第5話 鳥籠


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「なんだかお疲れのようですね。これを食べて元気出してください。」



 穏やかで透き通った声音に気が付くと、視界には綺麗きれいに切り分けられたリンゴが並べられていた。



「ああ、これはどうも…。」



 戸惑いながらも小さなフォークを手に取り、一切れに刺して口元へと運んだ。

 

 一口かじるとたちまち心地良い酸味が疲弊ひへいしていた脳内を刺激し、不思議と全身に活力がみなぎっていくような気がした。

 たまらず残りを口に放り込むと、かたわらで侍女が持つ皿に盛られた別の一切れへ立て続けにフォークを向けようとした。


 だが向かいの席に座るネリネがその様子を見てしとやかに微笑ほほえんでいることに気付くと、恥ずかし気に苦笑いを浮かべた。



「そんなに美味しいんですね。ユーリさんに召し上がっていただけてよかったですわ。」




 この日もヴァニタス海賊団の首領リリアンは、長い黒髪のウィッグと伊達眼鏡を身に付けたアルケン商会のユーリとり、エクレット邸にて領主の令嬢ネリネとの偽りの談笑の時を過ごしていた。

 穏やかな陽気に包まれた邸宅の庭園はかぐわしい花々で彩られており、天国が存在するならばこういう風景なのではないかと常々感じていた。

 

 だがその日は珍しいことに、お茶菓子に加えて瑞々みずみずしい果物が用意されており、『ユーリ』はそのことについて早速さっそくネリネへ話題を持ち掛けた。



「このリンゴはどうされたのですか? お父様が良い買い物をなされたとか?」



「頂き物ですよ。大陸軍の国土開発支援部隊…? なる方々が今朝方けさがたお見えになって、お土産みやげ頂戴ちょうだいしましたの。お父様にご挨拶あいさつに見えるメンシスの商人の皆様にもよろしくお伝えするように…とのことらしくて、是非ユーリさんに召し上がってもらいたくて。」



 ネリネはかすかに目を泳がせ、発言内容に相違がないかどうか、ユーリのかたわらに立つ侍女の表情をうかがいながらゆっくりと答えてみせた。


 一方のユーリはネリネのつたない受け答えに微笑ほほえましく相槌あいづちを打っていたが、その内心では微温湯ぬるまゆに浸かったような彼女の性分しょうぶんを密かに軽蔑けいべつしていた。



——ネリネは両親に溺愛できあいされた箱入りの令嬢だ。どのような教育を施されているのか詳しくは知らないけど、大陸軍の編制すら知識として曖昧あいまいなどころか、恐らくメンシスがどんな闇を抱えた街なのかも理解していないのかもしれない。



 そして上等な紅茶をすすりつつ、ネリネの辿々たどたどしい台詞せりふを苦々しく咀嚼そしゃくしていった。



——国土開発支援部隊は主に貧困地域への物資配給などを担っているけど、れっきとした大陸平和維持軍の一部隊だ。彼らは大陸議会の関税法に係る特措法の成立を受けて、メンシスの領主であるエクレット伯爵はくしゃくを訪ねてきたのだろう。


——『』とはどういうことか、それに関して今まさにローレンがアルケン商会代表のケイジュとして伯爵はくしゃくと何を交渉しているのか、このは知る由もないのだろう。



「…ところでネリネ嬢様、お似合いだった鉱石のペンダントを今日は身に付けておられないのですね。」



 ユーリはネリネの飾り気のない胸元に気付くと、また新たな話題にして問いかけた。



「ええ。気に入っていたのですが、別の新しいものを買ってやるからとお父様に取り上げられてしまいまして…何もそこまでする必要はないのに。」



——残念そうに顔を膨らます令嬢の素振そぶりからして、やはりその黒いペンダントが何の意味を持っていたのかさえ知らなかったらしい。グレーダン教信者でもないのに単なる装飾品として何食なにくわぬ顔で身に付けていたのだから、その想像は実に容易たやすい。


——その反面、父親の方は相当神経質になっているみたいね。




 このように令嬢の仕草や反応から、領主に付け入るための手札を生み出したり、メンシスの隠れた情勢を推察したりすることが、ユーリに課されていた使命であった。



 黒い鉱石をちりばめたペンダントはグレーダン教の信仰心を表すお馴染なじみの品だが、その鉱石は千年前に降り注いだとされる隕石を象徴していることから、一般に黒地であれば硝子細工がらすざいくでも構わないとされていた。


 そんななか、『本物の隕石を素材にあしらったペンダント』なるうたい文句の代物が、メンシスの闇市場で密かに取引されていた。

 の科学的な確証がない以上眉唾物まゆつばものであるが、成分的に希少な素材であればそれだけおのずと価値は釣り上がっていた。



——その取引がディレクタティオ大聖堂の焼き討ち事件以降、すっかり息をひそめたらしい。間もなくして大陸議会で特措法が成立し、ネリネはペンダントを取り上げられた。…やはりあれは相当焦臭きなくさい代物だったみたいね。



——ああ、こうして善良な商人の振りをしていると、焦臭きなくささを味わうどころかまるで底なし沼を漂っているかのような錯覚におちいってしまう。案外海賊とは、底なし沼を航行する存在と言えるのかもしれない…。




「…ユーリさん? …やはり最近はお仕事が大変なんじゃないですか?」



 反吐へどが出るような思案にふけっていると、ネリネが怪訝けげんな表情でのぞき込んできていたことに気付き、ユーリは思わず背筋を伸ばして何度目かの苦笑いでこたえた。



——あたしとしたことが、相当顔を曇らせていたみたい。…領主との商談を優位に進めるためにその一人娘と親交を深めているのに、何かいぶかしまれたり勘繰かんぐられたりされるようでは元も子もないじゃない。



