第5話 普遍的な愛情

 唐突とうとつに高官の説教が教導きょうどうになり、ロキシーは焦燥しょうそうと戸惑いが入り混じった表情でもう一度ルーシーを見上げた。


 学舎に通っていなかったロキシーは最低限仕事に必要な読み書きや計算などを母から教わっていたものの、社会情勢や歴史に関してはうといままであった。

 それを知ってか知らずか、ルーシーは視線を合わせることなく、腕を組んだまま淡々と語り続けていた。



「千年前は国王が君臨する時代で、法律なんて民主的な概念はだ存在しちゃいなかった。男尊女卑だんそんじょひが当たり前だし、それを揶揄やゆする表現自体もなかっただろう。」


「だがそうしてしいたげられていた女性に悪魔が顕現し厄災を引き起こすようになり、その悪魔を封印したと言われる預言者グレーダンが民と交わした『7つの戒め』によって、人々の価値観は変化した。女性に再び悪魔を顕現させないため、男女の立場が対等になるよう尊重されていくようになった。」



「預言者グレーダンの偉業を伝道するため新興したグレーダン教が、大陸の民の価値観変遷へんせんに大きく貢献したことは事実だ。だが長い年月を経てグレーダン教を掲揚けいようする帝国時代は終焉しゅうえんを迎え、数百年にわたる内戦時代に突入した。恐らくその間に、これまでつちかってきた民の価値観は有耶無耶うやむやになってしまったのだろうな。」


「それが和平へと結びつき、この国が海外諸国にならって共和制を採用してからまだ100年か150年といったところか。共和国としての立法や行政を新設した大陸議会に集約し、統治のための大陸軍を包括しているが、各州ではいまだに代々の貴族が領地を手放すことなく実質的な自治権を握っている傾向にある。」



「いかに大陸軍が各州に駐屯ちゅうとんし協調性を構築しているとはいえ、警察権をふるうにはだ慎重にならざるを得ない場合が多い。勿論もちろんここセントラムも例外ではないがな。」


「結局この国はまだまだ未熟で発展途上にある。それでも、かつて確かに大陸の民がつちかった尊厳は、今の時代も変わることなく重んじられていくべきだ。…詰まるところだな…。」



 大陸史を一息で駆け上がるような授業が終わり、ようやくルーシーがロキシーに向き直った。



「君も仕事熱心なのは構わないが、ちゃんと自分の幸せのために生きるんだぞ。…私みたいに婚期を逃さないようにな。」




 だが結ばれた顛末てんまつは重厚な前提とは裏腹に、茶目ちゃめはらんだ何とも漠然とした内容であった。ロキシーは揶揄からかわれるような口ぶりに、呆然とした表情を返すしかなかった。



「私はもう28なんだが、同じくらいのよわいの女性は大概結婚していて子供もいてな…すっかり仕事に生き過ぎてしまったことをいささか悔やみ始めているところだ。」



 威厳のある女性高官が見せる自嘲じちょうに対し、ロキシーも釣られて苦笑いでこたえようとして、つたなく引きった表情になってしまったような気がした。

 陰鬱いんうつそうな自分を励ますつもりなのか、相変わらずルーシーの意図するところを汲み取りきれないままでいた。



「まぁ子供が欲しいかと聞かれれば微妙なところだが…昔は甥っ子の面倒を見ていたこともあったし、憧れは無くはないな、うん。」



 そしてロキシーからは質問も何も発していないにもかかわらず、ルーシーはいつの間にか陶酔とうすいするように自分自身との会話に浸っていた。



「姉夫婦の子だった。父が昔大陸議会のお偉いさんでね、軍人だった姉夫婦は国の発展に貢献するよう日頃から厳しく言われていたんだ。それでも息子には赤子の頃から、家柄だとか国益だとか、そんな束縛を受けずに望むまま健やかに生きてほしいと言い聞かせていた。そこにあった普遍的な愛情はとても尊ぶべきもので、温かくまばゆかったことを覚えているよ。」



