第3話 悪魔の顕現

 意識を取り戻したばかりのドールは、数百という教徒たちの注目…不安、懐疑、失望、怒り、あらゆる負の感情を載せた視線を一身に受ける一方で、無様にも十字架にさらされている現実を呑み込むことができず早々に憔悴しょうすいしていた。


 普段から白髪はくはつ頭巾ずきんで隠しているとはいえ、ドールの髪の色はかねてより教徒たちに広く知られ渡っていたため、み子の伝承は間違いではなかったなどと恐れおののく会衆が後を絶たなかった。


 目下の大司教は普段と変わらない穏やかな口調で問いかけてきたものの、ドールはその言葉の裏に漂う失望や呵責かしゃく犇々ひしひしと感じ、小さく震えるように首を横に振ることしかできなかった。



貴女あなた今日こんにち、我々の信仰と伝道を是としない異端者と接触していた。…街に出向いていた幹部の者が、その一部始終を目撃していたのですよ。」



 大司教が口調を変えることなく、だが少しずつ差し迫るようにドールへ言葉を投げかけて来ていた。

 

 ドールは焦燥しょうそうとらわれつつもなんとか記憶をさかのぼり、誰と会い何を話していたかを咄嗟とっさに思い起こした。

 そしてその情景が具体的になってくると、黒い瞳を大きく見開き切羽詰せっぱつまりながら反論した。



「…!? …アメリアおばさんのことですか!? …違います大司教様、あの人は決して異端者などという野蛮な者では…!!」



「アメリア・トリナーデ…確かに彼女はディレクタティオで暮らして長い街の重鎮のような存在です。しかし、彼女はこれまで一度たりとも礼拝に足を運んだことはないのですよ。」



「そ、そんなことで異端者扱いするなんて…!」



「重要な点はそこではないのですよドール…何故なにゆえ今宵こよいの正教徒のつどいを抜け出して大聖堂の立入禁止区域に侵入したのですか? 意図的に周囲の目を忍び禁を破るような真似まねは、廻者まわしもののすることではないのですか。」



「…………。」



 ドールは見下ろしているはずの大司教の姿が少しずつ肥大化して逆に見下してくるかのような錯覚におちいり、肺がし潰されそうだった。

 大司教から直々に廻者まわしものと嫌疑を掛けられたことに愕然がくぜんとしながらも、必死で記憶を掘り返して状況を打開する手段を模索した。



——確かに大聖堂の図書室で隠し通路を見つけたことも、その先にある部屋に立ち入ったことも事実。その部屋の存在をアメリアおばさんにほのめかされたことも間違いないけど、それはおばさんの自宅の中での話だから盗み聞きされたとは思えない。


——そもそもこの大聖堂において立入禁止区域という規律自体が初耳だわ。図書室の蔵書はおおむね読破したと言っても過言ではないし、大聖堂にまつわる規律を私が見逃しているはずがない。それに、辿たどり着いた隠し部屋で何か教団にとって不都合な秘密に触れたわけでもない。後を付けてきた誰かに気絶させられて…。



 まだ後頭部からうなじにかけて残るしびれるような痛みに気付く一方で、いくつものぎぬを着せられているかのような事態に、全身から血の気が退く思いだった。


 だが規律の不知や不備を弁明したところで、礼拝を離脱しもぬけの殻となった図書室を詮索した事実を覆すことは叶わず、その動機を単なる好奇心と片付けるにはあまりにも無謀であることを認めざるを得なかった。

 これだけ大勢の教徒が不審の眼差しを向けている中で、駄々をねるように無実を訴えても逆効果にしかなり得ないだろうと考えた。


 それでも、ドールはこの恥辱的な状況をくぐり抜けるため、また自分の言動のせいで恩人でもあるアメリアに迷惑をかけないため、どうにか釈明の言葉を絞り出す他なかった。



「…禁域に立ち入ったのは、ただの興味本位です。以前から図書室の書架の配列に違和感をいだいており、調べる機会をうかがっておりました。ゆえに私は異端者の廻者まわしものではございません。そしてアメリア・トリナーデは此度こたびの一件と何ら関係はございません……ですから、どうか私だけに処分を下して終わりにしてください…。」



