第5章 象る昇藤

第1話 急襲

『日が暮れたら外を出歩いてはいけないよ。…蒼獣そうじゅうに見つかったらさらわれてしまうからね。』



 ラ・クリマス大陸で育つ子供は、大人たちから大抵たいていこのような決まり文句でしつけをされていた。


 その青白いもやのような存在は、狼のように地を駆けるとも鷹のようにそらを舞うとも語り継がれ、いまだに厳密な外見の定義がなされていなかった。

 宵闇よいやみや見通しの悪い視界の中で音もなく現れて襲い掛かり、狙われたが最後骨も残さず丸呑みにされてしまうと伝えられているからである。


 蒼獣そうじゅうとは、現代を生きる大陸の民にとっては普遍的で身近な怪奇現象である。だがその正体が、伝承される悪魔が生み出す厄災の1つであることはほとんど知られていなかった。

 

 人間にとっては根源がどうあれ、畏怖いふすべき存在であること以上に重要な事実は必要ないからである。




 曇天に隠れて朝日がのぼる頃、大陸北東部カリタス州から西部グラティア州に向けて蒸気機関車が出立した。


 昨日『強欲の悪魔』による厄災の被害を受けたグリセーオの街では大陸平和維持軍による救援活動が夜通し展開されており、その被災地から背を向けるように走り出す車両の乗客はまばらだった。

 どちらかといえば首都が置かれるグラティア州からグリセーオへ、支援部隊を追加で送り込むためのはこの移動と捉えることが妥当であるように見えた。



 その機関車の最後尾の客室車両では大陸議会事務官にふんしたカリムとサキナが、後方辺りの2人掛けの対面座席に向かい合わせで座り、互いに沈黙していた。


 進行方向を背にして通路側に座るサキナは腕を組みながら静かに目を閉じており、カリムは窓辺で肘を付きながら右手側に広がるオディアム渓谷の樹海、その先のアヴスティナ連峰をぼんやりと眺めていた。


 大陸中央部プディシティア州に広がる丘陵きゅうりょう地帯の外周をなぞるようにこの路線は敷かれており、左手側は崖を見上げる形となるため、自然と眺望ちょうぼうが好ましい方へと寄り掛かっていた。



 昨日グリセーオで起きた厄災をなんとか収束させ、様々な感情が渦巻き頭の割れそうな思いをしたカリムだったが、今は大分だいぶ気持ちが落ち着いており、『強欲の悪魔』を封印した瓶を首都ヴィルトスの『本部』に持ち帰る帰路にいていた。


 青年のかばんに収められた封瓶は中身が固く凍り付いていただが、不思議と結露することはなく、萌黄もえぎ色の粒子のかたまりなおほのかな光を放ち続けていた。


 その淡いきらめきは弱々しい心臓の鼓動を彷彿ほうふつとさせ、初めて見る現象でないにも関わらず、特命を負う2人は気まずそうに視線をらせていたのであった。




 カリムがぼんやりとながめていたその朝霧が漂う風景に、不意に一筋の青白い閃光せんこうよぎった。


 その一瞬の出来事にカリムは思わず眉をひそめ、少し身を起こして窓に映る景色に目を凝らした。だが限られた視界から得られる情報は乏しく、吐息で硝子がらすの曇る面積が広がっていくだけだった。



 そのとき、車両の前方辺りから複数の男の悲鳴と共に騒がしい物音が飛んできた。


 

 サキナが咄嗟とっさに座席越しにその方向を振り返ったが、腰を上げていたカリムは不穏な騒ぎの根源を瞬時に視認し、布にくるんでいた杖を即座に引っ張り出して通路へと踏み出した。


 そのカリムの元へ向かって、青白く輝く狼のような動物がすでに目と鼻の先まで迫ってきていた。



 それでもカリムはひるむことなく、杖の先端の黒い鉱石部分を飛び掛かって来る青白い獣の喉元付近に向けて突き出すと、獣はその鉱石が触れた箇所から青白い光の粒子となって崩れ、弾けるように霧散した。


