第3章 湿る大岩桐草
第1話 寂然たる館
女使用人ロキシーの朝は早い。
ここ数日で身体に
胸元の露出した黒地のエプロンドレスに着替えて長い藍色の髪を手早く整えると、部屋を出て廊下の窓を開けて回った。
そしていつものように玄関口を掃除し、広々とした庭園の管理に従事した。ここ数日は来客がないが、庭園は領主の威厳や品格を表象するものであるからして、手を掛ける優先度は高いと考えていた。
それが一段落つくと、邸宅裏手にある
ロキシーは新たに届いていた数件の伝書を回収すると、厨房に立ち寄って簡単な朝食をとりながらその中身を
そうしてまた次の仕事に取り掛かる…のだが、今朝は珍しく大陸平和維持軍から使用人長に
ロキシーはその文面を流し読みしていたが、末尾に記されていた差出人の名に思わず目が留まった。
『フォンス邸
使用人長 レピア・アルクリス殿
拝啓 先日セントラム一帯で発生したという不可解な伝染病において、領主を務められていたクレオ―メ・フォンス
現在もセントラムでは感染の拡大が続いていると聞き及んでおり…(中略)…新たに出動する救援部隊と
このような状況下で大変
伝染病の早期収束のため、当方としても引き続き尽力させていただきます。 敬具
ラ・クリマス大陸平和維持軍 国土開発支援部隊
第1部隊長 ルーシー・ドランジア』
その肩書と名前を名乗る女性は5日前に部隊を引き連れてフォンス邸
彼女は
伝染病がセントラムで発生したのはその翌日からであり、領主であるクレオ―メ・フォンス
その事実は駐屯している大陸軍が放った
だが知られ渡ったのはその事実のみであり、伝染病について調査する者に協力するよう
領主が病死した緊急事態ならば、部隊長の権限でも行使して使用人長には調査を承知させるだけで充分なはずだからである。
ロキシーにはこの書面が、まるで伝染病の調査に
当時差出人の建前の姿しか見ていなかったであろう使用人長に、その
——どうしよう。きっと大陸軍は私達の秘密に近付くつもりなんだ。それを暴かれたら……きっと生きた心地なんてしないわ。
だがその一方で、ロキシーはこの邸宅に留まり続ける動機が
物心付いた頃からこのフォンス邸
自分はずっとこのままなのだろうかという虚無感を
——それでも、いま私のやるべきことは変わらない。
ロキシーは冷めてしまった紅茶を飲み干すと、伝書に記された調査員が訪れるまでに片付けるべき業務に取り掛かることにした。
ラ・クリマス大陸中央部のプディシティア州は、北部山脈から南方へ突き出るような
特に
その原因は気候条件に
それでも若くして領主の座を継いだクレオ―メ・フォンス
地元の果樹園の娘と婚約し
小高い丘に建つフォンス邸
そのセントラムを、
その病状は全身の
成人男性がとりわけ重症となる傾向にあり、
一方で女性や子供は比較的軽症であったものの、満足に身体を動かせる者が多いわけではなく、大陸軍を
そんな不気味な状況が続くセントラムは、上空を分厚い霧で
午後になると沈黙する街中で、フォンス邸
成人男性を中心に病に
ロキシーは廊下の窓辺からその様子を視認すると、来客を迎えるために玄関口へと移動した。
何気なく邸宅内での仕事に従事しながらも、セントラムで広がる不可解な伝染病について聞き及んでおり、その
だからこそ、馬車を伴って
「こんにちは。大陸議会より命を受けて
朱色を基調としたシャツの上に、議会所属を表すバッジを留めた黒地のチョッキを
口元はせめてもの感染予防のつもりか、バンダナのような布地を巻いて
その外見は、事前に一報を受けていなければ怪しげな行商と
とはいえロキシーも長い髪を結わえたり
その通りの性格も
その感情をどうにか押し殺しつつ、ロキシーは小さく礼を返して
「…使用人のロキシー・アルクリスです。本日は遠路
そして静かな
ゆっくりと玄関の扉を閉めた。邸宅内の沈黙を破ることのないよう足を進め、カリムを客間へと案内した。
派手さのない比較的落ち着いた内装に、柔らかそうな生地のソファがローテーブルを挟むように2台置かれており、開け放たれた窓の奥では造形の美しい裏庭が広がっていた。
ロキシーはカリムをソファに座らせると、
「ああ、ありがとうございます。」
カリムはそう
「…あの…もしかして、紅茶は苦手でしたか?」
「いえいえ、とんでもない。多少猫舌なだけですよ。」
苦笑いを浮かべて答えたカリムは、若き女使用人から
「まぁ、奇妙に思われて当然ですよね。いまセントラムに広がる不可解な伝染病は男性の方が重症率は高いというのに、それを知っていながら派遣される調査員もまた男だっていうんですから。僕は元々大陸議会の事務官なんですが、実態としては雑用みたいなもので…正直気が重いんですが、やることはやらなきゃなんで…どうかご協力お願いします。」
座ったままもう一度深々と
「ところで…使用人長のレピア・アルクリス様はどちらに?」
カリムは気を取り直して仕事を始めようと言わんばかりに、準備をしながらロキシーに問いかけた。だがロキシーは少し言いにくそうに、首を小さく横に振ったのち回答した。
「…使用人長は、例の感染症に
「えっ!? それじゃあ、他の使用人の
「…女性の使用人は
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