 ドールはこうべを垂れて弱々しく懇願した。沈黙に包まれていた大聖堂では、自分の声よりも動悸どうきの方が大きく響いているように感じられた。



——そう、これがきっといまできる最善。聞いたことのない規則違反をこじつけて聖なる十字架に縛り付ける時点で、明らかに理不尽で過激な処遇だと思うけれど、私の行動自体に弁解の余地はないし…アメリアおばさんまで異端者扱いされて巻き添えをらわないためには、いまここで私がすべてを背負うしかない。



「…わかりました。ドール、それが貴女あなたの答えであるならば、望み通りに致しましょう。」



 大司教は最後まで穏やかな声音を変えることなくドールに告げると、教徒たちの方に向き直り、祭壇に据えられていた司教杖しきょうじょうディヴィルガムをかざして宣言した。



「大いなる創世の神、ならびにグレーダンの御名みなによって、修道女ドールを厄災をもたらすラ・クリマスの悪魔であると審判し、即時『魔祓まばらいの儀』を執行致します。」




 想像を絶する最悪な処分の宣告に、ドールの身体は完全に凍り付いた。瞳を強張こわばらせ、間髪かんぱつを入れず祈祷きとうを捧げる大司教の背中を恐る恐る見つめた。



「天に御座おわします父なる神よ、我々は千年の時を超えてもなお弱くもろく、悪徳に溺れ悪魔の教唆きょうさに耳を貸してしまう愚かしい生き物であります。どうか我々が今一度いまいちど貴方によって掲げられた義をまっとうし、天の国に招かれ永遠の命を得るための歩みを絶やさぬために、預言者グレーダンが果たした御業みわざをここに再現してまわしき悪魔をはらい、我々の手によってこれを裁くことをお許しください。…それでは一同、各々おのおので祈りを捧げてください。」



 祈祷を終えた大司教が勧めると会衆の教徒たちが一斉に、両手で黒い鉱石のペンダントを握り締めながら各々の言葉で祈祷を捧げ始めた。

 その異様で不気味な喧騒けんそうが高波のようにドールのもとへ押し寄せ、もう誰一人として擁護ようごしてくれる者などいないという事実を叩き付けた。


 ドールの絶望にゆがむ表情は、やがて自分の胸元に突き付けられる司教杖しきょうじょうへ自然と向けられていた。豪勢できらびやかに飾られた杖のその先端には、刃物のように研がれた黒い鉱石が着装されていた。


 その客観的事実だけでも、自分が行きつく顛末てんまつを想像することは容易たやすかった。



「…どうして……私は、ラ・クリマスの悪魔なんかじゃ……。」



 うるんだ瞳の先では、大司教が最初からまったく表情を変えることなく司教杖しきょうじょうを構えていた。



「ドール、これは貴女あなたが幼い頃から本の虫であったがゆえ、好奇心にほだされて起きてしまった結果であると理解しています。ですが一方で貴女あなたは規律をわきまえ冷静に物事を判断することができる修道女でもあるはずです。その境界線が曖昧になった理由はただ1つ、貴女あなたに悪魔が顕現したからです。」


「我々グレーダン教の総本山で悪魔が顕現したとなっては、大陸中の信者に対して示しが付かないのです。あまつさ昨今さっこん壊月彗星かいげつすいせいが接近している時期ですから、悪魔の活動がより活性化する可能性があります。ですから、早急に『魔祓まばらいの儀』をり行う必要があったのですよ。」



 ドールは大司教の懇切丁寧こんせつていねいな審判に、早くも寿命を急速に吸い取られているかのような錯覚を引き起こしていた。


 だがその脳裏では、自分に一体何の悪魔が顕現したのか説明が一切為されていないことに違和感を覚え、必死に生にすがり付こうと抵抗する意志が生まれていた。



「…大司教様、私が一体何の悪魔にそそのかされたのか教えてください。かつてグレーダンが封印した7体の悪魔には、それぞれの根源となる7つの悪徳が存在し、『7つのいましめ』はそれらの悪徳を抑制するために交わされた約束であったはずです。」