 『強欲の悪魔』が生み出す青白いつるを破壊したときと酷似こくじした現象であった。



 だが息付く暇なく1匹、また1匹と通路奥の扉の隙間から同じような青白い獣がき出し、獲物を求めて車両内を飛び跳ねていた。



蒼獣そうじゅう…これが『貪食どんしょくの悪魔』か!? …どうして機関車に!?」



 カリムが慎重に蒼獣そうじゅうの動きを見極め、的確に杖の一撃を喰らわせ続けるも、機関車という移動する人工物の中で只管ひたすらき続ける新たな厄災に戸惑いを隠せていなかった。


 前方には他にも数名の乗客がいたはずだったが、成すすべなく蒼獣そうじゅうに呑まれてしまったようで、本物の狼を思わせるうなり声と列車が走る音以外は最早もはや何も聞こえてこなかった。


 その様子を察したサキナがカリムを援護しようと拳銃を取り出し、通路奥の蒼獣そうじゅうに向かって数発発砲はっぽうした。

 だが実体がもやのように曖昧あいまいな獣の身体は銃弾に貫かれるどころかり抜けてしまうようで、まったく通用していなかった。



「やはり効果なしか……!?」



 舌打ち混じりにつぶやくサキナの台詞せりふ突如とつじょ息を呑むように途切とぎれ、その異変を察したカリムがぐさま杖を座席側にぎ払った。


 背後の扉からもき出していた別の蒼獣そうじゅうが、対抗手段のないサキナに向かって飛び掛かろうとしていたところを、すんでの所で杖の先端の鉱石にえぐられて消滅した。


 座席にもたれかかるように身を退いていたサキナは流石さすがに目を丸くしていたが、ただちに表情を引き締め直して立ち上がろうとした。



「…悪い、油断した。」



 サキナは不甲斐ふがいなさをあらわにしながらもカリムに一言謝意を述べた。一方のカリムはなおも襲い来る蒼獣そうじゅうの対処で余裕がなく、早口でサキナに行動を促した。



「このままじゃらちが明かない…君もここにとどまっていては危険だ! 窓からでも脱出して、なんとかして『貪食どんしょくの悪魔』の発生源を探してくれ!」



 その指示に顔をしかめて再び舌打ちをしたサキナだったが、躊躇ためらうことなく窓を上げて身を乗り出すと、さんり上げしなやかな身のこなしで車両の屋根へと着地した。


 だが次の一歩を踏み出そうとしたその瞬間、上空から巨大な青白い鳥獣が滑空かっくうしてサキナに襲い掛かった。



 その鉤爪かぎづめ自体が人間を容易たやすく捕らえられるほど大きく、サキナは咄嗟とっさに屋根にへばり付くように身をかがめてかわした。


 しかし見覚えのあるその鳥獣を目前に、サキナの内心でふたをしていた記憶と恐怖がよみがえり、唐突とうとつに肺が締め付けられるような気がして激しくむせた。


 冷ややかに流れる外気にもてられて全身の血の気が引いていくような思いだったが、それでもサキナは歯を食い縛って身をひるがえし、後方へ飛翔していった青白い鳥獣を追って拳銃を向けた。



 機関車に追随するように羽搏はばたいていた鳥獣は、しばしサキナの様子を観察しているようだったが、その手がひどく震えて引き金を引くこともままならないようだと判断すると、ゆっくりとサキナが乗る車体の屋根に接近した。


 そして巨大な鳥獣の形を構成する青白い光が一点に収束すると、人の形となってサキナからやや離れた前方に降り立った。



「…その面影おもかげ、やはりサキナであろう? 久しいのう、7年ぶりくらいか。」



 その独特な口調を発していたのは、よわい12,3程に見える小柄な少女であった。


 少女は瑠璃るり色の線が混じった銀髪を枝をねじったような冠で留め、動物の毛皮を加工したような厚手の上着を羽織はおっていた。

 だが頭部では狼のような耳がなびき、き出しの腕と脚も獣のような銀色の体毛が生え、背後では瑠璃るり色混じりの長い白銀の尾が逆立っていた。


 そしてうすら笑いを浮かべるその瞳は、深い碧色へきしょくに満たされ輝いていた。



「……ピナスなの…!?」



 サキナは血走った鈍色にびいろの瞳で7年前とほとんどど風貌の変わらない少女を捉えながら、かすれたような声音で応えた。

 予想だにしていない事態の連続に動悸どうきが激しさを増し、銃口が大きく揺れ動いていた。



「こうして月日が経つと良くわかるであろう、わしらは人間と比べよわいを重ねる間隔がずっと緩やかなのだ。…いな、貴様が驚いとるのはこの蒼獣そうじゅうすなわち『貪食どんしょくの悪魔』を何故なにゆえわしが顕現させておるか、ということに相違そういないのであろう?」