「あはは…顔に出てしまうなんて重ね重ねお恥ずかしい。…どうかお気になさらず。」



「いいえ、私…羨ましいのです。…そんなユーリさんのことが。」



 すると唐突とうとつにネリネもかすかに頬を赤らめながら告白してきたので、ユーリは内心何事かと身構えた。



「私とほとんよわいも変わらないのに、アルケン商会の一員としてお金を稼いで船旅をしているユーリさんを尊敬しているんです。そんなに難しそうな顔をするのも、きっと沢山たくさんの世界を観てきているからこそですよね。本当にいつも冒険譚ぼうけんたんを聞いているみたいで楽しいんです。…でも私には、そんな表情はやろうと思ってもできません。」



「…ネリネ嬢様が、みずから気苦労を背負われる必要はないと思いますが?」



「それでは駄目なのです。そんなことでは…いつまで経っても貴女あなたと対等にはなれないのです。」



 ネリネの取り留めのない発言を前に、ユーリはどう対処すべきか思い悩み、困惑したような微笑を浮かべてしまっていた。

 突拍子とっぴょうし吐露とろの数々に理解が追い付かず、内心は苛立いらだちに似た困惑を制することで精一杯だった。



——あたしのことが羨ましい? あたしと対等になりたい? …このは一体どうしてそんな愚かしいことを急に言い出すの?



貴女あなたと時間を共に過ごしていると、鳥籠とりかごの中でさえずるだけの自分が不甲斐ふがいなくなってくるのです。でも…決して貴女あなたの生きる世界が綺麗事きれいごとだけでいろどられた場所でないことも、わかっているつもりです。」


「ですから私も商業や貿易について一から学んで…お父様のように一商人として自分の力で羽搏はばたけるようになりたいと、そして貴女あなたのことをもっと理解できるようになりたいと、日に日にその志が膨れ上がっているのです…!」




 ネリネの頬が更に赤みを増しているのは、きっと心に様々な感情が渦巻いているからなのだろうとユーリは見立てていた。

 令嬢との初対面から1年ほどが経過し、差しさわりのない付き合いをしてきたつもりだったが、ユーリが感じた以上に彼女へ与えた刺激は大きいものだったことを思い知らされた。

 

 その確かな心境の移ろいは、アルケン商会ならぬヴァニタス海賊団に利する進展と見なすべきか、過保護な両親と衝突する火種をもたらした失策と捉えるべきかはわからなかった。

 

 だがそれ以前に、ユーリがネリネに対していだく想いは微塵みじんにも揺らぐことはなかった。

 ユーリは短く咳払いをすると真剣な眼差まなざしを作り上げ、令嬢の覚束おぼつかない夢物語に真摯しんしこたえることを決めた。



「…ネリネ嬢様。商人はただ流通の仕組みを学んだだけでは足りず、してや物の価値を見極めたり相手の信頼を得たりするだけでもだ不十分なのです。」


「その土台に立って初めてお互いを利用し合うことで、そこに生まれる利益を最大化することが求められるのです。土台がひとしくなければ、利益をこぼさぬよう一方が他方を容赦なく犠牲にします。他方で土台が傾かないよう、自らの足場を補強する努力もまた常時徹底しなければなりません。」


「私が立つ場所とは、協和するようでそのじつ弱肉強食の、無慈悲で殺伐とした世界なのです。…それでもネリネ嬢様は、そのような世界に足を踏み入れたいとこいねがうのですか。」



 これはヴァニタス海賊団で事実上の指揮をるローレンの受け売りであり、恐らく亡き父がいだいていたであろう信条であり、ユーリ自身にとってはただの大言壮語たいげんそうごに他ならなかった。



——善良な商人をえがくにしては過言で辛辣しんらつな表現だろうけど、立っているのはそういう冷酷で醜悪しゅうあくで血も涙もない世界。


——そんな世界にあんたを一歩でも近付けるわけにはいかない。…何でもいいから、さっさと委縮して諦めてよ。



「…それでも、私はその世界で生きる方々のたくましさに魅力を感じずにはいられません。…ユーリさんが、そうであるように。」



 だがユーリの期待は呆気あっけなく振り切られ、令嬢は只管ひたすらにその純真な瞳を輝かせていた。



——どうしてそうなるの? どうしてあたしをそんな目で見るわけ!?


——あんたはこのまま大人しく鳥籠とりかごに飼われた愛らしい小鳥として、どこぞの上流貴族にでももらわれればいいのよ。そうして平穏な家庭を築いて、当たり前に明日が訪れるよろこびを死ぬまで享受していればいいのよ。



——そんな当たり前の幸せの価値も見定められないあんたに、商人を目指す資格なんてあるわけないじゃない!



「私は、ユーリさんと対等になりたいんです。」



——お願いだから、そんな愚かしい夢なんていだかないで!!




 だがそのはかない願いをむなしくき消すには、丁度ちょうどいい機会だったのかもしれないとも思った。

 恐らくヴァニタス海賊団はアルケン商会としてこれ以上メンシス港にとどまることはできないと、かねてより推察されていたのである。



——ローレンは何としても伯爵はくしゃくと交渉して活路を見出そうとしているみたいだけど、あたしは潔く別の道を模索するべきだと思う…具体的な方針はまだ打ち出せそうにないけれど。


——そうすればネリネとも二度と関わることはない。でもそれで構わない。ネリネはあたしの世界に指一本でも染まることなく、いつまでも温かくまぶしい存在でいて欲しいのだから。



——それだけがあたしの願いだった。…それなのに。

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