 ドールが絞り出すような声音で訴えると、そこで初めて大司教の顔がやや曇ったように見えた。


 白髪はくはつゆえに対人関係が希薄きはくだったことに起因し、幼少の頃から大聖堂の図書室で本の虫だったドールは、創世の物語から預言者グレーダンの偉業や逸話いつわなど一通り読破しており、7体のラ・クリマスの悪魔にまつわる物語も豊富に記憶していた。


 もし大司教が下した審判の通りに自らに顕現した悪魔を分析するならば、『強欲の悪魔』が最も該当するに近いと考えられた。

 だが物語で語られる『強欲の悪魔』はいずれも健康や生存の執着に呼応する習性がえがかれ、諜報ちょうほうみた廻者まわしもののような描写は読んだことがなかった。


 グレーダン教でいましめる悪徳に該当しない架空の悪魔を創り上げて『魔祓まばらいの儀』を執行することはやはり理不尽であり、大司教の返答次第ではまだ弁明の余地があるかもしれないと、ドールはかすかな希望を想い浮かべていた。

 

 だが大司教は口元を緩ませながら、はっきりと回答した。



「グレーダン教は確かに、厄災の根源たる7つの悪徳をいましめるためのおしえです。しかし、仮に現状のおしえでは対処することのできない悪魔が生まれた場合、貴女あなたはどうするべきだと思いますか。そのときに新しい道を訓示することもまた、千年の時を経て歩み続ける我々グレーダン教の使命であると思いませんか。」



 ドールがいだいていたかすかな希望は、呆気あっけなく破裂して心に大きなあなを開けた。

 最早もはや理不尽を訴える余地もなく、ただ教団の士気のために自分の命が利用されるという無慈悲な末路を受け入れざるを得なかった。


 大きなあなにはとめどなく悲しみが流れ込み、決壊したように涙があふれ、全身は既に死んでしまったかのように冷たく感じられた。



「何をおびえているのですか。貴女あなたはこのディヴィルガムによって、悪魔の脅威から救われるのですよ。そのために貴女あなたはグレーダン教のおしえを学んできたはずでしょう。」



 ぼやけた視界の先では、大司教がはっきりと不気味な笑みを浮かべているのがわかった。それに呼応するようにして、あなに充満した悲壮感が愈々いよいよ破裂しそうなほどに膨れ上がった。



——嫌…やめて……私は悪魔なんかじゃない…こんなの、おかしい……。


——死にたくない……死にたくないよ……!!



「ああ失敬、貴女あなたはあの部屋で見て知っていたのでしたね。…つまりは、そういうことなのですよ。」




 そのとき、つんざくような爆発音が礼拝堂に響き渡り、ドールの周囲に青白い業火が盛大に巻き上がった。



**********



 恐らく、無意識に笑っていたのだと思った。

 


 今度こそ本当に死ぬかもしれないと察した瞬間、恐怖と悲しさが極限まで高まって身体が膨張していき、やがて抑えきれずに弾けた。

 それが刹那的せつなてきな快楽のように感じ…いな、快楽だったことを思い出して、不覚にもあやしげな笑みがこぼれてしまったのだろう。



 だから、死神に悟られてしまった。



 跳躍ちょうやくしながら間合いを詰めてきた死神はすんでの所で強引に身をよじって、瓦礫がれきの散乱する床に顔面から突っ込んだ。


 そしてドールの周囲に爆発に似た蒼炎そうえんが巻き上がった衝撃で、更に吹き飛ばされてしまった。


 さすがに無傷で回避することは叶わず、死神の身にまとっているローブはあちこちがくすぶり、仮面の口元部分が砕けて露出していた。

 大聖堂を無惨むざんな廃墟に変え、教徒たちをことごとく焼き尽くした厄災の業火ごうかを多少なりともらってなお軽傷でしのいだその姿に、ドールは冷ややかな視線を送った。



「…しぶとく避けるのね、死神さん。それにそのローブ…まるで最初からこの厄災が起こることを予見して備えていたみたい。」



 ドールは左手で緩くつかを握りだらだらと大鎌を引きりながら、蹌踉よろめき立ち上がる死神の方へゆっくりと歩み寄っていった。


 深紅の瞳が燃え上がるような光をたたえ、虚ろに微笑ほほえみかけるその姿を、壊月彗星かいげつすいせいが祝福するように照らし出していた。



「…でも、いつまでこの厄災から逃げられるかしら?」

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