第7話 あやまち

 大陸東部の故郷を追われ、母と共に領主に仕えることになった幼子。それは母と領主が示し合わせて作り上げた虚実であり、ロキシーはその端緒たんしょとなった虚実の子であった。


 ゆえみ込みで仕えるフォンス邸別邸べっていから外に出ることはほとんど許されることがなく、そもそも幼少期から人並みの仕事量に追いつくことに必死で、外部との人付き合いなど、してや同年代の友人を持つことなど考えもしなかった。


 そもそも農業盆地であるセントラムでは親も子も協力し合って生活を営むことが当然であることを知っていたし、母に言われるがまま働かされることに何の疑問もいだいていなかった。



 だがよわいを重ねるごとに、親子との違いが徐々に可視化できるようになってきていた。


 母に父親のことを尋ねても一切答えてもらえないなか、やが夜伽よとぎの意味を知り、理解した。

 新たに課された仕事に竦然しょうぜんとし、その感情を紛らわす薬にみずから依存した。


 そしてその薬を失ったとき、ロキシーはすでに心の内でこれ以上なく膨れ上がっていた渇望を抑えることができなかった。



——確かに私は望まれて生まれた命ではなかったのかもしれない。だから都合の良い道具としてこの命に意味を付与されてきた…伯爵はくしゃく様によって、そしてきっとお母様も…影ではそういう目で見ていたのかもしれない。



 そう勘繰かんぐってしまうくらいに、クレオ―メから明かされためかけの子という事実はロキシーの目に映る世界をひどひずませた。

 何にもすがることができなくなり、湖の底にすべなく沈んでいくような感覚におちいっていた。



——それでも私は、確かに道具なんかじゃない。それもまた創世の時から変わらない当然の摂理のはずでしょう?


——だから道具にされないよう、私は人を愛したい。そして愛されたい。欲情を満たすためだけじゃない、その人の一生すべてに尽くすことで、必要とされる存在になりたい。その愛する人を、私自身で決めたい。



——それが私の命の本当の意味になっていくのだと思うから。




 だがその願望を叶えるために顕現した力はあまりにも残酷非道ざんこくひどうで、持ち得る手段はいやしく低俗なものであった。

 人として愛し愛されたいと願っているのに、結局そのために自分の身体を道具にして利害関係を構築しようとしていた。


 その方法を除外したとしても、使用人として仕えること以外に人と寄り添う方法を見出みいだせないでいた。それでいて愛したい人に拒絶されることを恐れて、麻酔のような毒を只管ひたすらに浴びせ続けてしまっていた。


 ロキシーは一向に晴れないもどかしさに耐え切れず、カリムの体温に浸りながら徐々に微睡まどろみかけていた。



——いっそのこと既成きせい事実を作ってしまった方がいいのかしら。…でも毒が抜け切らないときっと情事に及ぶことは叶わない。でも今このまま毒が抜けたら、突き放されて、拒絶されて、逃げられてしまうかもしれない。


——それがどうしても怖い。この温もりを失ってしまうことが怖い。もう二度と手に入れられなくなってしまうようで怖い。…もう、どうしたらいいのかわからない。



——あのつながっていた感覚が、たとえ道具であっても必要とされていた感覚が、今となっては恋しい。本当に愛する人同士でつながれたのなら、どんなに幸せなんだろうな…。





 そのとき、出入口の扉が施錠を粉砕して勢いよく開かれ、壁に強く打ち付けられて破裂したような音を響かせた。


 同時にうなり声をともなうような暴風が部屋中に吹き荒れて、大きな窓硝子がらすが風圧に耐えられずけたたましく割れてくらい夜空を舞った。

 


 今宵こよい壊月彗星かいげつすいせいは厚い雲におおわれていたが、それでも十分な明るみが部屋を照らした。

 ベッドの天蓋てんがいもてあそばれるようによじれ、ロキシーはいやが応でもその唐突とうとうな嵐の元凶を視界に映すことになった。


 頭部から全身をおおうローブをまとい無機質な仮面を着けた謎の人物が、部屋の出入口付近にたたずんでいた。その右手には、先端に鉱石か何かが着けられた杖のようなものが握られていた。