 ロキシーはルーシーの独白に呆気あっけにとられる一方で、その高官が抱く思い出にどこか寂寥せきりょう感が漂っているような気がしていた。

 まるでかのような物悲しさを無視できずにはいられなかったのである。



——そんなことを私に言われても…わからない。世間一般に言う普通の家庭だとか家族愛だとか、私はそんなものに触れたことなんてない。



 同時に自分にとっても『普遍的な愛情』が遠い別世界の概念であるように思えて、ロキシーは項垂うなだれるように目を背けてしまった。



「まぁ、だからといって魅力的な男がいるかといえば話は別だがな。どいつもこいつも図体や声だけでかくて、多少腕力が強いくらいで見下そうとしてきやがる。愚かしくて浅ましくてあきれて物も言えない。そうでもしないと私より優位に立てないからって…。」



「…ドランジア隊長?」



 ルーシーの独白が愚痴に転調したところで、不意に庭園の奥の方から部隊員とおぼしき金髪の男性が顔を出し、声を掛けてきた。

 

 ロキシーは吃驚びっくりして小さく飛び上がるように振り向いたが、ルーシーは何ら気にすることなくぶっきらぼうに手を振ってこたえると、そのてのひらを優しくロキシーの肩に置いてささやきかけた。



「すまない、長話をし過ぎたようだ。それではロキシー…若い時間は短いのだから、せめてもの生き甲斐がいを探したまえよ。」



 その言葉を最後に、ルーシーは颯爽さっそうとこの場を立ち去ってしまった。


 結局ロキシーは一言挨拶あいさつしただけで、その一言すら遠い昔の出来事に感じるような異質な時間を体験していた。



——なんだったんだろう、あの人……悪い人じゃないのかも、しれないけど…。



 そのロキシーの両手は、いまだにべたついたままであった。だが手汗だと思っていた湿り気の要因はリンゴの果汁であり、ルーシーの長話を拝聴するかたわらで無意識に丸々1個を食べ切ってしまっていたのであった。



——取りえず、手を洗わなきゃ…。



 異様な満腹感がに落ちたロキシーは、リンゴの芯を廃棄するついでに邸宅内で進められている協議の様子をうかがおうと、棒になりかけていた足を動かし始めた。


 その時にはすでに、ルーシーが臭わせた違法な薬物についての詮索の一件などすっかり記憶から押し流されてしまっていた。





「えっ!? …薬が、無い…?」



 その日の夜、ロキシーは使用人長の個室で母レピアから明かされた事実を前に茫然自失ぼうぜんじしつとなった。


 フォンス伯爵はくしゃくに命じられる毎晩の夜伽よとぎに際し欠かさず服用していた薬『ミシェーレ』はレピアが管理していたが、何の予告もなく提供が打ち切られたにもかかわらず、夜伽よとぎに従事するよう言い渡されてしまっていたのである。


 レピアはくらい目をしながら頭を抱え、狼狽うろたえるロキシーをなだめようとした。



「あなたも小耳に挟んでいるでしょう? メンシスが不可解な竜巻だとかに潰されたって。それでまだしばらく調達できる見込みが立っていないのよ。」



 だがロキシーは母の様子から、『ミシェーレ』の在庫が予期せぬ形で失われてしまったのではないかと想像した。すると不意に昼間の女性高官の台詞せりふが脳裏によみがえり、その憶測を下支えした。



『流れ着いた密輸品を取り締まることは困難になっている。…証拠隠滅をはかる十分な猶予ゆうよが生まれてしまっているんだ。』



 日中に訪れた国土開発支援部隊は、緊急であったとはいえ事前の連絡なしに到着したわけではなかった。違法に仕入れていた薬を誰が破棄したのかは、容易に想像がついた。


 そして薬を服用せず夜伽よとぎに及ぶことが何を意味するのかも理解していたロキシーは、肩を震わせて愚図ぐずるような声音を漏らした。



「それでも…その……はらまされるのだけは、嫌です……。」



 生理だからと無理にでも逃げる口実を作りたかったが、周期的に誤魔化ごまかすことは難しかった。

 元々生理の間はレピアが代わりに夜伽よとぎに従事していたが、それも薬を服用した前提の話であり、よわい35とはいえ使用人長でもある実の母にはらむ危険性を押し返すことの方が困難であるように思えた。


