第5話 邂逅

 その後、俺たちは夜中だというのに荷物を急いでまとめて宿を飛び出した。

 ほとんど真っ暗な山の中をスマホのライトだけを頼りに、山道を走って町へと逃げ帰って来た。

 行きはあんなに辛かった山道だったけど、帰りはそんなことを考える余裕もないまま、途中一度も足を止めることもないまま一気に下った。

 登山口にある旅館専用の駐車場に辿り着いた時には全員ほっとしたと同時に、それまでの緊張と疲労が一気に押し寄せて来て、帰りの車内は誰一人として口を開く者はなかった。


 あれくらいの事でそんなに怖がることないんじゃない?そう思う人がいるなら想像してもらいたい。今これを読んでいる時、急に部屋の扉が勝手に開いたら…。目の前に置いてあるペットボトルが突然壁に向かって飛んで行ったとしたら…。

 あなたはその時、平静でいられるでしょうか?


 あれから一週間が過ぎ、俺たちはようやく落ち着きを取り戻すことが出来た。

 それまでと変わらない大学生活を過ごし、講義が終わればバイトに行く。

 休みの日は部屋でゆっくりと過ごし、たまに買い物に出かける。

 そんな今まで通りの日常を過ごしている。


 ああ、一つだけ変わったことが。

 俺と恭子は正式に付き合うことになり、休日の過ごし方に「二人で」という部分が追加されたことだ。

 雄二と朱莉も顔を見れば相変わらず喧嘩のようなやり取りで笑い合っていて、全員があの日の事が無かったかのように振舞う日々を送っていた。


 でも、あれ以来誰一人として、あの日、あの旅館で起こったことについて話をしようとはしなかった。

 きっとこれからどれだけの時間が流れたとしても、俺たちがそのことに触れることはないと思う。

 少なくとも俺はそのつもりだ。

 口に出さなければ、いつか忘れてしまうだろう。

 子供の頃の思い出が、本物だったかどうか虚ろな記憶となるように。

 そしていつかあれは夢を見たのだと思えるように。

 いや、今がその悪夢の中にいるのかもしれない。

 それならば忘れた時がその悪夢から目が覚めた時だろう。

 いつかくる。

 時間が経てばきっと思い出せなくなる時がくる。

 今の俺はそう願うしかなかった。




「おぎゃぁぁぁ」

 分娩室の中から元気な赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。


「産まれましたよ。元気な女の子です」

 部屋から出てきた医師が穏やかな顔で俺にそう言った。


 喜びで震える足で俺は分娩室の中へと入っていく。

 ベッドに横たわる恭子。

 その腕の中には生まれたばかりの小さな命が抱かれていた。


「お疲れ様」

 こういう時に何と声をかけていいのか分からなかった俺は、気の利いたことも言えず、どこか他人事のようなことを言ってしまう。

 恭子は汗で乱れたままの髪で産まれたばかりの赤ん坊の顔を見ていた。


「ねえ、あなた……」


 恭子は俺の方を見るでもなくそう呟く。


「見て。この子……」


 どこか虚ろな目で――


「きっとこの子は美人になるわ…」


 その意識が今ここに無いかの様に――


「だって……あの時に見たひとにそっくりなんだもの」


 微かな笑みを浮かべていた。


 夢は――まだ覚めない。




― 洋玖サイド 完 ―




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