 ロキシーは突然の派手な襲撃に一瞬頭が真っ白になり、その身体は横たわるカリムを護るかのようにしがみついていた。


 元々派遣されたカリムの他に何者かが身をひそめている可能性は頭に入れていたため、予想だにしない轟音ごうおんと怪奇現象に衝撃を受けたものの、その襲撃者自体におののくことはなかった。


 だが部屋に吹き込む冷えた空気が地肌に刺さると同時に、杖の先端の黒い物体を視認するやいなや、そこから自分の心臓へ一直線に突き抜けてくるような、敵意に似たおぞましさを察知した。



——立ち込めていた毒が薄くなってる。どうやったのかわからないけど、あの人は意図的に窓を壊したんだ。…毒を生み出す私を始末して、カリム様を救出するために。


——それってつまり…私が命を狙われているってこと…!?



 たまらずロキシーはベッドの上で壁際に背中を預けると、カリムの上半身を抱え上げて盾にするように抱き寄せた。

 あの杖の先端で胸元を突かれることが致命傷になると、悪魔の本能が訴えていた。



——カリム様には申し訳ないけど…一先ひとまずこの姿勢で様子をうかがわないと…。



 先の暴風はすでに治まっていたものの、室内はいまだに空気が波打っているようであった。

 ロキシーはカリムのかげで精一杯のにらみをかせながら、急転する現状を把握することに努めた。



 『魔性病ましょうびょう』発生以降、ロキシーは毎晩就寝前には邸宅内を巡回していたため、襲撃者がいつどこから邸宅に忍び込んだのかは検討も付かなかった。


 だがそれは特段重要なことではなく、むしろ毒の充満した廊下を辿たどることの方が至難のわざのように思えた。それをこなして差し迫ろうとする脅威に、ロキシーはより一層身を堅くした。


 そして何のためにこのような襲撃に及んだのかと考えたとき、自分からあふれた毒が今なお街中の人々の心身を苦しめていることを思い出した。



——私が死ねば、恐らく『魔性病ましょうびょう』も沈静する。…もしかして大陸軍側は、初めからそれが狙いだったって言うの? その根源をあぶり出すために、カリム様はおとりになっていたと言うの…?


——でも、いずれにせよあの襲撃者がカリム様の仲間なら、この状況でこれ以上手荒な真似まねはしてこないはず…?



 ロキシーが思考をめぐらせていると、襲撃者は左手でローブの裾から短剣を取り出して、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。

 何の抵抗も叶わず肉壁にされているカリムは、うつろな眼差まなざしで何かを襲撃者に訴えようとしているようだった。

 

 だが襲撃者は左手を掲げると、何の躊躇ためらいもなく無様にさらされる青年の胸元に向かって短剣を振り下ろした。




 だがその寸前、ロキシーの左手が襲撃者の左手首をしかと捕らえた。


 振り下ろされたその腕はとてつもない重さで、わずかでも気を抜けばそのままカリムの胸板を切り裂いてしまいそうであった。



——ひどい。この人は本当にカリム様を殺すつもりだ。カリム様を捨て駒にしてまで、私を始末したいんだ。


——そんなこと、させない。私はだ、カリム様に…何もむくいることが出来できていないの!!



 ロキシーは歯を食い縛り、襲撃者に対する激しい憎悪ぞうおと拒絶を込めて、殺意のこもったその手首を固く握り締めた。



 しかし襲撃者はロキシーの手を振りほどくように勢いよく左腕を巻き上げたことで、ロキシーは引っ張られる形になりベッドから床へ容易たやすく放り出された。


 冷たい床に不格好に叩きつけられ、ロキシーは小さく悲鳴を上げた。カリムもまた中途半端に投げ出される形になり、だらしなく床へと雪崩なだれ落ちていくようであった。



——カリム様を、助けないと…!!