 そもそもロキシーはよわいを重ねたレピアの代わりに夜伽よとぎに従事するようになったという経緯いきさつがあり、それ以前のより長い年月にわたって、レピアは伯爵はくしゃくの相手をし続けてきたのであった。



「…伯爵はくしゃくも例の薬が使は承知しておられるし、今後のためにもご容赦を懇願こんがんしておいたのだけどね…ここ数日で気が立っているし晩酌ばんしゃくの量も多いから、あまり期待しない方がいいのかもしれないわ。」


「そ、そんな…!?」



 ロキシーが両手で口をおおいながら悲鳴を上げようとすると、レピアはおもむろに歩み寄ってロキシーを抱き寄せ、肩にうずめた頭を優しくで回した。



「…あなたにはいつも負担をかけてしまって申し訳ないと思ってるわ。でも、故郷を失った私たちがすがり付くためには仕方がないことなの。」


「駆け込みの使用人という身分でありながら栄養のある食事と温かな寝床が与えられて、親子で痩せ細ることなく美しい身形みなりのまま生きていられるなんて、普通じゃ考えられない、願ってもいないことなの。こういうときだからこそ、伯爵はくしゃく様をお支えしないといけないの。」


「…それに、私だってあなたがはらむのは本意ではないわ。もしはらんでしまっても、可能な限り身体を傷付けずろせるよう最善を尽くすから…!」



 ロキシーは母の温もりに包まれて、全身に立つ鳥肌がしずまっていくような気がした。そのなかでまぶたを閉じながら、只管ひたすらに自分の心に言い聞かせた。



——母はずっと自分だけじゃなく私のことも考えて、親子で不自由なく生きるために動いてくれている。私なんかよりも、よっぽど沢山たくさんの苦労をしている。だから私も、こんなことで音を上げるべきなんかじゃない…。


——少しの間、辛抱しんぼうすればいいだけ……大丈夫…身体はもう、慣れているはずだもの……。



 だがこのときロキシーは、心にこびり付く確かなわだかまりをぬぐい切れないことに気付いた。


 痩せ細ることのない恵まれた生活、不自由のない普通の暮らしを装う度に、から乖離かいりしていくむなしさが色濃くなっていた。



『そこにあった普遍的な愛情はとても尊ぶべきもので、温かくまばゆかったことを覚えているよ。』



 身形みなり使が、無く後ろめたいと初めて思えた。



——ずっと、このままでいるしかないのかな……。



 母に手を引かれるその先で『普遍的な愛情』に相見あいまみえることなど、十中八九ないのだろうと密かに打ちひしがれずにはいられなかった。





「…さっさと脱げ。」



 いつもとは違った肌寒さを感じる伯爵はくしゃくの寝室で、白い寝具用のローブをまとったクレオ―メが、さかずきを片手に項垂うなだれるようにして、豪勢な天蓋てんがい付きのベッドの縁に座り込んでいた。


 かたわらの机では果実酒の瓶が数本からになって転がっており、物々しく張り詰めた空気を察していたロキシーは、クレオ―メが開口一番に放つ命令に早くも戦慄わなないていた。



 クレオ―メはメンシス港の機能停止にともない単純に領主としての業務が煩雑はんざつ化したうえ、この日は終日しゅうじつ大陸軍との応対に追われ疲弊ひへいしていた。そしてその心労を紛らわす薬も皆無かいむだった。


 勤勉さで知られ日々業務に忙殺ぼうさつされていたクレオ―メがかねてより闇商人から買っていた違法薬物は『ミシェーレ』だけでなく、精神増強剤など複数品目に及んでいた。

 それら一切が調達できなくなったいま、せめてもの代替となるのが自家製の果実酒であり、若き女使用人の肉体であった。



 ロキシーはクレオ―メの低い声音にたじろぎながらも、息を押し殺すようにゆっくりとエプロンドレスを脱いだ。

 伯爵はくしゃくは機嫌がかんばしくないときは、決まって自ら脱衣するよう最初に命令することを覚えていた。


 それでも今宵こよいに限っては下着まで脱ぎ去ることに著しい抵抗を感じ、簡単に折りたたんだエプロンドレスで前身を隠すようして、静かにクレオ―メのそばへと歩み寄った。

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