第7話 まぼろし

 浮遊したリリアンは再び竜巻を構成しながら、草臥くたびれた人形のような刺客しかく胸座むなぐらを握り締めたまま、冷たく見下しののしった。



「本当に愚かな身の程知らずね。厄災に歯向かうことがどういう意味かわかる頃には、あんたの命なんてうに消え失せているのに。あたしの気に触れないまま静かに生かしてくれれば、恐ろしい厄災なんて二度も生まれないのに。 」



 刺客しかくは何ら反応を返すことはなく、無機質な仮面の裏では失神している可能性もあった。


 だが確かに聞こえているはずだとリリアンは確信し、蓄積していた鬱憤うっぷんをここぞとばかりに吐き出すように、語気を強めて主張を振りかざした。



「あたしはねぇ、ただ平穏な人生を送りたいだけなんだよ! 腐った世界から隔絶されて当たり前に恵まれた毎日を享受していた…ネリネのように。ほっする物が与えられて、ほっするままに生きられることが人間としてのこの上ない幸せだろう? 誰だってその幸せを望んでつかもうとする権利くらいあるだろう!?」


「でもあたしには生まれてこの方そんなものはなかった! 海賊団の首領の下に生まれたその時点で堅気かたぎとは程遠い存在で、その親も早々にって、腐った世界に縛り付けられたあたしにとって、人並みの幸せがどれだけまぶしい夢物語だったか、あんたに想像できるの!?」



「だからあたしは、全部忌々いまいましい海賊も、愚かなあたしの存在も、けがれたあの港町も。…そしてあたしは、。腐った世界とは無縁の、平穏でさらなネリネの人生を、あのの代わりに続けていくために!! 」


「そのための力が、あたしに宿ったんだよ!! だからそれを邪魔するやからは、誰だろうとゆるさない!!」




 羨望せんぼうを重ねた他人に成り済ましてその人生を乗っ取り、その障害となる一切の存在を拒絶し吹き飛ばす。それが伝承されるラ・クリマスの悪魔が一体、『虚栄の悪魔』であった。



 元よりリリアンはネリネに対し、何の殺意も抱いていなかった。


 だがメンシスの竜巻被害から一夜が明け、海岸で意識を取り戻したリリアンは何故なぜかネリネが着ていたはずの衣装をまとっていた。

 その後周囲の者もこぞって自分をネリネと呼び接する様をの当たりにするにつれ、みずからに宿った悪魔の力の本質を本能的に理解するに至った。


 なおかつその力をもって、利用できるあらゆる手段を用いて、使命を背負うかのようにおのれの生きるべき新たな道を見定めていた。



「…もう二度とネリネの生涯に泥は塗らせない。血飛沫ちしぶきの一滴すらその身にかぶるわけにはいかない。だからあたしの正体を知るあんたは…水平線の先までぶっ飛ばしてやる!!」



 リリアンは遠くきらめく海の果てをにらみ付け、周囲の風を一段と強く巻き上げた。その快楽にも似た轟音ごうおんは、メンシスを無差別に蹂躙じゅうりんして回った記憶をおぼろげながら呼び起していた。


 罪悪感など欠片かけらもない、欠片かけらも生じないような正当性を捏造ねつぞうして、また1人の他人ひとの存在をのだと強く言い聞かせた。

 今にも胸座むなぐらつかむ左手を放せば、この刺客しかくは布切れのようにくらい空へと吹き飛んでいくだろうと不敵な笑みを浮かべた。



 だが、すんでのところでリリアンは不穏な違和感をいだいて、その左手をより一層固く握り直した。

 虚実に正当性を宿すことは生温なまぬるわざではないはずなのに、それがいとも容易たやすく許されているような気がした。



——本当に刺客しかくは、こいつ1人だけ?


——よく考えれば、いかに大陸議会や軍が用意周到だとしても、メンシスの竜巻被害があった翌日にあたしをおとしめるような罠を丹念に仕込めるとは思えない。けれど、こいつが何も知らず単独で厄災に挑んで来るとも思えない。


——絶対に別の刺客しかくひそんでいる。あたしの力もそのうち限界が来る。こいつを消したとしても、別の奴にその隙を突かれるかもしれない。…そのときは風を起こせないどころか、ネリネの外見を保つこともままならないかもしれないんじゃ…?