 せめてその身を起こすべくい寄ろうとロキシーは藻掻もがいたが、その間に立ちはだかるように襲撃者がそびえ立った。

 そしてつんいの姿勢から恐る恐る見上げるロキシーの胸元に向かって、右手に持つ杖を差し向けようとした。



 だがそのとき、短剣が床に落ちて乾いた音を響かせ、襲撃者はその場にへたり込むように崩れた。


 左肘を付いて、仮面の奥から食い縛るようなあえぎ声がこぼれていた。その左手首はローブのそでが食い込むように焦げ付いており、不快な臭いを漂わせていた。


 ロキシーは咄嗟とっさに自分の左手を見遣みやると、てのひら全体が油のようなぬめりにまみれており、そこで初めて自分が何を仕出しでかしたのかを理解した。



——毒だ。大気に馴染なじませるような生易なまやさしいものじゃない、もっと濃密で危険なもの…。



 ロキシーが振り撒く毒は元より空気感染、しくは経口感染という手法をるだけで充分であり、それ以外を見出みいだす余地もなかった。


 だが明らかな感情のたかぶりをもって握り締めていた襲撃者の手首は、濃縮された毒が酸のように変質したことで、さながら冷たい火傷を負わされていたのである。



 恐らく予測していなかったであろう反撃をらい前傾姿勢でもだえている襲撃者の姿を、ゆっくりと立ち上がったロキシーがあやしげな微笑を浮かべて見下ろした。



——ちょっと吃驚びっくりしたけど、これでこの人も毒が回ってじきに動けなくなるはず。


——でも、もしかしたらこの人もカリム様みたいに耐性を持っているのかもしれない。…それなら、今すぐにでも殺してあげるべきよね。



 舌舐したなめずりをして唇を湿らせたロキシーは、襲撃者の前で膝立ちの姿勢でかがみ込み、無機質な白い仮面を柔らかい手付きでまさぐり取り外そうとした。

 その間襲撃者は何ら抵抗を見せることなくうつむき、呼吸を押し殺して只管ひたすら焼けるような手首の痛みをこらえているようであった。


 そうしてあらわになった顎をロキシーが静かに持ち上げ、カリムと同じように接吻せっぷんによる致命的な毒を——引き出せる限り濃縮した毒を施そうとした。




 だが唇を寄せようとしたその顔は、明らかにロキシーと同じよわいくらいの少女のものであった。



 猫のような大きなにび色の瞳に長い睫毛まつげ、そして毒をこらえる冷や汗に張り付く栗色の髪を視線で辿たどったロキシーは、ここにきて最初からすべてが間違っていたことを察し、一瞬にしてその表情が青褪あおざめた。



——嘘でしょう…まさか、女性だったなんて。



 派手な襲撃、大陸軍、力の強さ…そうした断片的な推測と感覚、何よりあおられる敵愾心てきがいしんにより、相手が当然に男だと思い込んでしまっていた。



——駄目。こういう若い女性には一番私の毒が効きにくい。それにさっきの反撃も布越しだったから、毒自体は思ったほど回っていなかったのかも……?



 改めて襲撃者の少女と瞳を合わせたその数秒間は、まるで時間が止まったかのような錯覚を引き起こしていた。



 その原因が胸元にあてがわれた杖の先端、黒い鉱石にるものだと、間もなくしてロキシーは気付くことになった。


 胸元から全身に向かって広がる温かな波が、みずからのあやまちを悟り硬直していた身体を揺らめかせ、柔らかなベッドに埋没まいぼつしていくような感覚を引き起こしていた。



——嘘…嫌…やめて……私まだ、死にたくなんてない……!


——ああ……せっかく…私の…生きる道を……見つけたと…思ったのに……!



 そのまま深い眠りにちていくように、ロキシーの五感が、意識が、鉱石と同じ色の暗闇へとすべなく吸い込まれていった。



——カリム様…せめて貴方あなただけには…ちゃんと謝りたかった……。



——ちゃんと謝れば……貴方あなたに…向き合ってもらえたのかな……。





 薄暗闇で満たされた部屋の床に、音もなく一着の薄生地の下着が揺れ落ちた。


 襲撃者の少女は押しとどめていた息を一気に解き放ち、あてがっていた杖を右手で握り締めたまま、その場にうずくまって盛大にあえいだ。


 

 いまだに左手首は燃えるような激痛にむしばまれていたが、少女は応急手当を施すことなく、ローブの中で腰元に装着していた一本の液瓶を真っ先に取り出していた。

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