第3話 2つの毒

 だがカーテンを閉めたことで薄暗くなった室内を振り返ると、ソファではまだカリムがかすかにあえぎながら身悶みもだえていた。


 確かに男性を即死させるだけの毒を、接吻せっぷんを通じてより直接的に盛ったはずのロキシーは、予想だにしない青年の抵抗に驚愕を隠せなかった。



 毒を生み出すための嫌悪に似た冷たい感情のたかぶりも確かに覚えがあり、してや加減をした自覚もなかった。

 全身が激しくしびれて痙攣けいれんし、呼吸すらできなくなって間もなく死に至るという症状も、間違いなく引き起こすことが出来できていた。


 それでもなおカリムは、口元から泡を吹き出しながらも体勢を起こそうとその身を震わせ、血走ったままの瞳でロキシーを睨み付けていた。

 その執念深い蛇のような視線にロキシーは思わずたじろぎ、ひたいっすらと冷や汗を浮かべた。



——どうしよう、もっと強めて毒を盛るべき? でもこれ以上に強くすることなんてできるのかしら? そもそもどうしてあの人はこんなに耐え続けていられるの…?



 ロキシーは思わず口元を両手でおおい、思考がまとまらず込み上げる焦燥しょうそうを抑え込もうとした。

 

 だが不意に、何か現状に相応ふさわしいような表現が直近の会話から想起され、本当に息が詰まりそうになった。



『もしかしたら天性の耐性があるのかもしれないですしね。』



 青年が不用意に発したとおぼしき言葉が、そのときロキシーの心の中でいとも容易たやすに落ちた。


 合点がいくというより、思えてしまった。


 ロキシーは口元から両手を放してゆっくりと息を吐くと、身体の緊張を和らげると同時にそれまでとはまったく別の思惑を生み出すに至った。



——私ってば、過剰に神経質になっていたみたい。まだあの人が本当に私をおびやかす存在なのか確証もないのに、詮索せんさくを恐れるあまり安易に命を奪おうとしてしまっていた。


——でもそんな私のあやまちを…きっとあの人は必死に受け止めてくれているんだわ。


——近付いた人がみな私の毒におかされていく、そんな体質になってしまった私のかたわらに唯一立ち並んでくれる…あの人はもしかしたら、そんな稀有けうな存在なのかもしれない。こんな私を連れ出して、ゆるして、救い出してくれる人なのかもしれないわ。



 ロキシーは深いすみれ色をたたえた瞳を輝かせ、先程まで早まっていた胸の鼓動とはまた違った高鳴りを感じ取っていた。渇いていた唇が徐々に潤いを取り戻していくのがわかった。


 そしてソファの上で全身汗だくになりながらうつぶせにあえぐカリムの元へ静かに歩み寄ると、その上から抱き付くように自らも身体を重ねた。


 ロキシーの身体からあふれ出す毒がカリムを抑え込むように包むと、痙攣けいれんしていたその身は一転して弛緩しかんし、柔らかなソファにうずもれていくような脱力感で満たされた。


 

 間もなくしてカリムが力無くまぶたを閉じるのを確認すると、ロキシーは身体を起こしてしばしの間青年の寝姿をぼんやりとながめていた。

 


 だがこのままではカリムが風邪を引いてしまうと思い我に返ると、ぐに立ち上がってその汗をぬぐうためのタオルを探しに部屋を出た。


 また一段と高鳴る胸の鼓動が沈黙に満ちた邸宅に響くようで、ロキシーはくぐもった笑い声を抑えきれずにいた。





 カリムは、昏倒する前よりもさらに暗い部屋で目を覚ました。


 どれくらい時間が経ったのかわからなかったが、なんとなく夜になっているのではないかと推測した。


 脳内がしびれ、まぶたが重い。上手く発声ができずかすれた呼吸音が口元からこぼれた。

 身体はあたかも人形とげ替えられたかのように全く動かすことが叶わなかった。しびれているというより、神経が途切とぎれているような感覚だった。



 だが、全身が柔らかく温かいものでくるまれている感触は理解することができた。おぼろげな思考のなかでも、それが上等なベッドの中だと推測することができた。

 皮肉にも何故なぜか下着以外を身に付けていないことによりもたらされる肌触りが、その推測の確実性を高めていた。

 

