第4話 蛇の眼


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 セントラムで『魔性病ましょうびょう蔓延まんえんする前日、フォンス邸別邸べっていには大陸平和維持軍の国土開発支援第1部隊が訪れていた。



 ラ・クリマス大陸の2大交易都市の1つとして知られるメンシスが突然の竜巻被害にい、貿易港としての機能を一夜にして喪失してしまった関係で、大陸議会はメンシスにつながる流通経路を首都近郊のソリス港へ一時的に集約する措置をらなければならなくなっていた。


 それは大陸東部で営まれていた対外的な取引をほぼすべて西部に移すことと同義であり、やむを得ない事態とはいえ生半可な整備ではなかった。

 それでも大陸議会は早急に国土開発支援部隊を追加編成し、流通網の再構築のため大陸各地へ迅速に出動させていた。



 大陸中央部で農産物の多大な生産量を誇るセントラムでは、基本的にフォンス伯爵はくしゃくもとで出荷する商品を一括して取りまとめており、かねてよりソリスとメンシス双方に取引があった。

 ただ単純に物量が多いこともあり、今後しばらくのソリス港への出荷量や日程調整について検討する必要があった。


 そのため朝から邸宅内はせわしなく、フォンス伯爵はくしゃくや使用人長レピアをはじめ従者はみな大陸軍への応対に追われていた。



 そんななかロキシーは、猫の手も借りたいはずの邸宅内から1人外へ追いやられ、庭園の管理に従事させられていた。

 

 何か罰を受けたわけでもなく、確かに1人くらいはそうした役割も必要だったのかもしれないが、すでに朝方整えられたばかりの草花を前に新たな仕事を見出みいだすことには早くも限界を感じていた。



 巡回する警備員を模倣するようにしばしの間庭園を彷徨うろついていたが、ロキシーは不図ふと隅の方でたたんでいる1人の女性に気が付いた。


 長い黒髪がすらりとした上背をおおっており、朱色を基調とした軍服から、来訪している国土開発支援部隊の者だと容易にわかったが、何故なぜかその女性は退屈そうにリンゴをかじっていた。


 ロキシーは思わず身をひそめてその様子をいぶかしんでいたが、当の女性にはあっさりと気配を察知されてしまっていた。



「そこの使用人さん、ちょっといいかな。」



 あんじょう声をけられてしまい、ロキシーは渋々しぶしぶ女性の前へと歩み寄った。


 恐る恐るその女性の顔を見上げると、銀縁の眼鏡の奥からのぞ黄金こがね色の瞳に視線を奪われた。

 まるで蛇を思わせる鋭い眼光に、ロキシーは口も開けず立ちすくんでしまった。


 その反応を面白がるように、黒髪の女性は食べかけのリンゴを視線の間に挟み込んできた。



「これ、美味しいから食べてみてよ。」



 そう言った矢先、おもむろにリンゴを手放してきたので、ロキシーは慌ててそれを落とすまいと両手で受け止めた。


 食べかけのリンゴを手渡された経験は、実の母親からあったかどうかすらも怪しかった。

 だがその女性からの暗黙の圧力を感じ、たまれない心情を誤魔化ごまかすように、仕方なくそのリンゴを小さく一齧ひとかじりした。

 

 瑞々みずみずしい果肉に甘露な蜜が染み渡った、心地よい風味をしていた。



「この街でもらったやつなんだけど…どこの果樹園でもらったと思う?」



 黒髪の女性が気さくに繰り出す会話の意図が見えなかったが、咀嚼そしゃくを終えたロキシーは少し考えたあと、小さく答えた。



「…伯爵はくしゃくの奥様が本邸で育てられているものだと思います。」


「へぇ、正解だよ。流石さすがだね、やっぱりそういうのわかるものなんだね。」



 予期しない称賛を受け、ロキシーは益々ますます委縮して怪訝けげんな表情を浮かべた。それを見た黒髪の女性は、腕を組んで何か思い出したように言葉を続けた。



「ああ、そういえば名乗っていなかったね。私は国土開発支援第1部隊隊長、ルーシー・ドランジアだ。」


「怖がらせてしまってすまない、黄金こがね色の瞳は珍しかっただろう。この大陸の民の瞳は茶系統の色が一般的だからね。君のは…どちらかといえば黒っぽいかな。」




 ルーシーと名乗る女性の黄金こがね色の瞳にまじまじとのぞき込まれたロキシーは、またほんのわずか硬直したのち我に返り、高官に対し不躾ぶしつけな態度をとっていたことを謝罪するかのように一礼して辿々たどたどしく口走った。



「し、失礼いたしました…ロキシー・アルクリスと申します…本日は遠路遥々はるばるお越しいただきまして…。」


「ああ、いいよいいよ、その挨拶あいさつはもう何度も聞いたし。」



 ぶっきらぼうに手を振るルーシーを前にロキシーは恐縮しながらも、何故なぜ隊長格の軍人が庭園の隅に1人たたずんでいたのか疑問に思わずにいられなかった。

 今まさに邸宅内では、伯爵はくしゃくと大陸軍が協議を進めている最中なのである。



「ああいう細かいことは下の奴らに任しておけばいいのさ。そうでもしないと部下も育ってこないしね。」



 だがルーシーはその当然の疑問を見透かしたように、庭園の奥に見える邸宅をながめながらつぶいてみせた。



「でも私だってただ油を売っているわけじゃない。確かに我々はセントラムからメンシス方面に出荷されていた品々を、今後どのようにさばいていくかについて協議するために訪問した。」


「だが逆もまたしかり、メンシスからセントラムに流れていた品々についてもくまなく見直して、従来通り行き届くよう調整していかねばならないのさ。とはいえ伯爵はくしゃくらも忙しく、正直そこまでの調査にはなかなか手を回してもらえないんだがね…。」



