥ずかしがるわけでもなく、状況を呑み込めずにほうけたような受け答えをしていた。



「どうと言われましても……私が死んだとき、こういう恰好かっこうだったというだけで…。」


「…それもそれで可笑おかしな話だけど、私がいてるのは…その胸元のあなのことよ!」




 その女性の胸元には、拳の大きさ程の黒いあながあった。


 とはいえ骨や血肉が見えるわけではなく、ドールは遠巻きに痛々しそうな目で見遣みやりながらも、そこにはむしろ暗闇が埋め込まれていると表した方が妥当なのではないかと思えた。


 その女性はうつろな菫色すみれいろの瞳で自分の胸元にあるあなを見下ろしながらも、無感情にこたえた。



「…さぁ、何なんでしょう。別段痛みは感じませんが。」



「同じあななら、わしにもある。貴様らにも全員漏れなく、空いているのではないか。」



 その女性の右隣でいつの間にか立ち上がっていたラピス・ルプスの民の少女が、シャツの襟元を引っ張り胸元の黒いあなさらしていた。

 それを受けてドレスを着た少女も恐る恐る胸元を確かめ、苦々しそうな声を上げた。


 ドールもこの場でただちに修道服を脱いで視認できなかったものの、その上をなぞる手触りであなの存在を察した。

 確かに痛みはないものの、いたずらに触れようとすれば、最早もはやかよっていないはずの血が退いてしまうかのようなおぞましさを覚えた。



「何を今更狼狽うろたえとんねん。うちらは全員ディヴィルガムっちゅう杖に討たれて死んだ…そういうことなんやろ?」



 イリアとラピス・ルプスの民の少女の間でこの場を静観していた眼鏡を掛けた女性が、独特ななまりでなく言い放った。


 その途端とたん、ドールは悪魔を宿した自分が命を落とした瞬間…『死神』を思わせる人物にグレーダン教の司教杖しきょうじょうに似た武器で胸元を討たれたことを思い起こした。



——まさか、ここにいる私以外の6人もみな、ラ・クリマスの悪魔を顕現させたってこと? そして私と同じように、『死神』によって命を奪われたっていうの…?



わしは違うぞ。わしはルーシー・ドランジアによって殺された…奇妙な術を使って、まるで命を吸い上げようとするようにな。まぁ、この状態がむくろと言えるかはさて置くとしてのう。」



 そのかたわらで、ラピス・ルプスの民の少女が憮然ぶぜんとした表情で死因の違いを打ち明けていた。


 ドールはルーシー・ドランジアという名前が、ラ・クリマス共和国の現首相を指すことは知っていた。

 首相みずから悪魔を宿した者と対峙たいじしていたのかと想像した時点で、だ重たい脳内の情報処理が追いつくはずもなかった。



 そんななかドールの左側でイリアが立ち上がり、この場を取り仕切るように話し始めた。



「私も同じように、ドランジア議長の手に掛かって命を落とした。…恐らくこの中で最後に死んだのが私だろう。だが死因がどちらにせよ、我々が議長の思惑おもわくままにラ・クリマスの悪魔を宿し、大いなる野望のために犠牲になったことに変わりはない。胸元のあなは、その結果であること以上に推測できることはなさそうだ。」



「…申し遅れた、私は大陸平和維持軍 国土開発維持部隊の隊長を務めていたイリア・ピオニーという者だ。」



 イリアが咳払せきばらいを挟みながら名乗りを上げると、その足元でうずくまっていたワンピースの女性も腰を上げて一礼した。



「ステラ・アヴァリーです。グリセーオの街で孤児院の管理人を務めていました。イリア隊長とは仕事上の付き合いが…ああ、先ほどは急に取り乱してしまってごめんなさい。」



 ステラの後頭部に結わえた長い三つ編みが小刻みに揺れる合間をって、イリアが奥に立つ眼鏡を掛けた女性に何か促すような視線を送っていることにドールは気付いた。

 それを受けて、眼鏡の女性は紺青色こんじょうしょくの瞳を気怠けだるそうに伏せながら名乗った。



「…クランメ・リヴィア。アーレア国立自然科学博物館の。」



 肩書に皮肉を混ぜたような物言いを、その隣のラピス・ルプスの民の少女が模倣するように続けた。



わしはピナス・ベル。ラピス・ルプスの民を束ねる長老オドラ―・ベルの孫だ。まぁ、貴様らが寿命をまっとうしていたとしても知ることのない世界の住人よ。」



 ピナスは腕組みをして語りながら、裸同然で黒い花畑に座り込んだままの女性をやや軽蔑けいべつするように見遣みやった。だが本人は特段意に介すことなく、いまだにほうけた様子で口を開いた。



「…ロキシー・アルクリスです。セントラム盆地の領主邸宅ていたくの使用人…です。」



 ロキシーは辿々たどたどしくこたえると、自然と出来上できあがった自己紹介の流れに沿って、左側にいるドレスの少女に向かって菫色すみれいろの瞳をしばたたかせた。


 少女はどこか気まずそうに両腕を抱えて口をつぐんでいたが、それよりも不自然な間が生まれることを嫌ったのか、こもったような声音で仕方なさそうに名乗った。



「……ネリネ・エクレット。交易都市メンシスの領主の娘。」



 そして外方そっぽを向いたネリネの不機嫌そうな空色そらいろの視線と交錯こうさくしたうえ、しくも順番の最後となってしまったドールは、起立して慌ただしく口走った。



「あ、えっと…ディレクタティオの修道院に従事しております、ドールと申します……。」



 だがドールは円形の空間に並ぶ6人の色とりどりの瞳から一身に注目を集めたことで、たちまち委縮し台詞せりふ尻窄しりすぼみになってしまった。

 目覚めたときから長い白髪はくはつがすっかり露出していたことに今になって気付き、このに及んでもその外見を忌避きひされるのではないかと危惧きぐした。


 その懸念けねんが実現したのか各々おのおのの名乗りが終わったこともあってか、この空間が一段と重い沈黙に満たされてしまったような気がした。



——ああ…こんなに色んな人たちの前で名乗ったことなんてなかったのに、髪を隠していなかったせいで絶対に不審に思われた。どうして私は死んだはずなのに、またみじめな思いをしなきゃならないの…?



 ドールは空の両手を組んで身体の震えをこらえようとしていたが、それを気遣きづかってか知らずか、ステラが不安そうにイリアに対して疑問を並べ立てた。



「ねぇ、イリアさん…ここって一体何処どこなんでしょうか。何故なぜ私たちはこんな所で目覚めたんでしょうか。それに…ルーシーさんの思惑おもわくとか野望とかって、どういうことなんですか。まるで私たちが、それらに利用されてしまったかのような言い方をしていましたけれど…。」



 イリアはその数々の不安に何とかこたえようと難しい顔をしながらも一歩前に出たので、新たにみなの視線を集めたことをドールは察し、少しだけ安堵あんどした。



「ここが何処どこかはわからない。だがこの地形はソンノム霊園によく似ている…グラティア州の西端に位置する公営墓地だ。そこで私はドランジア議長と対峙たいじし、ラ・クリマスの悪魔を顕現させることとなり、命を落とした…ちょうどこの空間と同じ広場の中心でな。日付は確か、大陸暦999年6月30日だったはずだ。」

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