 そして続け様に、別の更に生温かい何かがカリムの右半身に絡み付いていることを認識した。



「…ふふ。ようやくお目覚めになりましたか、カリム様。」



 今は亡きフォンス伯爵はくしゃくの個室には、豪勢な天蓋てんがい付きのベッドが備え付けられていた。

 そのベッドの中でカリムは仰向あおむけで横たわっており、右側では1日の仕事を終えたロキシーが添い寝をしていた。


 彼女は白地の所謂いわゆるベビードールのみを身にまとっていたが、透明度が高くほとんど裸同然であった。その上でそのよわいに似合わぬ恵体めぐたいを青年の身体に惜し気もなく押し付け、絡ませていた。



 カリムがかすかに身震いしっすらとまぶたを開いたことに気が付くと、ロキシーは顔を上げてカリムの右耳に甘ったるい声音でささやきかけていた。

 壁のあかりに照らされたその表情は微睡まどろみに似た妖艶ようえんな笑みを浮かべており、すみれ色の瞳が燦々さんさんきらめいていた。



「カリム様。突然あのような凄惨せいさんな目にわせてしまったことをお許しください。…そのお詫びに、私がしっかりとお世話をさせていただきますから。」




 ロキシーはカリムの右肩に頬をり寄せながら、胸板をそっと指先でで回した。細身に見えて意外にも鍛えられしまった青年の身体が新鮮で、今にも包み込まれたいという衝動にられていた。


 だが毒におかされたカリムの身体は当面の間自由がかず、退屈を持て余すロキシーの指先は、カリムの首に掛けられている2つの銀札をいじり始めていた。


 カリムの汗をぬぐう際にていよく身包みぐるみをいでしまったが、青年が大切そうに身に付けていたこのわびしい装飾品だけはそのままにしていた。



 2つの銀札にはそれぞれ名前が刻まれていた。1つ目は『カリム』と記されており、この青年の本名を裏付けていた。


 2つ目は『リオ』と記されていた。恐らく女性の名前だろうが、恋人同士で身に付けるおそろいの装飾品のようには見えなかった。

 仮に恋人同士だったとしても、それが過去のものであることは想像にかたくなかった。



——大分だいぶび付いているけれど、この人なりに丹念に手入れしているのかもしれない。それくらい古くて、大事にしていた存在なのかしら。



 そのとき、ロキシーはカリムの胸板の上で動く影を認識し思わず息を呑んだ。


 まだ毒がめぐっていて身体の自由がかないものと踏んでいたのに、カリムの左手がゆっくりと迫ってきていた。

 かすかにあえぐようにこぼれてくる吐息からも、その銀札には意地でも触られたくないと訴えていることは容易に察することができた。


 ロキシーはカリムの想像を絶する抵抗力にひるみながらも、迫り来るその手に自分の右手の指を絡ませて反対側へ押し倒した。

 その過程ではまったく反発するような力は感じられず、青年の抵抗は呆気あっけなくくじかれていた。



 ロキシーは横たわるカリムの上にやや身を乗り出す形になり、その引きった表情をじっくりと見下ろした。


 開き切らないまぶたの奥では確かに彼女を嫌悪し歯向かおうという強固な意志を感じて取れたが、ロキシーはそれすらも呑み込むように顔を近付け、カリムの狭い視界を垂れ下がる長い髪でおおい尽くして問いかけた。



「どうしてカリム様はそんなに私の毒にあらがえるのですか。『天性の耐性』というのは、カリム様御自身のことを指しておられたのですか。…確かにそう考えれば、伝染病の症状を知ったうえで男性である貴方あなた様がお見えになることにも納得がいきますけどね。」