 ロキシーはルーシーの独り言のような業務事情を茫然ぼうぜんと拝聴していたが、徐々にその雲行きが怪しくなってきていることを察し始めていた。



「研究熱心な伯爵はくしゃくは海外からも栄養剤を取り寄せていたらしいのだが…流通網の厚いソリス港経由ではなく、以前から態々わざわざ輸送費用を余分にかけてまでメンシス港から買っていたそうなんだ。陸路では確かにメンシス港の方が近いだろうが、総合的な費用対効果を勘案するならソリスから買った方が断然安上がりだ。メンシスに贔屓ひいきにしている商人でもいるのかもしれんが…。」



 食べかけのリンゴを支えるロキシーの両手は、少しずつ汗ばんできているようだった。



——嫌な予感がする。思い返してみれば、大陸軍がこれほど深くセントラムの流通事情に介入してくることなんてなかった。この人は昨今さっこんの社会情勢を逆手にとって、この邸宅に探りを入れようとしているんじゃ…?


 

 そうして間もなく自分に降り掛かるであろう嫌疑を予見できているのに、ロキシーは見えない何かに巻き付かれ拘束されているかのように身動みじろぎ一つ叶わなかった。



「実はメンシス港は密輸品が多くまかり通っていたことでも知られていてね…フォンス伯爵はくしゃくが買っている栄養剤の中にも、が混在しているという噂があるんだ。違法薬物というやつだね。…ロキシー、使用人の君は何かそういう怪しい物を見かけたことはないかい?」




 ルーシーの黄金こがね色の瞳が再び呑み込むように迫り、ロキシーはまさに蛇ににらまれた蛙と化していた。

 露骨すぎる詮索せんさくに、まるで何もかも見透かした上で言質げんちを取ろうとしているように思えてならなかった。



——私、怪しまれているの…? いや、大丈夫、こんな私的な問いかけに否定したとしても、後で何もとがめられるいわれはないはず…。



 おのが身を護ることで必死だったロキシーは困惑した表情を取り繕い、小刻みに首を横に振るってこたえた。

 はたから見れば一介の若き使用人が、伯爵はくしゃくの隠し事を知る由もないだろうと捉えてくれることを切望した。


 何より、母レピアからは当の薬物について絶対黙秘を命じられていた。



「…そうか。いや、物騒な質問をして悪かったな。…やはりこういう話は、君のお母様にこっそりおうかがいを立てた方が良さそうだな。」



 半笑いを浮かべながら改めて邸宅の方を眺めるルーシーに対し、緊張から解放されたはずのロキシーの内心はまだざわめいていた。

 そしてはやるあまり外部者に本当の姓を名乗ってしまった事実を、今になって後悔していた。



「だがこれは決して冗談半分という話ではないんだ。メンシス港が突然機能を停止したがゆえに、流れ着いた密輸品を取り締まることは困難になってきている。大陸議会側の捜査体制が確立されるまでに、証拠隠滅をはかる十分な猶予ゆうよが生まれてしまっているんだ。」


「取締対象として列挙されている違法薬物は十数に上るが…特に問題視されているものの1つは『ミシェーレ』と呼ばれている薬だ。俗に言う、事前避妊薬ってやつだよ。」



 ルーシーは改まってロキシーに探りを入れるわけではなく、再び世間話を言い聞かせるようにしゃべり続けていた。


 しかしえて『ミシェーレ』を話題に掲げること自体に明確な意図を感じ、ロキシーはいまだににらみをかせられているような気がしていた。てのひらが更にべたついてきているのがわかった。



「別に事前避妊そのものの是非が議論されているわけじゃない。『ミシェーレ』の問題点は2つある。1つは確実性の高い避妊効果ゆえに、繰り返し乱用することで妊孕性にんようせい自体を喪失する危険性があること。もう1つは、服用者が一時的な昏蒙こんもうおちいることだ。」


「これらは副作用の定義を最早もはや逸脱いつだつしている。簡単に言えば女性の思考力や抵抗力を奪って男に都合の良い性交渉を実現させる、非倫理的で不道徳で最高に反吐へどが出る薬というわけだ。」




 ロキシーはまるで説教を聞かされる子供のように、目を伏せて沈黙していた。


 『ミシェーレ』による妊孕性にんようせいへの影響は知らなかったが、昏蒙こんもうと呼ばれる症状については最早もはや日常茶飯事さはんじの体験であった。


 全身がほてり、思考がにぶって何もかもどうでも良くなり、されるがままになる。

 それはそれで不快感や羞恥しゅうち心を有耶無耶うやむやにさせる都合の良い効用なのだと、やがて自分を納得させていた。



——それもまた務めだから、仕方ないことなの。そうすればいわくつきの私も母も、路頭に迷わず温かな寝床ねどこと満足な食事を与えてもらえるから。


——それが客観的に見ていかに非倫理的で不道徳であったとしても、そういう愚かしい手札しか持ち合わせていないというさもしい現実を、この気高そうな隊長さんは同情してくれるのかしら。



 一方のルーシーは、うつむかすかに身体を震わす若き女使用人を見下すと、その心証を推し量ったのか話題を転換して見せた。



「ロキシー、君は使用人だが奴隷ではないだろう。ゆえにちゃんと人間としての尊厳と権利が国の憲法で保障されている。君の目には、女性より男性の方が遥かに強い権利を持っているように見えているのかもしれない。それでも確かに、人間として男女は対等で平等の権利を持っているという理念があるんだ。」


「…いまから千年ほど前、この地に隕石がちて、ラ・クリマスの悪魔が女性に顕現するようになってからな。」

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