 その懸念けねんとともにリリアンが刺客しかくを改めて見下すと、力なくれ下がっているような右腕の先で、いまだに槍のような武器が握られ続けていることに気付いた。



 だがよく見ればそれは槍と呼ぶには短く、先端には鉱物のような何かが着装されていた。黒い鉱物のそれは刃物のような鋭利さはないにもかかわらず、これ以上近付けば吸い込まれてしまいそうな本能的な忌避きひ感をリリアンにいだかせた。


 そして刺客しかくはその武器のつかを、丈夫なひものようなもので右手に固く縛り付けていた。

 これだけはどんな暴風でも手放すことのないよう対策していたことは明白であり、その事実がリリアンの逡巡しゅんじゅんを更にもつれさせた。



——こいつの本当の狙いは、この妙な武器を使ってあたしを仕留めること?


——それならナイフで右手のひもを切ってしまえば…でもいまの姿勢からのそれはあからさまなうえに難しい。いっそのことこいつに切らせて武器を捨てさせ、身包みぐるみをいで人質に取るか? …いや、みずからナイフを手に取るとは限らないし、同じ武器が複数存在するのなら脅迫の意味も……?




 そのとき、やや外側に向いていた謎の武器の先端が弾けるような火花を放ち、蒼白あおじろい炎を盛大にき散らした。



 炎は逆巻く風にって拡散し、竜巻は一瞬にしてあおき火災旋風と化して、内側に漂う2人へとおおかぶさった。



「ちょっ!? ……なに…これっ!?」



 すさまじい熱波がリリアンをつぶすように襲い掛かり、髪やドレスがたちまち焼き尽くされそうになった。

 


 たまらず維持していた風の束を発散させて、リリアンは蒼炎そうえんの牢獄からその身を即座に解放させた。

 だが悪魔の力を断ち切り上昇気流を失ったリリアンは、さかさまに雑木林へと墜落した。


 真下に風をぶつけて自由落下を軽減しなければならなかったが、予想だにしない刺客しかくの反撃に思考判断がまとまらず、そのまま林の海へと呑み込まれていった。





 静まり返った雑木林の中で、荒々しく茂みをき分ける音が響いていた。


 リリアンはり傷だらけの身体を強引に動かして、ドレスのすそがあちこち破れることもいとわず、ひたすら一方向へ逃走を図っていた。



——ああもう…! 何だったんだよあの青い炎…! 最初からあの展開も織り込み済みだったっていうの…!?



 現在の時刻は不詳であったが、リリアンは壊月彗星かいげつすいせいの見えた位置がおおよそ南西であると仮定し、これと反対方向に進めば少なくともメンシスには近付くはずだと推測していた。


 当初の計略とは相反あいはんしてしまうが、今となってはエクレット家の従者らにすがっておのが身を保障してもらうしかないと判断した。

 最早もはやネリネの外見を維持できているかどうかも疑わしかったが、それを意識する余裕すらなかった。



——道中で馬車が事故にったとでも言えばいい……とにかくあたしは…諦めない……諦めたくない。ネリネとして…これからを生きることを……!



 メンシスまでどれだけの距離があるかわからないが、周囲に刺客しかくが潜伏している可能性がある以上、足を止めて休息する選択肢はなかった。



——お願いだから、もう誰もあたしをとがめないで…! あたしはただ、何にもさいなまれない明日が欲しいだけなんだよ…!!



 その切望だけを活力に、リリアンは力強く握り締めたナイフを無我夢中で振り回して道を切りひらいていった。


 このナイフは父の形見でもあった。海賊団に拘束された際に取り上げられてしまったはずだったが、翌朝海岸で目覚めたリリアンのかたわらに不思議とそのナイフも漂着していた。


 もしこの世界に神が存在するのなら、そのナイフを携えてこの理不尽な世界を生き抜くように天啓てんけいが示されたのではないかと信じ込んでいたことを、不意に思い出していた。



——本当に馬鹿な話。…神なんて普段から信じていない癖に、都合の良いときだけかこつけようとするのだから。




 意識が徐々に朦朧もうろうとしていくなか、息もえに茂みをき分け続けていたが、リリアンはやがて少し開けた広場のような空間に辿たどり着いた。



 中央にある池は澄んだ水をたたえており、水面みなもには壊月彗星かいげつすいせい綺麗きれいに映し出されていた。

 街道らしき道はだ見えてこないが、一先ひとまず水分を補給するべきだと判断し、リリアンは池のふちにへたり込んでその表面をすくおうと身をかがめた。



 だが水面みなものぞき込むリリアンのかたわらには、純白のドレスをまとった少女がたたずんでいた。



 何の気配もなく突如とつじょ映し出されたその姿に目を疑ったリリアンは、のどの渇きを忘れて恐る恐るその人物に視線を移した。

 

 壊月彗星かいげつすいせいに照らされたその少女は、確かに自分が羨望せんぼうを重ねた身形みなりをしていた。



——嘘…ネリネ…? 生きていたの…?