 くらい視界の中ですみれ色の瞳だけがあやしい輝きを放ち続け、最早もはや隠し事をする必要がなくなったロキシーは微笑を浮かべて更に語りかけ続けた。



「…もう言わずともおわかりですよね。この街の『魔性病ましょうびょう』の正体は私から漏れ出す毒です。当事者になってみて、何故なぜ魔性病ましょうびょう』と呼ばれる流行はやり病が大陸東部で散見されるのかよくわかりました。」


「東部は比較的治安が良くない地域ですもの、節操がないいやしい男性ばかりなのでしょう。『魔性病ましょうびょう』はそんな男性を一様に拒絶するものなのですよ。…人体に影響がある以上、かれる毒は女性や子供にも支障をきたしてしまいますが。」



 長い髪でおおわれた闇の中で吐息がこもり早くも蒸れだしていたが、ロキシーの口からは止めなく言葉があふれ出ていた。



「でも街の住民の皆様みなさまには本当に申し訳なく思っているのです。かかわりのない方々にまで無差別に被害を出してしまった…あのときの私は気が動転していて、自分が毒をき散らせているなんて思いもしなかったのです。ただ只管ひたすらに、自分の仕業が恐ろしかった。」


「そのむくいなのでしょうか、毒が際限なくあふれていくに連れ、私は少しずつ生気を喪失していくようでした。昔から『魔性病ましょうびょう』は数日で沈静化すると聞き及んでおりました。それがどういう意味なのかみ締め、受け入れていたつもりでした。…今日、カリム様がお見えになるまでは。」



 ロキシーはその台詞せりふののち、両腕をカリムの脇から背中にわせて再びその恵体めぐたいを重ね、瑞々みずみずしい肌を馴染なじませるように静かにり寄せた。


 そして今度はカリムの左側に顔を並べて、ささやくような嬌声きょうせいで耳元に語りかけた。



「私はカリム様を愛することにしました。私の不埒ふらちな毒を受け止めてくださったカリム様にむくい、奉仕すべきだと考えました。」




 ロキシーはっすらと頬を紅潮こうちょうさせながら、その告白と共にくすぐったいような吐息を吹き掛けた。



「そう思うと、今までとは違った心地良い毒があふれてくるのです…恣意しい的な攻撃のためではない、ただ1人に安らぎを与えるための毒が。それが私にいまかつて体感したことのない高揚を生み出したのです。」


「しかしこのような一方的な愛情をきっとカリム様はお受け入れ下さらないでしょう。ですから、カリム様が満足されるよう身も心も尽くして差し上げます。これから昼も、夜も、いつでもカリム様をいやして差し上げます。それこそが私の…唯一の存在価値なのですから。」



 その宣言ののち、ロキシーは愉悦ゆえつと自虐が入り混じったような小刻みな笑いをこぼすと、遠くをながめるような目をしてカリムに語り聞かせ始めた。



「5年ほど前からでしょうか…私が毎晩このベッドで伯爵はくしゃく様の夜伽よとぎに従事するようになったのは。…ああ、伯爵はくしゃく様だけではないですね。沢山たくさんの客人様のお相手もしましたし、本邸にいらっしゃった息子様の筆下ろしもお務めしました。…ふふふ…信じられないでしょう? でもそういう現実がこの世界には確かに存在するのですよ。」


「ですがもっと信じられないのは、私がその間一度もはらんだことがないことでしょう。そういう体質なのかはわかりませんが、薬を夜伽よとぎの度に服用していたことはまぎれもない事実なのですよ。」



「その薬はこの大陸では表立って流通していない、所謂いわゆる密輸品なのだと思います。私は当初、カリム様がその違法な薬を使用した痕跡を明らかにするため、伝染病の調査を建前に来訪されたのだと思い込んでいました。」


「…何故なぜなら、カリム様を派遣するという伝書をしたためられた御仁ごじんは先日当邸宅にお見えになり、その薬についての疑惑を私に直接尋ねてきたからです。」

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