 ピナスと呼ばれた少女は、その容姿と声音に合わないあやしげな笑みを作ると一歩前に踏み出し、おもむろに両手を広げながらサキナに語り続けた。



「ほれ、さっさとその物騒な鉛玉なまりだまを発射するがよい。このむべき厄災の力は貴様のかたきなのであろう? 貴様の故郷を滅ぼし、妹のリオナを失う端緒たんしょとなったわしは貴様に復讐ふくしゅうされて当然なのだ。」


「今更ゆるしなどうつもりもない。わしは実体のともなわぬ蒼獣そうじゅうとは違うゆえ、その鉛玉なまりだま臓腑ぞうふち抜かれれば人間と同じように容易たやすく死ぬのだ。貴様にとって願ってもない好機ではないか。」



 ない調子の煽動せんどうが徐々にせまり来るなか、サキナは体勢を低く維持したまま息を殺すようにして必死に怒りをこらえていた。


 カリムが『強欲の悪魔』に因縁いんねんがあったように、サキナもまた『貪食どんしょくの悪魔』へとりわけ強い復讐ふくしゅう心をいだいていた。


 だが『封印』を命じられている以上は致命傷を与えるわけにはいかず、封印に用いる杖を握るカリムを呼び寄せる必要があった。

 とはいえ足止めのわずかな時間を稼がなければその連携も叶わないだろうと思い至り、ゆっくりと接近してくるピナスの足元を狙って今度こそ引き金を引いた。



 だが人間よりも遥かに視力の良いピナスにとってはその瞬間を視覚的に捉えることも、足元へ放たれる銃弾を回避することも造作ぞうさもなかった。


 発砲はっぽうの瞬間にうねるように青白い狼の姿へと転身すると、的を絞らせないよう左右へ飛び跳ねながらたちまち距離を詰め、振り上げる前脚でサキナの両手を強くはたいた。


 その突き飛ばされるような衝撃に体勢を大きく崩されたサキナは、機関車の屋根から転落しないようその身を抑えるため、拳銃を手放さざるを得なかった。拳銃は機関車の駆ける音に呆気あっけなく吸い込まれていった。



 他方でサキナの両手はピナスの鋭い爪に裂かれることなく軽くしびれているだけであり、その揶揄からかうような仕打ちに唇をみながら、サキナは透かさず腰元から短剣を引き抜いて反撃を試みようとした。


 だがピナスはまた少し距離をとって少女の姿に戻り、嘲笑あざわらうようにたたずんでいた。



「まったく見縊みくびられたものよ…いな、貴様の覚悟はその程度だったということか。」



「…黙れ。『獣人じゅうじん』が知ったような口をくな。」



 サキナが小さく吐き捨てる蔑称べっしょうを敏感な獣の耳が聞き逃さず、ピナスは鼻で笑って返した。



 そのとき2人の間に割って入るように、カリムが車体の窓から屋根へと飛び移ってきた。

 通路にいていた蒼獣そうじゅう掃討そうとうし終えた矢先、天井から響く跳弾ちょうだんの音を不審に思ってカリムは即座に移動してきた。


 だが噂や伝承でしか存在を知らなかった『獣人じゅうじん』とサキナがそこで対峙たいじしているとは露程つゆほども思わず、緊迫きんぱくした状況を呑み込むまでにいささか時間を要した。


 それでも『獣人じゅうじん』の少女の瞳が碧色へきしょくの輝きを放っていたことで事態を把握すると、カリムは静かに杖を構えながらサキナの前へと歩み出た。



 他方でピナスはその先端に着装されている黒い鉱石を視認すると、そこから放たれる胸を刺すような敵意にほんの一瞬動揺しつつも、むしろその刺激を歓迎するかのような不敵な笑みを浮かべた。

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