 容姿は間違いなくネリネであったが、その表情は何の感情もたたえていないという点で、リリアンは本物のネリネかどうか見極めかねていた。


 そして本物のネリネが生存していたとしたらよろこばしいことなのか、それとも不都合なのか、憔悴しょうすいした思考回路では何の結論も導けず、ただ押し寄せる混乱の波に溺れていた。


 ネリネの死をこの目で直接確認したわけではないが、何故なぜここにたたずんでいるのかわかるはずもなかった。最早もはや何かを考えることすらもできなくなりつつあるような気がした。



『…ねぇ、貴女あなたはどうして私の格好かっこうをしているの?』



 不意に、ネリネの声が聞こえた。

 

 無表情の口元が動いたようには見えなかったが、聞き慣れた透き通った声音がリリアンの脳内に確かに響いた。

 いな、透き通りすぎておぞましく感じるくらいの冷たい何かが、頭の中で不気味ににじみ、思わず震え上がった。



『何のために私の格好かっこうをしているの?』



 沈黙を許そうとしないように、立て続けに冷たい問いかけが脳内に反響する。

 

 リリアンはネリネのうつろな表情に釘付けになりながら、乾いた口からかすれた返事を絞り出した。



「あたしは…貴女あなたのために……終わったと思っていた貴女あなたの平穏な人生を続けるために……!」



『それなら、貴女あなた格好かっこうは誰がするの?』




 リリアンの答えを最後まで待たずに、更なる無機質な問いかけが降りかかってきた。


 その内容におくしたリリアンは尻餅を付いたまま後退あとずさり、ネリネに向かって思わずナイフをかざした。



「…あたしはもうらないの…居なくてもいいの…居なくても誰も困りやしない…! 、ネリネもずっと純真なままで…!!」



『それなら、貴女あなたはどうしてそのナイフを捨てないの?』



 その右手を何か冷たい物できつくつかまれたように、震えが止まらなくなった。


 それでもリリアンはナイフを落とすことがなかったが、代わりにその右手以外の全身が徐々に崩れ落ちていくような錯覚におちいっていた。



——どうしてって…これは単なる護身のためで……あれ…ネリネはそもそもナイフなんて持ってないんだっけ? ……でも、それじゃあ……。



貴女あなたは、私のまぼろしにすられない。』




 そのとき、崩れ行くリリアンを押し支えるように背後を棒状の何かが小突いた。



 その先端に着装された黒い鉱石はリリアンの全身に温かい波動を送り込み、柔らかく浮き上がらせるような感覚をもたらした。



 リリアンは振り返ることなく、自分は結局刺客しかくにやられてしまったのだろうとっすら自覚しながらも、逆巻さかまく衝動から解放されたことでとろけるような心地良さに包まれ、抵抗する意思は間もなく霧散していった。

 

 そして背後にあてがわれた鉱石に誘引されるように、憧れた純白の令嬢の姿が徐々にかすんで遠くなっていった。


 かざしていた右手は強張こわばることなく、むしろ本当に告げたかった離別の想いを送り届けようとしていた。



——ごめん、ネリネ。…あんたの人生を奪ってしまって…ごめんね……。


——ああ……もっと違う形で……あんたに会えていれば……よかったのに…。





 鏡面のような静寂せいじゃくたたえた池に、にぶい音が響いて波紋が広がった。1本のナイフが、くらい闇の底へと沈んでいった。



 やや焦げ付いた紫紺しこんのローブを羽織はおった何者かが、ぼろぼろになった薄桃色のドレスを拾い上げながらゆっくりと立ち上がり、何かをいぶかしむように辺りを見渡した。


 壊月彗星かいげつすいせいが照らすその小さな広場には、他に一切の人の気配はなかった。

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